平常展 ふるさと学習 田原の歴史 田原藩士村上範致、井上華陵

開催日 平成24年11月17日(土)〜12月24日(月・祝)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室2

田原藩は、幕末に、蘭学研究を推進し、西洋流砲術をいち早く採用した。その中心となったのは、家老村上範致であった。

展示作品リスト

企画展示室2
村上範致 (1808〜1872)
No. 資料名 制作年 備考
1 村上家由緒 文政2年(1819) 村上理右衛門〜村上財右衛門、村上家伝来
  漂民聞書 安政2年(1855) 田原市指定文化財、村上家伝来
24 漢詩冊 安政6年(1859) 高島秋帆筆、村上家伝来
  高島流砲術伝書 江戸時代後期  
  兵学書 安政元年(1854) 高島秋帆、個人蔵
  墨竹図、村上定平宛書簡 天保12年(1841) 渡辺崋山、個人蔵
  江川坦庵像(複)   原本は江川文庫蔵
8 安政乙卯 聞見雑録二 安政2年(1855) 村上家伝来
9 安政丙辰 聞見雑録三 安政3年(1856) 村上家伝来
10 安政四丁巳 聞見雑記四 安政4年(1857) 村上家伝来
11 安政五戊午 聞見雑記五 安政5年(1858) 村上家伝来
12 安政六己未 聞見雑記六 安政6年(1859) 村上家伝来
13 萬延元庚申 聞見雑記七 万延元年(1860) 村上家伝来
14 文久元辛酉 聞見雑記八 文久元年(1861) 村上家伝来
15 慶應四丁卯年 聞見録 明治元年(1868) 村上家伝来
  順応丸材料片   田原藩使用軍船、井上親画
  順応丸画   昭和時代写し
  弾薬箱 江戸時代後期  
  砲弾鋳型 江戸時代後期 田原藩使用
10 Atlas van XL Paten behoor-ende
bij de Handleiding tot de Kennis
van den Vestingbouw.
(築城教範の附図40よりなる図帖)
1846年 BREDA著、田原市指定文化財
20 外藩旗譜 天保年間 田原市指定文化財
  高島流砲術中位伝授 嘉永5年(1852) 村上家伝来
鈴木春山 (1801〜1846)
No. 資料名 制作年 備考
15 蘭書 (写本) 天保年間 田原市指定文化財
  三兵活法 (写本) 安政4年(1857) 田原市指定文化財
井上華陵 (1862〜1930)
No. 資料名 制作年 備考
  雉子図襖 大正9年(1920) 企画展示室1にて展示中
  松図襖 大正14年(1925) 企画展示室1にて展示中
  松に南天に小禽の図 大正8年(1919)  
  水鳥の図 大正8年(1919)  
  牡丹に雀の図 大正8年(1919)  
  蓮に翡翠の図 大正8年(1919)  
  桜に雉子の図 大正8年(1919)  
  雁の図 大正8年(1919)  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

鈴木春山 享和元年(1801)〜弘化3年(1846)

江戸末期の蘭医・兵学者。田原藩医。名は強、童浦と号した。文化11年(1814)岡崎の医師浅井朝山について医術を学び、のち江戸に出て、朝川善庵の門に入り漢学を修めた。長崎で西洋医学を修め、また西洋兵学を研究し、文政7年再び江戸に出て、渡辺崋山・高野長英らと交わる。兵学書を多く著し、国防の急務を説いた。著『三兵活法』『海上攻守略説』『兵学小識』など。

江川坦庵 享和元年(1801)〜安政2年(1855)

江川英毅(1770〜1834)の子として生まれ、天保6年(1835)、父の死後、伊豆韮山代官職と36代太郎左衛門を継ぐ。字は九淵、号を坦庵と称す。所領は武蔵・相模・伊豆・駿河、のちに甲斐の幕領も加わった。優秀な人材を登用し、民政を施し、「世直し大明神」と呼ばれた。種痘奨励、パンの製造でも知られる。
 渡辺崋山と交遊し、海防のため高島秋帆(1798〜1866)に砲術を学び、佐久間象山(1811〜1864)、木戸孝允(1833〜1877)らに教授した。嘉永6年(1853)のペリー来航の時、勘定吟味役格となり、品川沖に砲台の台場を築造、また、韮山に砲身鋳造のための反射炉(国指定史跡)建造に着手したが、完成(1857)を見ずに没した。

村上範致 文化5年(1808)〜明治5年(1872)

江戸時代末期の砲術家で、田原藩家老である。田原に生まれ、通称は定平(さだへい)のち財右衛門、号は清谷(せいこく)。高島秋帆に洋式砲術を学び、各地の藩士に指導を行って日本における洋式砲術の普及に貢献した。また、田原藩の重役として海防事業や産業振興に従事した。村上家はもと三河国加茂郡挙母(現豊田市)の出身で医師をしており、のち田原藩領内赤羽根(現在の田原市赤羽根町域)に移住、正徳年間(1711年〜1715年)に田原藩に仕えたと伝えられる。範致の生まれた頃の家は代官職17俵二人扶持と出身身分は低かったが、範致の卓越した武芸と意志の強さが評価され、藩隠居三宅友信の近習となった。江戸家老であった渡辺崋山の目に留まり、彼の薫陶と引き立てを受けるようになる。その際に崋山の影響を受けて蘭癖であった友信の膨大な蘭学書を読む機会があり、範致は銃砲術に強い関心を抱くようになった。また、江戸在府中に幕臣の江川英龍や下曽根金三郎の知遇を受け、ともに砲術の研究をするようになった。その中で優れた西洋流砲術家として高島秋帆の存在を知ることとなった。また、一方では斎藤弥九郎から神道無念流を学び、免許皆伝を得た後、田原に戻って同流を広めた。天保年間、範致は江川らとともに高島秋帆に入門、西洋流砲術を学び、同12年5月に行われた徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区)で行われた演習に参加している。これに先立って崋山は蛮社の獄のため、田原に蟄居していたが、範致の入門を心から喜んでいる旨の書簡が残っている。この時は数ヶ月教授を受けて田原に戻ったが、翌天保13年(1842)夏には長崎にあった高島秋帆を訪ねて再び師事している。同年冬に帰国して田原で鉄身の大砲と砲弾を鋳造、翌年正月には藩主三宅康直の前で高島流砲術を披露し、その後田原藩の砲術に高島流を導入していくとともに、藩校成章館で多くの藩士を教育した。またこの間、師の高島秋帆が幕府江戸町奉行鳥居耀蔵の起こした疑獄事件により蟄居の身となったこともあり、範致の砲術を知った諸藩の藩士が田原の範致邸を訪れ、彼に師事した。大垣藩など、これが大きな理由となって幕末に武備を充実させた藩も多い。さらに嘉永3年(1850)には田原藩軍制を西洋式に変更、農兵部隊を組織した。安政3年(1856)には西洋式帆船順応丸の建造に着手し、江川英敏(英龍の子)や先行して建造していた長州藩などの協力の下、翌々年に竣工させた。文久2年(1862)には幕府から講武所の高島流砲術の世話役に請われて就任し、江戸に出て幕臣や各藩の藩士に砲術を指南した。安政5年(1858)、範致は田原藩の家老に就任、イリコ・淡菜などの海産物の生産を奨励し、これを西国に輸送することで収入を得ようとした。まもなく幕末騒乱期となり、明治維新となるが、範致は要職にあって藩をよく支えた。明治2年(1869)、新政府から藩大参事を任命され、続けて藩政に当たった。3年後に病死し、墓は田原市の蔵王霊園にある。また、明治30年(1897)、勝海舟題額・細川潤次郎撰文による碑が田原城跡三ノ丸に建立された。

■田原藩の砲術を学びに来藩した各藩士の人数■

上田藩(信濃国)1・宇和島藩1・大垣藩16・岡崎藩2・掛川藩4・刈谷藩2・金沢藩2・志波(常陸国旗本領)1・西条藩(伊予国)1・仙台藩1・西ノ郡(旗本領)3・姫路藩1・水戸藩2・守山藩(陸奥国)2・吉田藩8

井上華陵 文久2年(1862)〜昭和5年(1930)

田原藩士日高親邦の二男に生まれ、名は泰次郎、明声館と号した。明治14年(1881)実母の弟家へ婿入りし、井上家を継ぎます。画を渡辺小華に師事し、崋椿系の鑑定をよくした。明治17年から渥美・八名の学校で教職に就き、同43年教員退職後、大正3年(1914)から県社巴江神社社司となり、昭和3年(1928)退職。画風は小華風の花鳥画を得意としました。

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作品紹介

村上家由緒

村上家の先祖からの略歴を藩に届けたもの。村上理右衛門〜村上柳元〜村上財右衛門照寿〜村上財右衛門照尚〜村上財右衛門照乗〜村上財右衛門照員の次が範致であった。
 祖、理右衛門は三河挙母梅カ坪出身。その子柳元は田原藩領内赤羽根村で医師を営む。柳元の子、照寿が三宅康雄侯に田原仕えて藩士となった。

漂民聞書

三河国渥美郡江比間村伊藤与市持船の廻船であった永久丸のアメリカなどへの漂流の様子について、詳細に記録された漂流記である。田原藩主三宅康保が安政2年(1855)に藩士の村上範致、萱生景福、稲熊元長に命じて、田原に帰った漂流民作蔵、勇次郎から漂流の顛末を書き取らせたものである。全12巻により構成され、美濃本5冊にまとめられている。安政3年正月完成。安政2年10月28日の部分に「江戸にて渡辺舜治(小華のこと)アメリカ漂流人持帰りの品物写生を命ぜられる(諸事留)」とあり、また、「一 渡邉舜治へ亜米利加漂流人持帰り之品物写物今日より申付候以上」とある。また、数日後の11月3日には「一 渡邉舜治罷出写物致候事」とあり、渡辺小華が巻十二の衣服器械図を描いたということになる。藩に提出したものもあろうが、村上範致の家に控として伝来した資料である。
 内容は、「巻之一」に、嘉永4年(1851)の漂流開始から嘉永5年3月、アメリカの捕鯨船に助けられ、その船とともにベーリング海峡から北極海に入り捕鯨をしたことが記される。「巻之二」では、ベーリング海峡から北太平洋を経て、嘉永5年9月下旬にサンドイッチ諸島にあるハワイ島に到着し、その隣のオアフ島で三月程過ごし、岩吉たちと別れたことが記される。「巻之三」には、嘉永6年1月にオアフ島を出発し、1月ほどでギルバート諸島オーシャン島に着き、食料を購入して、又1月でマリアナ諸島グァム島に着き、そこで1月程逗留して、4月中旬グァム島を出発、再び北太平洋よりベーリング海峡を越えて、ロシアの北辺にて捕鯨をしたことが記される。「巻之四」では、嘉永6年8月にロシアの北辺を出発し、ベーリング海を越えて、マウイ島に着岸し、燃料食料を積み、針路をさらに南東にとって約二ヶ月半ほどの嘉永7年正月中旬に南アメリカのパイタ、ピラウ付近に着岸し、さらに南に進み、同年2月中旬南アメリカ最南端にあるホーン岬を廻って、4月下旬にアメリカ共和国の東にある「ニューベッドフォード」に入港するまでのことが記される。「巻之五」では、ニューベッドフォードに1月あまり逗留した後の嘉永7年5月下旬、旅館を出発して、ボストンに至るまでのことが記される。「巻之六」は、ボストンからニューヨークに行き、再びボストンに戻るまでのことが記される。「巻之七」は、ボストンを6月中旬に出発し、赤道を越え、ホーン岬を廻り、南アメリカのバルパライソに着岸し、再び赤道を越えて、嘉永7年8月下旬にアメリカ西海岸のカリフォルニアに至るまでのことが記される。「巻之八」は、カリフォルニアを嘉永7年9月初旬に出発し、約40日で香港に11月中旬、到着し、いよいよ香港を11月17日に出発して、12月12日に下田港に到着し、その後、田原藩へ引き渡しが完了するまでのことが記される。「巻之九」は、雑事として、巻一〜八までの紀行文中に記述できなかった諸々の事項について記される。気候・産物・人物・動物・食物・乗物・建物・風俗習慣・生活様式・捕鯨・船・軍備・都市の様子などが箇条書きで紹介されている。「巻之十」は、共和国言語として、アメリカの言語(英語)が、天文・地理・時令・人倫・身体・疫病・宮・会話等々の日本語に分類され、その下に英語(作蔵口述)をカタカナで、さらに綴りのわかる範囲で英文文字が記される。日本語で35分類された語彙は、総数で929語、内英文文字が付載去れたものは559語に及ぶ。「巻之十一」は、諸国の物産として、鉱物・食物・植物・調味料・鳥類・動物・魚類・鯨などについて絵が添えられ解説されている。「巻之十二」は、衣服器械図として漂流民作蔵、勇次郎がアメリカより田原藩に持ち帰った洋服・シャツ・ズボンなどの衣類や・櫛・歯ブラシ・ナイフ・フォークなどの生活用品が絵で記される。

漢詩冊

高島秋帆から村上範致に贈呈された書帖である。秋帆は長崎の来舶清人施南金から書を学び、唐様書家としても名高かった。安政年間から秋帆が亡くなる慶応2年(1866)正月までの書画類は多いが、伝来のわかる資料としても貴重である。

高島流砲術傳書

この本は3巻3冊本であり、蘭書の原本であるファン・デル・ミュエレン著『砲術便覧』(1807年)を翻訳、編集したもので本来の高島流砲術傳書の形態である。所蔵由来は不明であるが、旧田原藩士族の家に伝わったもので、貴重な新発見資料と言える。元はオランダ海軍兵学校士官候補生用の教授テキストとして配られたものである。抄写本「高島流傳書」に比べ、朱書があまり見られず、本来の伝写本と考えられる。

墨竹図・村上定平宛書簡

村上は天保12年5月9日に徳丸原で催された洋式銃隊操練に参加していた。崋山が村上に対して、西洋流銃陣の先駆者として激励している。定平の履歴書に5月12日に「男子出生有之候」とある。この翌年6月に、長崎の高島秋帆を訪ね、西洋流砲術を伝授され、田原藩の西洋流砲術の指導者となっていく。

安政乙卯聞見雑録二

「聞見雑録」とあるように、村上範致によるメモ書きの冊子である。村上家には、安政2年(1855)の「安政乙卯聞見雑録二」から「慶應四丁卯聞見録」までの8冊が現存した。大きさもほぼ一定で、この冊子では、寛永11年(1634)の三代将軍徳川家光の寛永御前仕合から始まり、浦賀へ来航したアメリカ船、ロシアのプチャーチン、ジョン万次郎のことや嘉永7年(1854=安政元年)3月3日の日米和親条約の写しなども記録されている。

順応丸材料片

田原藩では蝦夷地開拓や交易を目的に大型帆船の建造計画を行った。領内波瀬村の海岸に造船場を作り、安政4年(1857)4月に幕府に造船伺いを提出、船大工を集めた。同年5月に幕府から許可が下りたころには、すでに造船は着々と進行していた。藩主康保も度々視察に訪れている。同年9月に進水、順応丸と名付けられた。蝦夷地開拓は頓挫したが、順応丸は国内交易に活躍したが、慶応元年(1865)老朽化により解体された。この木板は、順応丸の材料と伝えられるもので、田原藩士の後裔である井上親による順応丸についての絵と書付が記されている。

砲弾鋳型

田原藩で製作した砲弾(ガラナード弾等)の鋳型で、瓦器質の焼き物である。

三兵活法

ドイツのブラントの原書をオランダのミュルケンが訳し、さらに日本の鈴木春山が翻訳した兵書。歩兵・騎兵・砲兵の三兵に関した近代式兵術のさきがけとなった。

雉子図襖・松図襖

この二組の襖絵は、現在の田原市本町通りにあった元醸造業を営んでいた家にあった。松図襖には「於巴江神社」とあり、いずれも井上華陵が社司を勤めた時代の作品である。

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