平常展 生誕140年岡田虎二郎展

開催日 平成24年6月2日(土)〜8月5日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室2

岡田虎二郎(1872〜1920)は田原に生まれ、全国の偉人を訪ね、様々な思想や哲学を学びました。自らの経験から得た自然の原理を基に、独自の静坐・呼吸法を創案しました。この静坐法は一世を風靡し、皇族・学者・実業家など、1万人を超える人が実践しました。

展示作品リスト

企画展示室2
生まれ
No. 資料名 制作年 備考
森田 岡田虎二郎デスマスク 大正9年(1920) 北村正信作
写真1 父 岡田宣方   春堂文庫蔵
参考写真 辻広場(岡田虎二郎生家跡)    
14 生地・生家見取図   春堂文庫蔵
育ち
No. 資料名 制作年 備考
126-1 田原学校下等小学第八級卒業証書 明治11年(1878) 春堂文庫蔵
126-2 田原学校下等小学第五級卒業証書 明治15年(1882) 春堂文庫蔵
126-3 田原学校小学初等科第二級卒業証書 明治16年(1883) 春堂文庫蔵
126-4 渥美郡役所田原学校初等二級学術優等三等賞 明治16年(1883) 春堂文庫蔵
126-5 田原学校小学初等科第一級卒業証書 明治16年(1883) 春堂文庫蔵
126-6 愛知県渥美郡二十九学区田原学校小学初等全科卒業証書 明治16年(1883) 春堂文庫蔵
126-7 田原学校小学初等全級卒業学術優等褒章 明治16年(1883) 春堂文庫蔵
126-8 田原学校中等五級卒業学術優等褒章 明治17年(1884) 春堂文庫蔵
126-9 渥美郡役所田原学校中等五級卒業学術優等賞 明治17年(1884) 春堂文庫蔵
126-10 愛知県渥美郡役所田原学校中等全級卒業学術優等賞 明治19年(1886) 春堂文庫蔵
静坐
No. 資料名 制作年 備考
森田 静坐童子 昭和51年(1976)復刻 島津製作所、原模型大正年間制作
69 静坐童子写真   春堂文庫蔵
90 岡田式静坐法 大正3年(1914) 改訂46版、春堂文庫蔵
静坐への道
No. 資料名 制作年 備考
写真2 病弱時代の面影 明治27年(1894) 23歳、春堂文庫蔵
写真3 渡米前の面影 明治34年(1901) 30歳、春堂文庫蔵
写真4 サンフランシスコから 明治36年(1903) 32歳、春堂文庫蔵
写真5 苦悩時代   帰国後、春堂文庫蔵
写真6 静坐創始時代   春堂文庫蔵
写真7 静坐確立時代 明治42年(1909) 38歳、春堂文庫蔵
写真8 静坐確立時代 明治42年(1909) 38歳、春堂文庫蔵
写真9 地方指導時代 明治44年(1911) 40歳、春堂文庫蔵
写真10 隆盛時代 大正3年(1914) 43歳、春堂文庫蔵
写真13 隆盛時代 大正5年(1916) 45歳、春堂文庫蔵
写真14 虎二郎先生一家 大正5年(1916) 45歳、春堂文庫蔵
写真15 長女 礼子 大正5年(1916) 10歳、春堂文庫蔵
写真16 虎二郎先生一家と兄 藤十郎氏 弟 嘉三郎氏 大正5年(1916) 春堂文庫蔵
写真18 フロックコートの虎二郎先生 大正8年(1919) 48歳、春堂文庫蔵
118 岡田虎二郎より井上嘉三郎(弟)宛書簡 明治34年(1901)〜大正5年(1916) 春堂文庫蔵
残された書
No. 資料名 制作年 備考
1 岡田虎二郎書「静楽」 大正年間 春堂文庫蔵
森田3 岡田虎二郎書「静坐無為国」(複製) 昭和56年(1981)  
75 岡田虎二郎書「静神養氣」 大正年間 春堂文庫蔵
写真19 遺骨を囲む(豊橋岡田屋) 大正9年(1920) 春堂文庫蔵
写真20 蔵王山の葬場 大正9年(1920) 春堂文庫蔵
虎二郎顕彰
No. 資料名 制作年 備考
森田 岡田先生紀念御写真帖 大正10年(1921) 逸見写真部発行
森田4 木下尚江写真    
2 木下尚江短冊「浪の音」 大正11年(1922) 春堂文庫蔵
2 木下尚江短冊「我常浄楽」 昭和3年(1928) 春堂文庫蔵
森田1 アルバム   岡田虎二郎先生写真帖原写真
  岡田虎二郎先生写真帖 昭和44年(1969) 田原静坐会同人
16 岡田虎二郎先生十年祭祝詞 昭和4年(1929) 田原町長、田原区長、門人橋本五作、春堂文庫蔵
110 岡田先生四十年祭写真 昭和35年(1960) 春堂文庫蔵
19 岡田虎二郎先生五十年祭記念講演記録 昭和45年(1970) 田原静坐会、春堂文庫蔵
41 岡田虎二郎先生生誕百年祭記念写真 昭和47年(1972) 春堂文庫蔵
81 岡田虎二郎先生六十年祭写真 昭和55年(1980) 春堂文庫蔵
10 静坐 岡田虎二郎その言葉と生涯 昭和49年(1974) 笹村草家人著、春堂文庫蔵
99 岡田式静坐の力 昭和5年(1930) 18版、橋本五作著、春堂文庫蔵
100 続岡田式静坐の力 昭和3年(1928) 4版、橋本五作著、春堂文庫蔵
123 岡田虎二郎先生写真   70年祭式使用、春堂文庫蔵
129 岡田虎二郎先生写真   京都静坐社、春堂文庫蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

↑ページTOPへ

岡田虎二郎の略歴

岡田虎二郎は、1872年(明治5年)に旧田原藩士岡田宣方の次男として愛知県田原市田原町に 生まれた。その兄弟はいずれも中等学校の教員になったが、彼だけは小学校卒業後、農業に従事した。徴兵検査では丙種不合格になった。十代後半からは、農作物の栽培法・品種改良・肥料成分などの研究に没頭、その結果、1897年の大日本農会品評会で自作米が全国一となった。また、害虫駆除のための岡田式螟虫採卵法や短冊形苗代を考案し、地元の農業関係者の間で評判となった。この頃から彼の目指すものは、作物改良から人間の改造へと向かった。人間改造は精神的肥料を要すると言い、二宮尊徳・釈迦・孔子・キリスト・ソクラテスをはじめとする古聖賢の書物を研究した。また、金原明善や清水次郎長など全国各地の名士を訪問し、議論をふっかけて論破した。

1901年、虎二郎は渡米し、滞在すること三年半、その間皿洗いなどで生計を支えながら、英独仏などの語学を習得するとともに、欧米の哲学・文学・宗教・教育関係の書物を読破した。彼が在米中に特に興味をもって研究した人物は、プラトン・ルーテル・シェ−クスピア・ゲーテ・ルソー・ペスタロッチなどであった。

虎二郎は1905年に帰国し、豊橋の素封家山本家の養子となり、一年あまり平穏な結婚生活をおくった。養家と意見が合わず、長女誕生後、養家を飛び出し、甲州(山梨県)山中に黙座した。後年、その時の模様を「絶食十日の山路、我が肉を食うこと二貫」と語っている。その後、徒歩により上京した。上京後、虎二郎夫妻の媒酌人だった元渥美郡長の松井譲の邸宅に寄寓し、ひたすら黙座した。その後、身心病弱者の救済に着手した。松井家や富豪安田善次郎家の精神病者を治療したことから、難病治療の噂が広がり、1909年頃から世間の注目を集めるようになった。キリスト教社会主義の文学者の木下尚江が、思想的行きづまりから虎二郎を訪ね、その指導と助言で安心立命を得た頃から坐の形式が確定し、世に「静坐」と呼ばれるようになった。

1910年(明治43年)には郷里田原において初めて静坐を指導し、これを契機に田原中部小学校長の伊奈森太郎を中心とする田原静坐会が発足した。1912年に実業之日本社が『岡田式静坐法』という解説書を出版したところベストセラーとなり、静坐法は一躍全国に波及する。虎二郎によれば、正しく坐ることによって身体の重心を臍下丹田に安定させることができれば、七情の調和を得て人体は自力更生し、おのずからなる発達をとげる。ああしよう、こうしようという計らいの心を断ち切って黙々と正しく坐るならば、天地みな春の心境となって、生きる力とよろこびが湧いてくるというのだ。そうなれば、どんな偉い学者や政治家や宗教家の前に出ても、つまらぬ暗示には容易にかからない明晰な精神の持ち主となる。また、すべての束縛から解き放たれた自由の別天地を体験することにより、自己本来のものを開発する糸口をつかめるというわけである。晩年の虎二郎が携帯した手帖には、「人は妻子に対するよりも、更に高尚なる職分を有す。大和民族の良心的束縛を解放し、自由の天地に導く為に一身を犠牲に供する。即ち是なり」と書かれている。そこに虎二郎の宗教的とも言える使命感を読み取ることができる。

1920年(大正9年)、虎二郎は49歳の若さで突然逝去する。病名は急性尿毒症であり、1日3時間睡眠という過労がその原因と見られた。死を予知した虎二郎は身辺整理をしながら、「自分の一生の間に成功しようとは思わぬ」と言い、「僕はただ種子を蒔くに過ぎぬ」とも言った。日本の将来の姿を心に思い描きながら、虎二郎は逝ったのである。

岡田虎二郎の系譜

(父)宣方 (母)のぶ
(姉)かの (兄)藤十郎 虎二郎 (妹)かづ (弟)嘉三郎
(妻)き賀  (娘)礼子

岡田虎二郎の号

嘯虎子、健忘生、皆春庵健忘、狂生塵奴、塵奴、春堂塵奴、無名庵、皆春堂、春堂、玄々山人など

資料紹介

岡田虎二郎デスマスク

大正9年(1920)10月17日、尿毒症により死亡。18日荼毘にふされた。田原中部小学校所蔵のデスマスクには、縦書きで、「大正九年十月十七日 午前一、十五分逝去 同月十八日 午后四時製作」と刻されているが、笹村草家人編著、碌山美術館発行の『中原悌二郎彫刻作品集』(昭和48年4月発行)によれば、「…その没した顔がいかにも立派だったので死面をとっておこうという議が起り、三宅伊三郎などが関係者の承諾を得るのに極力奔走したが、その間三日かかったので、その立派さは既にうすれ去っていたという。…死面をぬいたのは北村正信(1889〜1980、大理石せ彫刻の第一人者、北村四海の養子)氏であった。当然、悌二郎がすべきであったが、大正九年であったから既に弱っていて、北村氏のとるのを実に寂しげに見ていた姿が三宅さんの印象に残っているという」とある。20作成し、大信銀行頭取久保田勝美により有志に頒布されたと言われるが、所蔵者として岡田家(後服部正喬へ)・岡田完二郎・甲藤通・久保田家・青木豊蔵などがある。10から12くらい大信銀行関係者で購入されたらしい。虎二郎は大正9年8月、鳥取旅行中、門下生に「人間の信仰の深さは、其の死亡直後の顔容に表われる」と言った。

静坐童子

原本は昭和7年(1932)奈良美術院にて複製された。法隆寺五重塔の一角、維摩居士の説法を聴いている一人で、その姿を岡田虎二郎は「静坐童子」と呼んだ。昭和51年4月、静坐社が「静坐童子」50体を島津製作所にて複製製作した。

岡田虎二郎書「静楽」

岡田虎二郎直筆で、虎二郎から夫人のき賀に贈られたものである。「塵奴」の号がある。昭和10年(1935)に京都静坐社により、『静坐』誌100号記念として絹本で複製が作成された。

岡田虎二郎書「静坐無為国」(複製)

真に無為の国に静坐することが出来れば、天地の春は心の内に漲り、人生の力も人生の悦楽も身内から生じてくる。敢て身外に求むることはいらない。三尺四面の坐る場所さえあればよい(聞書)。
敢て求むる勿れ。無為の国に静坐せよ。坐するに方三尺の処あらば、天地の春はこの内に漲り、人生の力と人生の悦楽とはここの中に生ずる。静坐は真に大安楽の門である(伊奈森太郎『静坐百訓補説』)。
豊橋の常宿、岡田屋旅館で、門弟から揮毫を求められた際に、記した言葉。原本は京都静坐会小林家所蔵。

岡田虎二郎書「静神養氣」

岡田虎二郎直筆。元、岡田虎二郎の弟子であった田中五一(1889〜1963、長野県飯田市出身の博物学者田中義男男爵の子)家に伝わったものである。田中五一は大正2年(1913)に虎二郎に入門した。

岡田先生紀念御写真帖

岡田虎二郎に最も近い弟子であった木下尚江の解説付きで出版されたコロタイプ印刷の記念写真帳。大正10年11月30日に逸見写真部から発行された。逸見写真部は、社会主義運動家で、逸見山陽堂の主人であった逸見斧吉の尽力によるものであろう。

岡田虎二郎年譜
西暦(年) 年齢 事項
1872(明治5年) 1 田原町山口に田原藩士岡田宣方の次男として生まれる。
1877(明治11年) 6 田原学校(現田原中部小学校)に入学
1883(明治16年) 12 初等科全科を卒業、幼児期虚弱。
1886(明治19年) 15 高等小学校(現在の霊巌寺内)を卒業、学術優等賞を受ける。この年、諸国の偉人傑士を訪問。
1887(明治20年) 16 天竜寺の橋本峨山和尚に仏教思想と座禅を研究、以後全国遍歴。
郡内に「勧農協会」設立され、報徳精神を研究。
1888(明治21年) 17 全国古社寺を巡拝、仏相、姿勢を観察、北設報徳会の名士を訪問。
1890(明治23年) 19 足尾銅山の志士田中正造、山本長五郎の体験を聞く。
1891(明治24年) 20 板倉家の田畑四反歩を受領。
1892(明治25年) 21 徴兵検査で丙種合格(免除)、稲作に熱中、螟虫の駆除法を研究。
1893(明治26年) 22 全国の昆虫研究者、篤農家を訪問。
1894(明治27年) 23 螟虫卵駆除を発見。長岡宗好の肥料の三要素説と論争。
1895(明治28年) 24 渥美青年農会を発足、会長に就任。
1896(明治29年) 25 名和靖を田原に招聘。「第一回渥美郡昆虫講和会を開催。大日本農会品評会入賞。
論文「最少養分律について」
1897(明治30年) 26 名和靖「岡田式螟虫採卵法」を大日本農会誌に発表。昆虫講話会を開催。
心身の開発を唱え、冷水浴を宣伝。
1898(明治31年) 27 名和靖と各地で螟虫調査。農業主事に就任。昆虫講話会を開催。
1899(明治32年) 28 第一回渥美郡教職員昆虫講習会で教員を名和昆虫研究所に引率。小食の実験、乾布摩擦と冷水浴を奨励。
1901(明治34年) 30 「全国昆虫展覧会で功労賞」を受賞。県議、知事と論争、農業主事を辞職、金原明善の援助で渡米。
1905(明治38年) 34 欧州歴訪後帰国。山本き賀と結婚して山本家に入籍。
1906(明治39年) 35 長女礼子誕生、養家を出て、山梨の内藤文治良宅に寄宿。山中で静坐。上京して兄藤十郎宅に寄宿。
1907(明治40年) 36 静坐にて難病の患者を治癒。黙して静坐、指導を乞う者あり。
木下尚江を筆頭に静坐の指導を乞うもの続々と増える。
1910(明治43年) 39 田原静坐会発足、東京では数十か所で有名人数百人が参坐。
1915(大正4年) 44 田原静坐会の指導者は伊奈校長とし、毎月三回技芸教室で実施。
1916(大正5年) 45 鳥取、岐阜、大垣、半田、豊橋、静岡、長野、甲府で指導。
1920(大正9年) 49 大正8、9年は静坐の全盛期。連日十数か所を巡回、睡眠3、4時間。
10月17日尿毒症により死亡。18日田原町蔵王山墓所に埋葬。

↑ページTOPへ