平常展 渡辺崋山 龍と虎

開催日 平成24年1月5日(木)〜2月5日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

崋山は花鳥画を得意とし、当時見ることのできなかった虎や想像上の龍も多く描きました。

展示作品リスト

特別展示室
分類 作品名 作者名 年代 備考
  画学斎図藁 谷文晁 文化9年(1812) 館蔵名品選第2集46
  脱壁 渡辺崋山 文政8年(1825) 館蔵名品選第1集10
小川34 渡辺如山縮本 渡辺如山 天保年間 館蔵名品選第2集85
  辛巳画稿(複) 渡辺崋山 文政4年(1821) 原本は個人蔵
小川5 過眼録 二十三 椿椿山 天保7年(1836)  
小川13 過眼掌記 五十一 椿椿山 嘉永4年(1851) 豊干禅師騎虎図写し
  十二支図巻 渡辺崋山 江戸時代後期 館蔵名品選第1集36
  龍・拾得図・虎 谷文晁
長澤蘆雪
天保6年(1835)  
  猛虎図 谷文晁 江戸時代後期  
  龍虎双幅 谷文晁 天保11年(1840)
文化7年(1810)
 
  龍虎双幅 渡辺崋山 文政年間 館蔵名品選第1集14
  昇天龍 渡辺崋山 天保4年(1833) 館蔵名品選第2集14
  猛虎図 椿椿山 江戸時代後期 個人蔵
  猛虎図 渡辺崋山 天保7年(1836) 個人蔵
  猛虎図 渡辺崋山 江戸時代後期  
  達磨図 大川椿海 江戸時代中期  
  豊干禅師騎虎図 渡辺崋山 天保年間  
  猛虎図(崋山模) 野口幽谷 江戸時代後期  
  雨中猛虎之図 渡辺小華 明治15年(1882) 個人蔵
  雲龍之図 竹内栖鳳 明治時代  
  龍之図 渡辺小華 明治20年(1887)  
  虎之図 大橋翠石 昭和時代前期  
  天香玉兎図 渡辺小華 安政4年(1857) 個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

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作品略歴

谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)

字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人谷麓谷(1729〜1809)の子として江戸に生まれ、中山高陽(1717〜1780)の門人渡辺玄対(1749〜1822)に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身で寛政の改革を行う老中松平定信(1758〜1829)付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、『石山寺縁起絵巻』の補作、また定信の御用絵師を勤めた。
明清画を中心に中国・日本・西洋などのあらゆる画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p(1796〜1843)、立原杏所がいる。

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

渡辺如山 文化13年(1816)〜天保8年(1837)

如山は崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。14歳から椿椿山(1801〜1854)の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山29歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。

椿椿山 享和元年(1801)〜安政元年(1854)

椿山は享和元年6月4日、江戸に生まれた。幕府の槍組同心として勤務するかたわら、崋山と同様に絵を金子金陵に学び、金陵の死後、谷文晁にも学びましたが、後に崋山を慕い、師事するようになる。人物山水も描くが、特に南田風の花鳥画にすぐれ、崋山の画風を発展させ、崋椿画系と呼ばれるひとつの画系を築くことになります。また、蛮社の獄の際には、椿山は崋山救済運動の中心となり、崋山没後は二男の諧(小華)を養育し、花鳥画の技法を指導している。

大川椿海 生年不詳〜安永3年(1774)

下総国(現千葉県)八日市場出身。名は衡、字は子詮。椿海と号す。椿海(つばきのうみ)は、江戸時代まで下総国の香取・匝瑳・海上郡(現在の千葉県東庄町・旭市・匝瑳市)の境界付近にあった湖である。伝えられるところでは東西3里南北1里半(約51ku)の大きさがあったと言われている。別号に香海、酔仙、南城、三月亭。父は六郎右衛門重成。書を細井広沢(1658〜1735)、画を山本養仙(狩野常信に学んだ画家)に学んだ。一筆画をよくし、連綿画と称した。享保年間、林家の招きに応じ、朝鮮からの使いに書を得意とした椿海が書記として任じられた。八日市場福善寺に葬られた。

野口幽谷 文政10年(1827)〜明治31年(1898)

江戸後期―明治時代の日本画家。文政10年1月7日生まれ。椿椿山に師事し、花鳥画を得意とした。篤実渾厚の性格であった。絶えて粗暴の風なく、文人画衰微の後に至りても、その誉は墜ちず、画を請う者はたくさんいた。明治26年帝室技芸員。明治31年6月26日死去。72歳。江戸出身。名は続。通称は巳之助。作品に「竹石図」「菊花鶏図」など。

竹内栖鳳 元治元年(1864)〜昭和17年(1942)

京都に生まれ、明治10年(1877)に四条派の土田英林に絵を学び始め、同14年に幸野楳嶺(1844〜1895)に入門した。楳嶺四天王と称される。明治21年、京都府画学校修了。翌年から同学校に出仕し、京都の若手代表画家となる。大正2年(1913)に帝室技芸員に推挙され、京都画壇筆頭の地位を確立した。四条派を基礎に、狩野派、西洋の写実画法などを取り入れ、日本画の革新運動の一翼を担い、弟子の育成にも尽力した。

大橋翠石 慶応元年(1865)〜昭和20年(1945)

翠石は、その独特の虎の絵により「虎の翠石」として知られ、その晩年には中央の画壇と何ら関係を持たなかったにも関わらず高い画名を誇った画家。岐阜、大垣に生まれ、幼児から絵を好み、地元の南画家、戸田葆堂について絵の手ほどきを受け、18歳の時に京都に出て一時期椿椿山に師事した天野方壷(1824〜1895)に師事し、のち崋山の二男であった渡辺小華(1835〜1887)に東京で師事して山水花鳥の基礎を身につける。1895年、第4回内国勧業博覧会に「虎図」を出品し、初出品ながら褒状・銀牌を獲得したのを皮切りに、各種展覧会で受賞を重ねている。明治33年(1900)にはパリ万国博覧会に「猛虎図」を出品し、数多の画家を抑えて日本人画家としてただ1人優賞金牌を受賞。続けてセントルイス万国博覧会(1904)で優賞金牌、日英博覧会(1910)でも金牌を受けるなど、内外の博覧会で受賞を重ねた。 昭和5年(1930)の『日本画家評価見立便覧』(日本絵画研究会)では「特別動物大家」として横山大観・竹内栖鳳に並ぶ評価を受けている。

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作品紹介

渡辺崋山 十二支図巻 江戸時代後期

十二支の画巻である。没骨法で描かれたもの毛書きを主にしているもので組み合わされている。ネズミやウサギ、鶏、犬といった実物の写生と思われるものと牛、虎、龍などの写生を元にしていないものが続けて描かれる。その絵は生命力の差となり、見る者に伝わるが、虎や龍にも古法に法った筆の走りが冴える。かつて京都国立博物館に出品されて好評を博したと伝えられる。

渡辺崋山 龍虎双幅 文政年間

龍の画は、たらしこみの技法により地上の生き物とは違う不思議な存在を神秘的に表している。天から舞い降りてきた龍がふと天を見上げた姿を描いている。虎の画は、舌を出し右をじっと見据える姿を描いている。筆のはけ具合が虎の何者かを射すくめる緊張感をうまく表している。落款の文字からみると「華山」であり、二十代後半の作と思われる。

渡辺崋山 豊干禅師騎虎図 天保年間

「下総匝瑳郡椿海大川氏の意に法る 登戯墨」とある。大川椿海は安永3年、62歳で没した。禅僧の豊干を描く。たっぷりと墨を含ませた筆を大胆に使い、豊干と虎の立体感を表現している。

渡辺崋山 昇天龍 天保4年(1833)

天保4年、田原留宿中の作である。墨を画面全体に飛ばし、生き生きと勢いよく描かれている。落款は「癸巳春三月寫時風雨激怒客舎如蹈行巨艦此日撥欝大酌爛醉餘就暗窓竣之 登」。

渡辺小華 天香玉兎図 安政4年(1857)

天香玉兎は月に桂花(木犀)を配したもの。小華は、安政元年に亡くなった師の椿椿山の影響で花鳥画が多い。画家渡辺小華の江戸時代の作品はあまり多くは知られない。平成23年はウサギ年であった。

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