平常展 愛知県美術館サテライト展示

開催日 平成24年8月11日(土)〜9月23日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

展示作品リスト

特別展示室
番号 作品名 作者名 備考 時代 制作等 法量(単位㎝) 形状 材質・技法
12 旭日鶴図 英一蝶   18世紀前半 41.9×67.5 掛幅 絹本着色
13 梅に叭々鳥図 建部凌岱   18世紀 128.1×63.1 掛幅 絹本墨画淡彩
15 趙州狗子図 仙厓義梵  自賛 18世紀後半〜19世紀前半 94.3×30.8 掛幅 紙本墨画
11 著色四季源氏之図 渡辺清   1858(安政5年) 150.1×83.4 掛幅 絹本着色
14 雪中古松小禽図 松村景文   19世紀前半 120.0×46.3 掛幅 絹本墨画淡彩
9 湖城柳色図 青木蒲堂   19世紀 130.6×36.7 掛幅 絹本着色
10 鶯宿梅之図 日比野白圭   1909(明治42年) 97.1×34.1 掛幅 絹本着色
17 暁山雲図 富岡鉄斎   1923(大正12年) 42.7×35.0 掛幅 紙本墨画淡彩
18 湖山秋意 平福百穂   20世紀前半 48.5×50.7 掛幅 紙本着色
2 秋汀鶺鴒 岡本柳南   1923(大正12年)頃 131.0×33.5 掛幅 絹本墨画淡彩
4 枯木寒鴉 岡本柳南   20世紀前半 25.0×62.4 掛幅 紙本墨画
5 東郊春望図 岡本柳南   1927(昭和2年) 33.6×63.3 掛幅 紙本墨画淡彩
1 波生野水雁初来 岡本柳南   1927(昭和2年) 34.5×63.4 掛幅 紙本墨画淡彩
7 竹林細雨 岡本柳南   1928(昭和3年) 30.8×62.0 掛幅 紙本墨画
8 蜻蛉飛泉 岡本柳南   1932(昭和7年) 32.6×58.9 掛幅 紙本墨画淡彩
6 寒林晩鴉 岡本柳南   20世紀前半 29.8×59.5 掛幅 紙本墨画
3 老松長寿 菊花報喜 (双幅) 岡本柳南   20世紀前半 131.8×49.8
132.3×49.3
掛幅 絹本墨画淡彩
16 椿に黒鶫 熊谷守一   1966(昭和41年) 43.8×55.1 掛幅 紙本墨画淡彩
20 樹焔 平川敏夫    1960年代 89.8×54.7 掛幅 紙本着色
21 リンドウの図平鉢 香月泰男   1958(昭和33年) 口径36.5 陶器 彩色
22 フリージャの絵平鉢 香月泰男   1958(昭和33年) 口径37.0 陶器 彩色
19 ざくろ 香月泰男   1958(昭和33年) 38.0×26.0 紙・水彩・クレヨン・鉛筆
23 天人遊楽 須田剋太   20世紀 1.3×31.0×21.8 陶器 彩色
24 天人遊楽 須田剋太   20世紀 口径27.2 陶器 彩色

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作家略伝

青木蒲堂 文化7年(1810)〜明治5年(1872)

青木蒲堂は山本梅逸の門人であり、名古屋で酒造業を営みながら、梅逸風の文人画を描いた。梅逸に倣って、真景図を多く描いている。

岡本柳南 嘉永元年(1848)〜昭和9年(1934)

名古屋城三之丸御土居下屋敷に尾張藩士岡本梅英の長男として名古屋に生まれる。名は申夫、字は公寿、通称を万平、別号に掬翠山房・対竹草堂等がある。画を好み山本梅逸に学んだ父の教えを受け、福島柳圃に南画を学ぶ。名古屋市の建築課に奉職し、官吏の道を歩んだ後、徳川家の営繕事務を勤めた。多芸で篆刻・漢詩・俳句なども能くした。梅逸風の格調高い画風を特徴とし、中部地域における南画の継承者として知られる。

香月泰男 明治44年(1911)〜昭和49年(1974)

東京美術学校在学中から国画会に出品し、卒業後は美術教師を勤めながら制作した。昭和18年(1943)応召し、敗戦後、シベリヤに抑留され、昭和22年復員した。抑留生活の体験を基に「シベリヤ」シリーズを制作し、郷里の三隅町にアトリエを構えて絵画の可能性を追求した。

熊谷守一 明治13年(1880)〜昭和52年(1977)

岐阜県恵那郡付知村(現在の岐阜県中津川市付知町)で7人兄弟の末子(初代岐阜市長熊谷孫六郎の三男)として生まれる。明治33年(1900年)東京美術学校西洋画家選科へ入学し、長原孝太郎、黒田清輝らの指導をうける。明治37年に卒業し、明治38年樺太調査団として2年間参加し、アイヌの人々の生活を見て、『自然に生きる』姿に感銘を受けた。無欲で物事に執着せず、仙人のような人と言われた。自宅の庭には草花を植え、池を掘って魚や蛙を放し、小鳥や虫、猫などたくさんの「いのち」に囲まれた生涯を送った。

須田剋太 明治39年(1906)〜平成2年(1990)

腎臓を患い独学で絵を学ぶ。1933(昭和8)年白日会に入選、以後光風会、文展などに入選し画家として活動を始める。1950年代から60年代にかけて長谷川三郎の感化により抽象画を描き、1970年の個展以降具象画に戻ったが、これは司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズへ挿絵を描くことに起因している。1977年日本橋三越での個展以降本格的に具象画に取り組んで行くことになる。戦後まもなく関西に移った頃から書にも関心を示し、現代書家との交流も持つようになり、書の中にも造形的感覚を示している。

仙厓義梵 寛延3年(1750)〜天保8年(1837)

仙厓は臨済宗の禅僧。武蔵で修業した後、諸国行脚を経て、40歳から約20年間、博多の聖福寺の住職として寺の再興につとめた。隠棲後は京都や壱岐などにも遊ぶが、87歳で再び同寺の住職となる。幅広い学識で弟子を育成し、博多の町人とも親しく交わった。布教活動の一環として、人々の求めに応じて軽妙な禅画を数多く描いた。

建部凌岱 享保4年(1719)〜安永3年(1774)

弘前藩の家老の家の出身だが、京都の東福寺の僧などを経て、江戸に出て俳諧で身を立てた。その後長崎を訪れ、西洋絵画の陰影法などを取り入れた。当時最新の中国明・清時代の花鳥図や山水図のスタイルを学んだ。晩年には京都で活躍した。

富岡鉄斎 天保7年(1836)〜大正13年(1924)

絵画に関心を寄せながら皇学と儒学を学び、江戸時代末期の動乱の中を生きた。明治初期は全国を旅し、維新がなってからは大和石神神社、和泉の大島神社、京都の車折神社に関係し、1881(明治14)年兄の死と共に大阪の宮司を辞して京都に帰り、読書と書画の制作に専念した。京都美術協会評議員、市美術学校修身科教員、日本南画協会商議員として美術界とも関係した。晩年に至り水墨と彩色のいずれにおいても独創的な様式を生み出し、近代日本文人画の代表的作家となる。

英一蝶 承応元年(1652)〜享保9年(1724)

江戸狩野の画家で、初め狩野安信の門人であったが、軽妙な画風の風俗画家として人気を博した。約10年間三宅島に遠島となり、赦されて江戸に戻った後、一蝶と号した。松尾芭蕉につき、俳諧もよくした。

日比野白圭 文政8年(1825)〜大正3年(1914)

尾張藩士の家に生まれた。土佐派をはじめとする諸派の画家を学び、明治時代を通して活動した。白描や水墨を主体としたさらりとした絵が多い。

平川敏夫 大正13年(1924)〜平成18年(2006)

幼少時1年間の療養生活を送り、中学進学を断念。京都稲石着尺図案塾に入門。稲石武夫に指示し1年の修行生活で基礎を学ぶが、翌年開戦のため帰郷。我妻碧宇主宰の新日本画研究会にて、中村正義らと共に学ぶ。1950(昭和25)年創造美術展にて初入選。翌年中村正義・星野眞吾らと画塾(中日美術教室)を開校。1954年新制作協会展にて新作家賞を受賞。1963年新制作協会会員に推挙される。1974年新制作協会日本画部が創画会として独立し、同会会員となる。中日文化賞を受賞するなど地元での高い評価を受ける。1988年には愛知県文化功労者表彰を授与される。

平福百穂 明治10年(1877)〜昭和8年(1933)

四条派の画家平福穂庵の子として生まれた。上京して川端玉章に入門し、東京美術学校で学んだ。明治期には无声会の結成に参加し、また雑誌や新聞に挿絵を描くなどして活躍した。大正期には小川芋銭らと珊瑚会をまた、鏑木清方、吉川霊華、松岡映丘らと金鈴社を結成して作品を発表した。さまざまな作風展開を示し、文展・帝展の中心的作家として活動した。

松村景文 安永8年(1779)〜天保14年(1843)

松村呉春の異母弟で、若い頃から呉春に学び、軽やかで温雅な雰囲気の花鳥図で人気を博した。呉春の没後は、四条派の中心画家として活躍した。

渡辺清 安永7年(1778)〜文久元年(1861)

京都で田中訥言と土佐光貞に大和絵を学んだ後、名古屋で復古大和絵派の画家として活躍し、尾張藩の御用もつとめた。文人画家の山本梅逸や中林竹洞とも親しく交流した。

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