平常展 没後70年 山下青厓・鏑木華国

開催日 平成24年11月17日(土)〜12月24日(月・祝)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室1

山下青厓・鏑木華国の二人は、渡辺小華の弟子で、今年が没後70年にあたります。

展示作品リスト

企画展示室1
山下青厓 (1858〜1942)
No. 作品名 制作年 備考
  春庭香艶図 明治30年(1897)  
  緑竹群雀之図 昭和時代前期  
  蘆汀群雁之図 明治38年(1905) 個人蔵
  柳桃双禽之図 明治45年(1912) 館蔵名品選第2集97
  全楽堂先生有紅葉宿寿図 大正7・8年(1918・1919) 個人蔵、青_・華国
  桜花之図 昭和14年(1939) 個人蔵
  青厓画集 昭和9年(1934)  
渡辺崋山 (1793〜1841)
No. 作品名 制作年 備考
11 鄭老画蘭之詩扇面 天保年間 鏑木華国旧蔵、鏑木家寄贈
13 詩稿 文政11年(1828) 鏑木華国旧蔵、鏑木家寄贈
12 尺牘鏑木眞木宛 江戸時代後期 鏑木華国旧蔵、鏑木家寄贈
鏑木華国 (1868〜1942)
No. 作品名 制作年 備考
28 崋山先生昆虫写生冊子   大正3年(1914)外題、鏑木家寄贈
  鏑木華国先生寿像 昭和時代前期 鏑木潤三氏寄贈
33 崋山翁印譜 明治時代 華国・華陵・長尾清江・大河戸晩翠添画
  椿椿山筆崋山先生四十五歳之像・
立宛遺書模写
昭和時代前期  
  鐘馗図 大正時代 小澤耕一氏収集資料
  崋山椿山如山印譜 立宛遺書模写 昭和時代前期  
34 崋山印影 松之図 昭和7年(1932) 鏑木家寄贈
  崋山先生筆先聖先師孔子立像(模写) 明治22年(1889)  
  孔門十哲像模写    
   卜商(子夏) 明治22年(1889)  
   言偃(子游) 明治22年(1889)  
   端木賜(子貢) 明治22年(1889)  
   宰予(子我) 明治22年(1889)  
   仲由(子路) 明治22年(1889)  
   顔回(子淵) 明治22年(1889)  
   閔損(子騫) 明治22年(1889)  
   冉耕(伯牛) 明治22年(1889)  
   冉雍(仲弓) 明治22年(1889)  
   冉求(子有) 明治22年(1889)  
39 渡辺崋山筆四州真景図(写本) 明治29年(1896) 鏑木家寄贈
39 椿椿山筆山海奇勝図(写本) 明治29年(1896) 鏑木家寄贈
44 短刀   鏑木家寄贈
13 鏑木家書画目録 大正4年(1915) 鏑木家寄贈

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

↑ページTOPへ

作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

山下青厓 安政5年(1858)〜昭和17年(1942)

現在の浜松市浜北区貴布祢に生まれ、名は伊太郎、字は孝雄、号は17歳で龍渓、30歳で聖崖・青崖、32歳で青厓、他に梧竹園、碧雲書屋等と号す。明治20年(1887)に上京し、小華塾に通い、小華の明治宮殿杉戸絵作成を手伝った。渡辺崋山・椿椿山の作品を模写し、浜松郊外の笠井で絵画制作に励んだ。明治28年に第4回内国勧業博覧会に出品した。崋山作品の鑑定家としても活躍した。

鏑木華国 明治元年(1868)〜昭和17年(1942)

田原藩士鏑木轍の長男として生まれた。幼時より、渡辺崋山の息子、小華に就き、画を学ぶ。明治43年に崋山会が創立されると、常務理事となり、渡辺崋山70年祭を記念して、遺墨展覧会が開催され、その監修をし、翌年『渡辺崋山遺墨帖』を発行し、また、昭和9年には田原城二ノ丸櫓跡に崋山文庫を建設し、崋山顕彰に努めた。昭和17年に東京の三男敬三宅で亡くなった。

↑ページTOPへ

作品紹介

渡辺崋山 尺牘鏑木眞木宛

一筆啓上候。冷気、御安和奉賀候。御課題二首奉呈候。宜御刪正御上可被下候。高作共拝見奉願候。頓首拝啓
 十月初四      渡辺登
  鏑木様
  真木様
課題歌の送り状である。田原藩士の有志で、歌の募集をし、藩主に献上したもの。「御刪正」とは、添削を願うこと。「鏑木」とは、鏑木三郎左衛門方綱、俳号を以中という。文化文政時代に納戸役、中目付役を勤め、天保2年(1831)に村奉行となった。天保5年2月末、隠居し、家督を矢六に譲る。「真木」は真木重郎兵衛定前のこと。残念ながら歌は存在しない。

山下青厓 柳桃双禽之図 天保9年(1838)

画面左上に「柳色新如染 桃花香満村」とあり、その次に「壬子春日寫於梧竹園南軒青p山下孝」と落款がある。白文方形印の「山下孝印」と朱文方形印の「青p」を捺し、画面右下に「孝雄之印」を捺す。大正5年(1916)上野で青p百幅会を開催し、230幅の作品が出品された。この作品のような繊細で、華麗な着色画に人気があった。

↑ページTOPへ