開催日 | : | 平成24年4月14日(土)〜5月27日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
渡辺崋山の肖像画は、文人画家として、写実の追究の観点から描かれ、東洋の伝統的画法に西洋画法を組み込んだその作品群は、19世紀に到達した日本肖像画技法の大成として注目される。文政年間に入ると、実在の人物を描いた−肖像画を描くようになる。崋山は武士・思想家としての面も持ち合わせ、その交流から描くべき人物も特定されるのも特徴的である。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
重文 | 一掃百態図 | 渡辺崋山 | 文政元年(1818) | |
重美 | 客坐掌記 | 渡辺崋山 | 天保3年(1832) | |
参海雑志(複) | 渡辺崋山 | 大正9年(1920) | 原本は天保4年(1833) | |
俳人肖像真蹟 芭蕉 秋色 其角 嵐雪 許六 支考 |
渡辺崋山 | 明治時代 | 芝村義邦コレクション 5月8日で展示場面替 |
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琢華堂先生写生冊子 | 椿椿山 | 天保9年(1838)〜嘉永年間 | 個人蔵 | |
重美 | 佐藤一斎像稿 第二稿(複) | 渡辺崋山 | 文政年間 | 原本は個人蔵 |
重美 | 佐藤一斎像稿 第十一稿(複) | 渡辺崋山 | 文政年間 | 原本は個人蔵 |
重文 | 佐藤一斎像(複) | 渡辺崋山 | 文政4年(1821) | 原本は東京国立博物館蔵 |
重文 | 渡辺巴洲像稿 | 渡辺崋山 | 文政7年(1824) | |
重文 | 渡辺巴洲像稿(五図) | 渡辺崋山 | 文政7年(1824) | |
重美 | 松崎慊堂像稿 その二(複) | 渡辺崋山 | 文政9年(1826) | 原本は個人蔵 |
重美 | 松崎慊堂像稿 その一(複) | 渡辺崋山 | 天保年間 | 原本は個人蔵 |
漢高祖見酈食其図 | 渡辺崋山 | 天保2年(1831) | ||
岩本幸像 | 渡辺崋山 | 天保2年(1831) | ||
重文 | 市河米庵像稿(複) | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | 原本は京都国立博物館蔵 |
重文 | 市河米庵像(複) | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | 原本は京都国立博物館蔵 |
林大学頭述斎肖像稿 | 渡辺崋山 | 天保年間 | ||
重美 | 笑顔武士像稿(複) | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | 原本は個人蔵 |
国宝 | 鷹見泉石像(複) | 渡辺崋山 | 天保年間 | 原本は東京国立博物館蔵 |
竹中元真像 | 渡辺崋山 | 天保年間 | 個人蔵 | |
市文 | 福田半香肖像画稿 | 椿椿山 | 嘉永4年(1851) | |
野口幽谷像画稿 | 椿二山 | 明治年間 | ||
野口幽谷像画稿 五図 | 椿二山 | 明治年間 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華(1835〜87)、野口幽谷(1827〜98)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 椿二山 明治6・7年(1873・74)頃〜明治39・40年(1906・07)
椿山の孫で、父は早世した華谷に代わり家督を相続した椿山の四男椿和吉である。椿山の画塾琢華堂を継いだ野口幽谷(1827〜1898)に学んだ。明治時代前半に、世界からの遅れを取り戻そうと洋風化政策を進めた日本では伝統美術は衰亡した。日本固有の美術の復興をはかることを目的とした日本美術協会ができ、美術展覧会を定期的に開催し、日本の美術界の中心的存在であった。その日本美術協会美術展蘭会で、明治27年『棟花雙鶏図』で褒状一等を、同28年『池塘眞趣図』で褒状二等、同29年『竹蔭闘鶏図』で褒状一等、同30年『蘆雁図』で褒状一等、同31年『闘鶏図』で褒状一等、同33年『秋郊軍鶏図』で褒状三等、同35年『驚寒残夢図』で褒状一等、同36年『梅花泛鳥図』で褒状一等を受賞している。号「二山」は幽谷から明治30年6月に与えられた。『過眼縮図』(田原市博物館蔵)は、野口幽谷の画塾和楽堂の様子がうかがい知られる貴重な資料である。
● 重要美術品 佐藤一斎像稿 第二(複) 文政年間
「第二」は朱書きである。釣り上るように描かれた両目と眉、湾曲する形で縦に引かれた眉間の皺が印象的である。第二以外は研究者間では議論の余地が残る作品である。
● 重要美術品 佐藤一斎像稿 第十一(複) 文政年間
図中に朱書きで「逼真 温而習」、墨書で「第十一」とある。正本の直前段階の稿本である。顔の部分には修正した別紙を貼り付けている。
● 重要文化財 佐藤一斎像(複) 文政4年(1821) 東京国立博物館蔵
図中に「文政辛巳孟秋下澣 受業弟子渡邉登排手敬寫」とある。図上の別絹に佐藤一斎の賛が、「一毫似我 謂之我可也 一毫不似我 謂之非我可也 然其似與不似者貌也 存於似與不似之外者神也 是神也 無生滅 無古今 盤為川嶽 凝為星辰 聚為風霆 散為烟雲 磅礴宇宙 無有乎不存也 然則其不似者亦尽我也 而況其似者 誰謂非我真乎哉 甲申長夏上澣三日 五十三翁坦事題」と添えられる。「似ると似ざるとの外に存するものは神なり」と佐藤一斎は言っている。これは『愛日楼文詩』所収の『自題小照』である。図中に「文政四年辛巳三月朔日月五星聚室璧次暦家謂之合璧連珠係坦於五十時事」の朱文方印が捺される。
崋山の初期を代表する肖像画である。正本では、後期の肖像画に比べれば、均質な濃墨の線描が基調となっている。顔は淡墨で輪郭線を取り、裏彩色が施され、岱赭で陰影を加えている。鼻・口には片側にのみ朱勝ちの肌色で隈取る。目線はやや上を眺める。
● 重要文化財 渡辺巴洲像稿 文政7年(1824) 田原市博物館蔵
● 重要文化財 渡辺巴洲像稿(五図) 文政7年(1824) 田原市博物館蔵
この画は崋山の父、巴洲こと定通(1765〜1824)の肖像である。この年8月に60歳で亡くなった。図中に「巴洲先生渡邉君小照」とあり、右下に「柳町浄土大学様御寺法傳寺 水戸御寺浅草清光寺 駒込大乗寺 播磨様御寺極楽水宗慶寺」などとある。
全身像は、顔面の部分のみ上から貼付して修正している。崋山の娘婿であった松岡次郎が記した『全楽堂記伝』には「伯登哀哭コトニ甚シク忍ヒ得サレトモ亦追慕フ心切ナレハ自ラ筆執リテ涙ニ咽ヒテハ且推拭ヒツツ其遺照ヲ写シヲキヌ」とある。
五図には下から遺影と考えられる眼を閉じた顔、次に眼を開いた顔、右向き、左向きの横向きにした顔部分、最上部に最終稿と考えられる着色した顔が描かれる。生前の姿の肖像画をつくる場合に、デス・マスクから写したスケッチを利用する場合もあったが、家族を描いた作品であるがゆえに、高いリアリティを持つことになったのは当然である。この画稿の正本は関東大震災で焼失した。
● 竹中元真像 天保年間
図中に「明石藩醫竹中元真小像」とある。淡墨で輪郭を描き、陰影を墨淡彩でつける。唇には朱を施す。対看写照による肖像画である。田原藩主と明石藩主は姻戚関係で、竹中元真も江戸在府の明石藩医であろう。冷静な面持ち、伏目がちで、穏やかそうな人柄が画面から感じられる。
● 林大学頭述斎肖像稿本 天保年間 田原市博物館蔵
林述斎(1768〜1841)は名を衡といい、美濃国岩村藩主松平乗蘊(のりもり)の子で、和漢の典籍に通じ、寛政5年(1793)に26歳で幕府の命によって林家を継いだ。林家の私塾であった湯島の聖堂を幕府の学問所「昌平黌」とした。松崎慊堂・佐藤一斎を擁し、学徒の養成に努め、林家の中興と称された。この肖像では鬢に白髪が混じり、林家の紋をつけ、ふくよかなその姿は六十歳代と思われる。述斎の肖像画は谷文晁をはじめ数点が知られているが、崋山は文政年間に松崎慊堂・佐藤一斎の肖像画を描いているので、この述斎像の完成作品も存在した可能性もあるが、天保10年に蛮社の獄で崋山が捕えられた際には、昌平黌の学籍から抹消された事実から推測すると、正本も廃棄されたのかもしれない。光があたる顔の正面には明るい肌色を使用し、顔の側面と首にやや濃い色を塗ることにより、立体感を描き出す。崋山が西洋画から取り入れた陰影技法が駆使されている。