平常展 渡辺崋山のにせものを見る

開催日 平成23年11月12日(土)〜12月25日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山のにせものとして、達磨像、蝦蟇仙人之図や崋山作品を摸写した渡辺小華筆黄粱一夢之図ほかを展示

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  斎藤香玉一家宛書簡 伝渡辺崋山 江戸時代後期  
  魚界悉烈陸上美 伝渡辺崋山
伝椿椿山
文化12年(1815)  
重文 獄中書簡 渡辺崋山 天保10年(1839)  
  獄中書簡写 鏑木華国   鏑木家30
  人物図屏風 伝永村茜山 江戸時代後期 渡邉登印
  達摩像 伝渡辺崋山 江戸時代後期 全楽堂(印)
文化壬申(9年)
  墨竹図 村上定平宛書簡 渡辺崋山 天保12年(1841) 個人蔵
  墨梅図 伝渡辺崋山 江戸時代後期 崋山(印)
  秋江観月図 伝渡辺崋山 江戸時代後期 崋山(印)
  村上定平宛書簡写 鏑木華国   鏑木家29
  楊太真吹笛之図 伝渡辺崋山 江戸時代後期 登(印)
  頼三樹三郎像 伝渡辺崋山 江戸時代後期 崋山(印) 
登(印)
  俳画 夕立 伝渡辺崋山 江戸時代後期 崋山(印)
  俳画譜(複) 渡辺崋山 大正15年(1926)  
  能因法師図 伝渡辺崋山 江戸時代後期 崋山(印) 
渡邉之印
  蝦蟇仙人之図 伝渡辺崋山 江戸時代後期 崋山(印) 
登(印)
丁酉(天保8年)
  月下蘆雁之図 伝渡辺崋山 江戸時代後期 崋山(印) 
名佶字岑朔(印)
  梅の句 人きれの 伝渡辺崋山 江戸時代後期 東都 華山
  渡辺崋山戯墨 渡辺崋山   拓本
  黄粱一夢之図 渡辺小華 明治15年(1882) 個人蔵
  海辺群鶴之図 伝渡辺小華 明治時代 小華逸人(印) 
水月(印)
一硯冷雲(印)
丙子(明治9年)
  竹に軍鶏之図 伝渡辺小華 明治時代 邉諧(印) 
花草精神(印)  
侯雨種蓮(印)
  花卉図 伝渡辺如山 天保3年(1832) 渡邉定固(印) 
如山外史(印)

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

↑ページTOPへ

作品略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

鏑木華国 明治元年(1868)〜昭和17年(1942)

華国は田原藩士鏑木轍の長男として生まれました。幼時より、渡辺崋山の息子、小華に就き、画を学びます。明治43年にに崋山会が創立されると、常務理事となります。同年、渡辺崋山70年祭を記念して、遺墨展覧会が開催され、その監修をし、翌年『渡辺崋山遺墨帖』を発行し、また、昭和9年には田原城二ノ丸櫓跡に崋山文庫を建設し、崋山顕彰に努めました。昭和17年に東京の三男敬三宅で亡くなりました。

永村茜山 文政3年(1820)〜文久2年(1862)

永村茜山は幕府の祐筆長谷川善次郎の三男として江戸赤坂に生まれた。幼名寿三郎、通称は晋吉、名は寛、字は済猛、号は寿山、のちに茜山と称した。茜山は崋山の日記『全楽堂日録』(愛知県指定文化財、個人蔵)の文政13年11月6日の項に初めて登場する。この時、11歳になる。この頃の崋山は毎月一と六のつく日に画塾を開いていて、その画塾に茜山は通ってきていた。天保9年(1838)19歳の時、代官羽倉外記(1790〜1862)の伊豆七島巡視に参加し、正確な地図と美しい写生図を描いている。崋山が蛮社の獄で捕えられると、茜山は江戸を去り、諸国を旅する。二十歳代の中国人物画も多く知られているが、永村を名乗るのは、嘉永元年いている。崋山が蛮社の獄で捕えられると、茜山は江戸を去り、諸国を旅する。二十歳代の中国人物画も多く知られているが、永村を名乗るのは、嘉永元年(1848)29歳で金谷宿の組頭職永村家の婿養子に入ってからのことである。以来、組頭の仕事を盛り立て、筆を置いたが、後年、琹谷の名声を聞き、画業を志すが、評判が低く失意の晩年を過ごした。若くして師である崋山に画技を認められながら、充分に発揮できずに生涯を終えた。

村上範致 文化5年(1808)〜明治5年(1808)

江戸時代末期の砲術家で、田原藩家老である。田原に生まれ、通称は定平(さだへい)のち財右衛門、号は清谷(せいこく)。高島秋帆に洋式砲術を学び、各地の藩士に指導を行って日本における洋式砲術の普及に貢献した。また、田原藩の重役として海防事業や産業振興に従事した。村上家はもと三河国加茂郡挙母(現豊田市)の出身で医師をしており、のち田原藩領内赤羽根(現在の田原市赤羽根町域)に移住、正徳年間(1711年〜1715年)に田原藩に仕えたと伝えられる。範致の生まれた頃の家は代官職17俵二人扶持と出身身分は低かったが、範致の卓越した武芸と意志の強さが評価され、藩隠居三宅友信の近習となった。江戸家老であった渡辺崋山の目に留まり、彼の薫陶と引き立てを受けるようになる。その際に崋山の影響を受けて蘭癖であった友信の膨大な蘭学書を読む機会があり、範致は銃砲術に強い関心を抱くようになった。また、江戸在府中に幕臣の江川英龍や下曽根金三郎の知遇を受け、ともに砲術の研究をするようになった。その中で優れた西洋流砲術家として高島秋帆の存在を知ることとなった。また、一方では斎藤弥九郎から神道無念流を学び、免許皆伝を得た後、田原に戻って同流を広めた。天保年間、範致は江川らとともに高島秋帆に入門、西洋流砲術を学び、同12年5月に徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区)で行われた演習に参加している。これに先立って崋山は蛮社の獄のため、田原に蟄居していたが、範致の入門を心から喜んでいる旨の書簡が残っている。この時は数ヶ月教授を受けて田原に戻ったが、翌天保13年(1842)夏には長崎にあった高島秋帆を訪ねて再び師事している。同年冬に帰国して田原で鉄身の大砲と砲弾を鋳造、翌年正月には藩主三宅康直の前で高島流砲術を披露し、その後田原藩の砲術に高島流を導入していくとともに、藩校成章館で多くの藩士を教育した。またこの間、師の高島秋帆が幕府江戸町奉行鳥居耀蔵の起こした疑獄事件により蟄居の身となったこともあり、範致の砲術を知った諸藩の藩士が田原の範致邸を訪れ、彼に師事した。大垣藩など、これが大きな理由となって幕末に武備を充実させた藩も多い。さらに嘉永3年(1850)には田原藩軍制を西洋式に変更、農兵部隊を組織した。安政3年(1856)には西洋式帆船順応丸の建造に着手し、江川英敏(英龍の子)や先行して建造していた長州藩などの協力の下、翌々年に竣工させた。文久2年(1862)には幕府から講武所の高島流砲術の世話役に請われて就任し、江戸に出て幕臣や各藩の藩士に砲術を指南した。安政5年(1858)、範致は田原藩の家老に就任、イリコ・淡菜などの海産物の生産を奨励し、これを西国に輸送することで収入を得ようとした。まもなく幕末騒乱期となり、明治維新となるが、範致は要職にあって藩をよく支えた。明治2年(1869)、新政府から藩大参事を任命され、続けて藩政に当たった。3年後に病死し、墓は田原市の蔵王霊園にある。また、明治30年(1897)、勝海舟題額・細川潤次郎撰文による碑が田原城跡三ノ丸に建立された。

渡辺如山 文化13年(1816)〜天保8年(1837)

如山は崋山の8人兄弟の末弟、渡辺家の五男として江戸麹町の田原藩邸に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。
14歳から椿椿山(1801〜54)の画塾琢華堂に入門したことが『琢華堂門籍人名』(田原市指定文化財・田原市博物館蔵)に記載されている。花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年(1836)刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、「画如山、定固崋山弟同居、渡辺五郎」と崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)、崋山29歳のときのスケッチ帳『辛巳画稿』(重要美術品・個人蔵)の6歳の「五郎像」は名高い。兄崋山と共に田原藩主三宅康直の日光御祭礼奉行に同行し、また、兄同様に古画の摸写や観察眼の鋭いスケッチ帳を残し、崋山の長男で、如山の甥である「立」を描いたものなどもある。没後は江戸の渡辺家の菩提寺である小石川善雄寺に葬られた。法号は「一如院定説季保信士」とした。

↑ページTOPへ

作品紹介

重要文化財 獄中書簡(椿椿山宛) 渡辺崋山 天保10年(1839)

毎書感涙ニ不堪、其所言ヲ不知候。尊兄ハ/ 情実ヲ以テ御極、藩人ハ義理ヲ以護/ 持致、必竟スル処皆御愛憐之外無之、/ 感謝無量ニ候。扨尊兄ノ言ハ小生之/ 実事ニて、藩人之言ハ小生之虚称に御座候。/ 必竟此度ノ災ハ虚称ニ生シ候ニて、唯/ 時運の会計にハ無之、謹而兄ノ言ヲ/ 読候処、一々実際に入、小生ノ平日ヲ見ル如クニ/ 御座候。是ハ兄骨肉の交リ故、小生肺/ 腑ニ入候如ク、一も虚設無之候。唯江印/ 交一両年来也。御存之通、忠胆無二/ 寛永已上ノ人物也。一体御近所川印より/ 噂ナトにて相合候ニテ、此江印抑杞憂/ アリテ海岸隷スル所ノ地多、ソレ故地理/ 承リ度、何卒入門ヲ願なと御頼ナレトモ、/ 御存之通人ニ咄候程之事モ出来不申、/ 況教ナト思ひもよらぬ事ニ御座候。然ルニ/ 右令ハ直裁ナル御人故、一字にても師ハ則/ 師なリナト被申、迎送も御丁寧ニテ御座候。/ これ以一時之戯同様ナル事ニハ御座候得共、/ 御直情ハ右之通ニ御座候。然処当春/ 御用旅中、私所持之目かね測量/ 器等途中より御借用被成度とて、度々/ 往復之御手書有之、御帰府後ハ/ 御用多にて左程御目にかゝらず候。右之/ 通往復書と申、且上田喜作と申藩人、其/ 師内田弥太郎ニ随ひ測量手伝致候事/ ニ付、多分ソレラヨリ此禍起リ候事ト被/ 察候。果テ一同右風評有之ニ及候。/ 
一 外夷之事ハ当路御掛リ方ヘハ度々/ 御話ニ及候事も有之、已書物も差出候/ 事も有之、昨十月頃申上候事も有之、/ 此節ニ及、少シハ内扶も有之哉。此義ヲ/ 一々申上候得は、私実情ハ忽相分リ/ 候得共、御名前ヲ申上ル恐入慎ミ候事/ 故、椽下ニ力ニ相成候。
一 尊兄書、尤私性質ヲ尽し事実/ モ審ニ御座候。御存之通リキミタル事ハ/ 好候様ナレトモ、性実ハ山林之質ニテ/ 柏手ニナリ、有為者之如ク致居候也。これと/ 申も胸中種々不得止義有之、/ 此度奇禍ヲ蒙リ候程ナル事も、年来/ 之工夫あやまりにて御座候。乍去外異の/ 憂タル事ヲ思過シ候得は、又絵事も止メニ/ 致可申哉なと、心かワリ候事も有之候。
一 尊兄私之気ヲかね其御実情之止ム/ ヘカラザルヨリ此書御計ヒ被下処、真兄/ 弟ニ勝リ涙のミ袖ヲ湿シ候。乍去又/ 御今未ノ御請方慷慨ヲ虚張致、/ ツマラヌ所ヘ廉立候而ハ御計も無益/ なと、ソレヨリソレへ御配慮之事ト奉察、/ 依之此推察ヲ申上、已後ハ今未之節/ 決テ客気虚張ハ不仕、被仰下候趣ニ/ 御受可申候。
一 二十一日御今未、申上候通ニて猶御考可被下候。私/ 事軽ク候テ在所行永蟄居ナルヘシ。唯差/ 当リノ不孝ニ迷ひ候のミ、外ハ破鞋ヲ舎ル/ 如クニ御座候。
一 可笑事ハ一夕認候ツマラヌ書物ニて、/ 其書中何ヲ認候哉覚不申、此度願候而/ 写本ヲ匆々一二枚読候処、此間申上候通/ 其意も不尽もの、これハ残念無限候。/ 必竟御存之通、浮躁疎大之性、/ 此奇禍ヲかもし申候間、依之四月已来/ 東坡カ言ヲ以罪ヲ得候より、稽叔夜之養/ 生論ヲ認候事ヲ思ひ出、節録致貼壁仕/ 候処、則それカ先兆と相成候。私心事/ ノ蹉跎タル事御察シ可被下候。頓首
六月二十七日 花
弓丙兄下

墨竹図・村上定平宛書簡 渡辺崋山 天保12年(1841)

村上は天保12年5月9日に徳丸原で催された洋式銃隊操練に参加していた。崋山が村上に対して、西洋流銃陣の先駆者として激励している。定平の履歴書に5月12日に「男子出生有之候」とある。この翌年6月に、長崎の高島秋帆を訪ね、西洋流砲術を伝授され、田原藩の西洋流砲術の指導者となっていく。

頼三樹三郎像

頼三樹三郎(1825〜1859)は頼山陽の三男として京都に生まれた。1840年からは大坂、1841年からは江戸で儒学を学んだ。江戸と田原で暮らす崋山との接点は無い。

俳画 夕立

添えられる句は、「鳶乃香もいふたつかたになまくさし」とある。意味は、天空を飛んでゆく鳶の香も、地上にある物の香りも夕立が通っていく方向に、なま臭い感じをさせて移ってゆく、というような意味で、夏の夕立の湿気を感覚的に捉えたものであろう。この図は、吉田藩(現在の豊橋市)の御用達商人で、味噌溜の醸造業を営んでいた鈴木三岳(1792〜1854)に俳画の手本として与えたもので、三岳は田原蟄居中の崋山に俳画の指導を受けていた。これに自跋を付けて、嘉永2年(1849)に木版刷りで刊行した。

渡邉崋山戯墨

酒買に行歟 雨夜の 雁一つ      其角
ふとんきて 寐たる姿や ひかし山   嵐雪
はつれはつれ 粟にも似たる 薄かな  そのめ
崋山戯墨

黄粱一夢之図 渡辺小華 明治15年(1882)

図中賛は、崋山の絶筆と伝えられる作品から忠実に写し、「呂公経邯鄲 邨中遇盧生貧困 授以枕 生夢登高科歴台閣 子孫以列顕任 年余八十 及寤呂公在 初黄粱猶未熟  載在異聞録 其事雖近妄誕 警世也深矣 故富貴者能知之則 不溺驕栄袪欲之習 而恐懼循理之道 亦当易従 貧賤者能知之則 不生卑屈憐求之念 而奮励自守士操 亦当易為 若認得惟一炊之夢 便眼空一世 不得不萌妄動妄想 画竣而懼 因記之 子安」とある。絵の構図では、崋山作品の下半分を切り取ったように構成し、背後にそそり立つ崖や険しい山、中心に立つ樹木などは、父崋山の切り裂くような緊張感を避けたものか、描かれていない。父崋山の「登」「崋山」印を捺している。その左に小華の落款が記される。

渡辺崋山 鸕鷀捉魚図(複製)

「鸕鷀」とは、鵜を指し、今まさに捉えられた鮎を呑み下そうとする鵜が主題となった作品である。鵜の上には、川にせり出した柳の枝から見下ろす翡翠が描かれている。二者の間の緊張感が見る者にも感じ取られる崋山晩期の花鳥画の代表作である。晩期の崋山作品には、描かれた対象が、暗に自分自身の置かれた立場を投影したものであったり、小動物を組み合わせ、鎖国日本と海外列強の緊張感を比喩的に感じさせるという説がある。
款識は、画面左上に「法沈衡斎之意 乙未六月下浣 崋山登」とあり、天保6年(1835)にあたるが、田原幽居中の日記『守困日歴』にこの作品に関連すると思われる記述があり、内容は「青緑山水、鸕鷀捉魚の二幀を画く、鈴木春山持去る」とあり、田原藩の蘭法医であった春山が本作品を「青緑山水図」とともに持去ったことが知られる。これにより蟄居中の天保十一年以降の作品と推定されている。「沈衡斎の意に法る」とは、沈南蘋で、この作品も南蘋の画風を学習したものと、崋山は書いている。しかし、単なる摸写でなく、画家としてのリアリスムと、学者であり、藩の重役としてのストイックな部分を併せ持った時代の先覚者としての苦悩が緊張感として作品にみなぎっている。

↑ページTOPへ

参考

渡辺崋山落款(=落成款識)について

姓名 登(14歳〜※渡辺登と署名の際は、登を小さく書く)・子安、まれに定静
雅号 華山(33歳頃まで)、崋山 華山邉静、華山静
字号 伯登
堂号 場所を示す。寓画斎(22〜23歳) 寓画堂(23歳)・寓絵堂(24〜25歳)→全楽堂(26歳以後、東窓→南窓)?/金暾宮・金暾居士(31〜40歳)→隋(随)安居士(田原幽居中か?)
(文化13年)東窓下→南窓
匿名 松窓(印のみ、24〜28歳)、都騰子(渡(と)登(と)の意、鴃舌或問序・麹町一件日録内の手紙)、
   帰愚(麹町一件日録内の手紙)、観海居士(田原幽居中)、主一道人、昨非居士
仏画 羼提居士登
年号 元号「文化・文政・天保」(1810頃〜1841)

↑ページTOPへ