平常展 渡辺崋山と平井顕斎

開催日 平成24年6月2日(土)〜8月5日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

平井顕斎は崋山の弟子で、今年は生誕210年を迎えます。遠江国(現在の静岡県西部)の豪農の家に生まれて家業を継ぐものの、江戸に出て34歳のときに同じ遠江出身の福田半香の紹介で崋山に絵を師事したといわれています。特に山水画を得意としましたが、花鳥画・人物画にも画才を発揮し、崋山に「文人画にもっとも長じそのほか何にても出来もうさずもの無し」とその多才ぶりを評価されました。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  脱壁 渡辺崋山 文政 7年(1824)  
  脱壁 渡辺崋山 文政 8年(1825)  
  俳画冊 渡辺崋山 天保年間  
  墨蘭図画冊 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
  春風万里図 平井顕斎 江戸時代後期  
  樹陰避雨図 渡辺崋山 文政年間  
  芭蕉翁像 渡辺崋山 文政元年(1818)  
  陰文竹 渡辺崋山 天保10年(1839)  
  糸瓜俳画之図 渡辺崋山 天保年間  
  旭日鳳凰之図 平井 顕斎 嘉 永2年(1849)  
  山水図 平井 顕斎 嘉 永5年(1852)  
  山水図屏風 平井顕斎
福田半香
弘化 2年(1845)
弘化 3年(1846)
 
  山水雪霽清話図 平井顕斎 弘化4年(1847)  
重文 千山万水図(複製) 渡辺崋山 天保12年(1841) 原本は個人蔵
  千山 万水図 平井 顕斎 嘉 永3年(1850)  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年(1832)、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

平井顕斎 享和2年(1802)〜安政3年(1856)

名は忱、字は欽夫、通称は治六、40歳ころから三谷山樵という別号も名乗った。遠江国榛原郡川崎村(現在の牧之原市細江字青池)の豪農・平井家に生まれた。文化10年(1813)、12歳のころに谷文晁門下で掛川藩の御用絵師・村松以弘に入門して絵を学んだ。兄政次郎の没後に家督を継いだが、文政10年(1827)に江戸に出て、谷文晁に弟子入りした。その後、関東の各地を遊歴している。崋山に弟子入りしたのは天保7年(1836)、同じ遠江出身の福田半香(1804-64)の紹介によるものと伝えられる。天保9年に描いた『芸妓図』(重要文化財・静嘉堂文庫美術館蔵)は顕斎に贈られたものである。崋山の死後は郷里を中心に活動し、山水画を最も得意としたが、師崋山の作品模写なども積極的に行った。このほか、花鳥画・人物画などにおいても画才を発揮している。また、円成寺(静岡県指定文化財、牧之原市細江)にある『十六羅漢図』は、顕斎が崋山の霊を供養するために描いたものであるといわれている。

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作品紹介

渡辺崋山 脱壁 文政7年(1824)、同8年(1825)

『脱壁』という名の手控画冊は出品番号6の『癸未画稿』の同年である文政6年から7年にかけて、4冊の存在が紹介された(栃木県立美術館紀要10 1982年に全図版掲載)。いずれも三十六から四十二丁の比較的薄いものである。『脱壁』という名からも推察されるが、掛軸のように壁に作品を吊った場合、その絵だけをまるで切り取ったかのように記録したものというような意味であろう。崋山の学画の様子が知られるものとして貴重な研究資料である。

渡辺崋山 樹陰避雨図 文政年間

一樹の陰に皆集まっている。士、農、工、商、男女、主従。雨を避けて偶然出会った人々。しかし、同じ心境の今、話も弾むであろう。その様子を崋山は生き生きと描いている。文政元年(1818)に描かれた『一掃百態図』(重要文化財、田原市博物館蔵)と同じ頃に描かれていると思われる。活気に満ちた風俗画を得意とする崋山の作品である。

渡辺崋山 陰文竹 天保10年(1839)

「陰文竹」とは、石刻などを拓本に取ったかのように竹と題詩を白く抜き、余白部分を黒くした作品であることを指す。まっすぐに伸びた竹を描くとともに、武士としての節操を重んじる七言の詩が書かれている。意訳すると、「南宋の鄭老(鄭思肖、1241-1318)は蘭を描く際に土を描かなかった。既に国は元に滅ぼされ、領土が寸土も残っていなかったからである。このように、事を成そうという者は、節操のないことを断固として為さないものだ。さて、酔いに任せて竹を描いたところ、拙さのあまり竹の葉がアシに似てしまった。しかし、宋の皇族にも関わらず元に仕えた鴎波(趙子昴、1254-1322)の無節操のように、節のない竹は描かない」。崋山は鄭思肖に心酔し、死に当たって書いた「不忠不孝渡辺登」も、その墓碑「大宋不忠不孝鄭思肖」にならったものであった。

平井顕斎 山水雪霽清話図 弘化4年(1847)

全体に淡墨を施し、雪景色を表現するために最小限の点苔を置く。明代の文徴明(1470-1559)や清代の文人画家王石谷(1632-1717)の雪景図風作品で、谷文晁(1763-1840)や崋山を通してこういった南宗画風を学んだものと思われる。
「雪霽」とは雪がやみ、晴れ上がってきたことをいい、「清話」とは、世俗を離れた高尚な話のことである。太陽の光が当たった雪原のまばゆいばかりの白さが表現されている。中央やや下の庵には人物が二人描かれているが、まさにその静けさは世俗から遠く離れている。

平井顕斎 旭日鳳凰之図 嘉永2年(1849)

鳳凰は古来中国で、麒麟・亀・龍と共に四瑞として尊ばれた想像上の瑞鳥である。形は、前は麒麟、後は鹿、頸は蛇、嘴は鶏に似、五色絢爛、雄を鳳、雌を凰という。旭日は朝陽のことで、いずれも吉兆画題である。波は谷文晁・椿椿山にも類例が見られ、鳳凰も含めて「図取り」と考えられるが、その筆致は丁寧で、細密描写に顕斎の画力の充実ぶりが窺える。落款には「己酉肇秋寫 顕斎忱」とあり、嘉永二年七月の完成であることがわかる。天保十二年の書簡で、崋山が顕斎について次のように述べている。「文人画にもっとも長じ、其外何にても出来もうさずもの無し」40歳で既にどのような主題、筆法にも対応できたようで、幕末へ向けて多くの依頼画として描いた作品のひとつであろう。

平井顕斎 山水図 嘉永5年(1852)

扁額であったため、焼けているが、横の広がりと奥行感を出すのに工夫された構図が珍しい。連続する山々の合間に城門や集落が見られ、中央の坂道と右側の橋上に馬と人も描かれる。所々に配された樹々も効果的に配置されている。嘉永3年頃から使用した「三谷」の号を落款に使用している。

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