開催日 | : | 平成24年2月11日(土・祝)〜4月8日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
日本では、松竹梅はおめでたい取り合わせの代名詞です。文人画では、歳寒三友と題されることもあります。松竹は冬でも緑の色が変わらず、梅は寒中で花が開く。崋山もこの画題の作品を多く描き、弟子であった椿椿山やその画系につらなる崋椿系の作家達の作品も合わせて展示します。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
梅一枝 | 渡辺崋山 | 天保5年(1834) | 小澤耕一氏寄贈 | |
松に竹扇面図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
重美 | 壬午図稿 | 渡辺崋山 | 文政5年(1822) | 館蔵名品選第1集5 |
崋山翁蘭竹画譜 | 渡辺崋山 | 明治13年(1880) | 版本 | |
琢華堂画譜 | 椿椿山 | 天保14年(1843) | 11冊 | |
市文 | 福禄寿図 | 渡辺崋山 | 文化年間 | 館蔵名品選第1集1 |
渡辺小華 | 明治時代前期 | |||
陶弘景聴松風図 | 渡辺崋山 | 文政年間 | 個人蔵 | |
松下弾琴図 | 渡辺崋山 | 天保3年(1832) | 館蔵名品選第2集7 | |
市文 | 風竹之図 | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | 館蔵名品選第1集29 |
紅梅図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 高林富美子氏寄贈 | |
墨梅之図 | 椿椿山 | 文政12年(1829) | 個人蔵 | |
寒香図 | 椿椿山 | 嘉永3年(1850) | 館蔵名品選第1集63 | |
古松ノ図 枯木ノ図 | 椿椿山 | 嘉永5年(1852) | 双幅 | |
松芍薬ニ孔雀図屏風 | 平井顕斎 | 天保7年(1836) | 館蔵名品選第1集79 | |
松竹梅山水図 | 福田半香 | 嘉永2年(1849) | 三幅対、館蔵名品選第2集62 | |
林和靖図 | 永村茜山 | 天保12年(1841) | 個人蔵 | |
紅梅鴛鴦図 | 小田莆川 | 江戸時代後期 | ||
松鶴之図 | 立原春沙 | 江戸時代後期 | 館蔵名品選第2集72 | |
歳寒仙友図 | 野口幽谷 | 明治12年(1879) | ||
竹林群雀図 | 野口幽谷 | 明治31年(1898) | 個人蔵、三幅対 | |
鶴松竹 | 渡辺小華 | 明治12年(1879) | 個人蔵、三幅対 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華(1835〜87)、野口幽谷(1827〜98)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 渡辺小華 天保6年(1835)〜明治20年(1887)
小華は、渡辺崋山の二男として江戸麹町(現在の東京都千代田区隼町)田原藩邸に生まれた。崋山が田原池ノ原の地で亡くなった時にはわずかに7歳だった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得する。嘉永4年(1851)、江戸田原藩邸で世子三宅康寧のお伽役として絵画の相手を命じられた。嘉永7年、絵の師椿山が亡くなると、独学で絵を勉強する。安政3年(1856)、江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、22歳の小華は渡辺家の家督を相続し、30歳で田原藩の家老職、廃藩後は参事の要職を勤めた。明治維新後、田原藩務が一段落すると、田原・豊橋で画家としての地歩を築き上げた。第1回内国勧業博覧会(明治10年)、第1回内国絵画共進会(同15年)に出品受賞し、明治15年(1882)上京し、中央画壇での地位を確立していく。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没。
● 平井顕斎 享和2年(1802)〜安政3年(1856)
遠江国榛原郡川崎に豪農の家に生まれた。幼名は元次郎、名は忱、字は欽夫、号は顕斎、40歳頃より三谷・三谷山樵と称した。文晁門下で掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)に入門した。兄政次郎の没後、家督を継いだが、26歳で江戸に出て、谷文晁の門に入る。文晁より「画山写水楼」の号を授かった。帰郷後、天保6年(1835)再び江戸に出て崋山に入門した。師崋山の作品を丹念に摸写し、山水画を最も得意とした。渡辺崋山が描いた『芸妓図』(重要文化財・静嘉堂文庫蔵)は顕斎に贈られたものである。
● 福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)
名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。
● 永村茜山 文政3年(1820)〜文久2年(1862)
永村茜山は幕府の祐筆長谷川善次郎の三男として江戸赤坂に生まれた。幼名寿三郎、通称は晋吉、名は寛、字は済猛、号は寿山、のちに茜山と称した。茜山は崋山の日記『全楽堂日録』(愛知県指定文化財、個人蔵)の文政13年11月6日の項に初めて登場する。この時、11歳になる。この頃の崋山は毎月一と六のつく日に画塾を開いていて、その画塾に茜山は通ってきていた。天保9年(1838)19歳の時、代官羽倉外記(1790〜1862)の伊豆七島巡視に参加し、正確な地図と美しい写生図を描いている。崋山が蛮社の獄で捕えられると、茜山は江戸を去り、諸国を旅する。二十歳代の中国人物画も多く知られているが、永村を名乗るのは、嘉永元年(1848)29歳で金谷宿の組頭職永村家の婿養子に入ってからのことである。以来、組頭の仕事を盛り立て、筆を置いたが、後年、山本琹谷の名声を聞き、画業を志すが、評判が低く失意の晩年を過ごした。若くして師である崋山に画技を認められながら、充分に発揮できずに生涯を終えた。
● 小田莆川
旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりであることがわかる。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。近年、莆川に関わる資料情報が二件あった。田原市博物館に手控画冊十冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。これからの研究を待ちたい作家のひとりである。
● 立原春沙 文政元年(1818)〜安政5年(1858)
立原杏所(1785〜1840)の長女として江戸小石川邸内で生まれた。名は春子、字を沙々。幼時から父に絵を学び、のち14、5歳で崋山に師事したと伝えられる。天保14年(1843)から17年間、金沢藩十二代藩主前田斉泰(1811〜84)の夫人溶姫に仕えた。生涯独身を通した。月琴にも長じ、精密で写実的な絵を描いた。崋山と父杏所の影響を受け、気品を備えた作品が見受けられる。
● 野口幽谷 文政10年(1827)〜明治31年(1898)
江戸神田町に大工の子として生まれた。名は続、通称巳之助、画室を和楽堂と号した。幼時期の天然痘のため、生家の大工の仕事より宮大工神田小柳町の宮大工鉄砲弥八に入門し、製図を学んだ。嘉永3年(1850)3月に、椿椿山に入門した。椿山が没した後、安政年間からは画事に専念し、師の画塾であった琢華堂を盛り立てた。明治5年(1872)湯島の聖堂絵画展覧会に『威振八荒図』を出品し、優等となり、ウィーン万国博覧会にも出品し、画名を知られるようになった。明治10年、第1回内国勧業博覧会で褒状を受け、明治15・17年の内国絵画共進会では審査員に選ばれ、かつ出品。第2回では銀賞を受賞した。明治21年に発足した日本美術協会展で審査員に選ばれ、以降同協会の指導的役割を担った。明治19年に皇居造営のため、杉戸絵を揮毫し、同26年に、帝室技芸員の制度ができると、橋本雅邦(1835〜1908)らと共に任ぜられた。椿山の画風を伝え、清貧を通し、謹直な筆法で、生涯を丁髷で通した。門人に益頭峻南(1851〜1916)・松林桂月(1876〜1963)らがいる。
● 椿椿山 琢華堂画譜 天保14年(1843)
虫、鳥、草花、果実にいたるまで多種多様なものを画材にしている。どちらかというと写意的な表現で味のある作品であるが、特に注目したいのは色使いである。微妙な色による質感の表現は絶妙である。しかし、残念なことに印が後押しされている。
● 渡辺崋山・渡辺小華 福禄寿図 文化年間・明治時代前期
崋山が二十歳代前半に描いたと思われる鹿の図を中心に、渡辺家の家督を継いだ次男で、画家としても一家を築いた小華が右幅に蝙蝠、左幅に霊芝を配し、吉祥画題の「福禄寿」となしたものである。鹿はその音が「禄」(財産)に、蝙蝠は「蝠」(幸福)に、霊芝は「寿」(寿命)に通じるものであった。江戸時代においては、狩野派からも文人画家からも非常に好まれた画題である。17歳から関東文人画界の大御所である谷文晁の画塾写山楼に通い、徳川吉宗の時代、享保年間(1716〜36)に長崎に中国から来舶した沈南蘋を模して写実的な画風の鹿も多く描いた崋山であるが、二十歳代の日記や崋山自身の伝記とも言える『退役願書稿』を見ると、若い頃は「彩燈画を描く」との表現が多く見られ、画技習熟と生計のために初午燈籠の作画を熱心にしている。
この作品の鹿の眼差しは若き日の崋山が慈しんだ弟妹を見つめるようにやさしい。現在では見ることのできない彩燈画も、このようにぬくもりのある絵であったことだろう。
● 渡辺崋山 陶弘景聴松風図 文政年間
陶弘景(456〜536)は、六朝時代の思想家、医学者、文学者である。道教の茅山派の開祖として知られる。山林に隠棲し、本草学を研究し、漢方医学の基を築いた。40歳で山中に隠棲したが、梁の武帝から常に諮問をうけ、「山中宰相」と 呼ばれた。彼の詩「詔問山中何所有賦詩以答」(山中に何が有るのだと聞かれ、詩を以って答う)に「山中何所有、嶺上多白雲。只可自怡悦、不堪持寄君」(嶺の上には白雲が多くただよっているけれどこれは私が見て楽しむだけで残念ながら、あなたに届ける訳にはいきません。「閑坐聴松風」(閑坐(かんざ)して松風(しょうふう)を聴(き)く)は、一切の雑念を忘れ、座禅をすることで、崋山の当時の心象であろうか。
● 渡辺崋山 風竹之図 天保9年(1838)
風を受けてしなる竹の風情がよく表現され、崋山が数多く描いた竹の図中でも傑出した作品である。賛に「便有好風来沈箪、更無閑夢到瀟湘戊戌麦秋浣花後四日寫為湊長安先生 崋山渡辺登」とあり、江戸の蘭法医であった湊長安(1786〜1838)のために描いたものである。長安は江戸で吉田長淑(1779〜1824)から蘭法内科を、大槻玄沢(1757〜1827)に蘭学を学んだ。また、長崎に来たシーボルト(1796〜1866)にも学んでいる。文政年間に江戸で開業し、天保7年(1836)には親友であった小関三英(1787〜1839)につづいて幕府天文方訳員となった。賛にある沈箪は寝具のことで、「気持ちのよい風の中で寝ていると、夢をみる間もなく、瀟湘(中国湖南省洞庭湖の南にある瀟水と湘水の合する地)にいるように気持ちよい」という意味であろうか。この作品が完成した天保9年6月9日に湊長安は没した。
● 椿椿山 寒香図 嘉永3年(1850)
椿山の使用印に「十石小室」と刻された印がある。椿山はこの印の由来を「飯・遊・眠・言葉・硯墨・着色・點色がそして酒・女性・煙草の嗜みが少ないからだ」という。つまり「十」の「小(少)」であると。この逸話の真偽は不明であるが、この印が使用された時期の作品を観察すると意外に色数筆数が少なく、濃彩されていないことに気づく。椿山の花卉図の真骨頂はこの時期にある。ほぼ同時期にあたるこの作品では松、南天、水仙、霊芝を配する。ともに吉祥性の高いモティーフである。賛文には中国明代の白陽山人(陳淳1482〜1544)の図の影響によって描いたことが記される。押さえられた色彩、筆数がこの画面に寒々とした静寂感を与え、モティーフが内在する生命力・霊力を引き立たせるのである。しかしながら、南天の実の赤が程よいアクセントとなり画趣に彩りを与えている。自ら目標としたヲ南田の筆法を昇華した、椿山の作風を示す佳作である。
● 平井顕斎 松芍薬ニ孔雀図屏風 天保7年(1836)
顕斎は、前年の天保6年、34歳の時に江戸へ上ったおり、福田半香(1804〜64)を介して渡辺崋山に入門したとされ、同年椿椿山(1801〜54)とも知り合ったとされる。孔雀部分の草稿と思われる資料が、昭和55年(1980)に常葉美術館で開催された「崋山の弟子―半香・顕斎・茜山」で紹介(出品番号35双孔雀図(草稿))された。この草稿は孔雀部分のみであるが、大きさから考えてもこの屏風を完成させる際の下書きと考えてもよいほどそっくりである。孔雀はほとんど淡墨で表現されているが、松上の足は細密で見事な出来栄えである。芍薬は崋山・椿山が目標としたヲ南田(1633〜90)風の没骨法で描かれ、花鳥画にも優れていたことがわかる。弘化年間(1844〜48)を中心にこの様式による花卉図を多く描いたが、椿山台頭後はあまり見られなくなる。他作品の一部を借り構成する「図取り」も多く見受けられる顕斎であり、この作品もそうでる。
● 福田半香 松竹梅山水図 嘉永2年(1849)
半香46歳の作品。遠景に山、近景には川が流れ、中景には松、竹、梅と描かれている。松は細密に葉を描き、竹は雪をきわだたせ、梅はかすみをたなびかせている点に特徴がある。中国の山水画法を学び取り入れているのであろう。
● 永村茜山 林和靖図 天保12年(1841)
林和靖(967〜1028)は、浙江省の出身。早くに父を亡くし、独学で、西湖の孤山に住み、杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。妻子をもたず、庭に梅を植え、鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といっていた。行書が巧みで画も描いたが、詩を最も得意とした。平生は詩ができてもそのたびに棄てていたので、残存の詩は少ない。この作品は茜山を名乗るよりも早い「寿山」号時代の作品である。
● 立原春沙 松鶴之図 江戸時代後期
松は樹齢が長く葉の色を変えないところから、節操・長寿などの象徴とされる。また、鶴は姿、鳴き声ともに気高く、千年の長寿を保つ鳥として尊ばれる。
● 渡辺小華 鶴松竹 明治12年(1879)
明治12年の年期が記される三幅対である。箱書によれば、住所は豊橋にあるが、東京との往復生活が多かったのか、東京にいた小華に依頼して描いてもらったことが記録されている。鶴の図と松・竹の図で落款の書体が異なっている。六曲屏風などに同様の書体の変化が見られる場合があり、落款編年を書体で区別せずに考える必要がある。