平常展 愛知県美術館サテライト展示 風景―木村定三コレクションを中心に

開催日 前期:平成23年9月10日(土)〜平成23年10月16日(日)
後期:平成23年10月18日(火)〜平成23年11月6日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室2

愛知県美術館所蔵作品から山本梅逸筆蓬莱山水図(1837年)などの作品を展示。

展示作品リスト

特別展示室
作者名 作品名 制作年 材質・技法 法量
(縦×横)cm
形式 展示期間
青木蒲堂 芳野春色図 江戸時代後期(19世紀) 絹本著色 107.4×36.9 一幅 前期
青木蒲堂 仁和寺真景 江戸時代後期(19世紀) 紙本墨画淡彩 30.3×54.0 一幅 後期
青木蒲堂 糺の森真景図 江戸時代後期(19世紀) 紙本墨画淡彩 29.2×100.1 一幅 前期
青木蒲堂 洛東東大谷春景図 江戸時代後期(19世紀) 紙本墨画淡彩 29.3×41.8 一幅 後期
岡本柳南 嵐山春蘭図   絹本墨画淡彩 131.8×57.0 一幅 前期
岡本柳南 春景山水図 1924(大正13年) 紙本墨画淡彩 33.7×62.0 一幅 後期
岡本柳南 梅渓閑居図 1924(大正13年) 紙本墨画淡彩 31.0×61.2 一幅 前期
岡本柳南 武陵烟靄図   紙本墨画淡彩 34.7×57.1 一幅 後期
岡本柳南 漁邨秋晩図 1927(昭和2年) 紙本墨画淡彩 22.4×62.6 一幅 前期
岡本柳南 松岳秋雲図 1924(大正13年) 紙本墨画淡彩 19.5×99.1 一幅 後期
岡本柳南 淡彩秋景図 1921(大正10年) 絹本墨画淡彩 125.4×35.4 一幅 前期
岡本柳南 松濤晩趣図 1924(大正13年) 紙本墨画淡彩 20.6×75.9 一幅 後期
岡本柳南 端午新晴図 1926(昭和元年) 紙本墨画淡彩 33.2×63.0 一幅 後期
喜田華堂 月に秋野図 江戸時代後期〜明治時代(19世紀) 紙本著色 50.3×101.0 一幅 前期
田中訥言 雪月花図 江戸時代後期(19世紀前半) 絹本墨画淡彩 163.0×43.0 一幅 後期
中林竹洞 梅花書屋図 1833(天保4年) 絹本著色 130.3×42.4 一幅 前期
中林竹洞 山水図 1824(文政7年) 絹本墨画 各121.5×36.0 双幅 後期
村瀬秋水 雪景山水図 1872(明治5年) 絹本墨画淡彩 129.8×55.2 一幅 後期
村瀬太乙 山水図 江戸時代後期〜明治時代(19世紀) 紙本墨画 96.3×29.0 一幅 前期
山本梅逸 嵐山春景図 江戸時代後期(19世紀) 絹本著色 32.7×50.7 一幅 前期
山本梅逸 夏景山水図 1849(嘉永2年) 絹本著色 116.7×35.4 一幅 後期
山本梅逸 蓬莱山水図 江戸時代後期(19世紀) 絹本著色 99.7×36.6 一幅 後期
山本梅逸 蓬莱山水図 1837(天保8年) 絹本著色 各118.0×50.3 双幅 前期
渡辺清 清水寺図 江戸時代後期(19世紀) 絹本著色 96.4×34.6 一幅 前期

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

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作品略歴

青木蒲堂 [あおき ほどう] 文化7年(1810)〜明治5年(1872)

青木蒲堂は山本梅逸の門人であり、名古屋で酒造業を営みながら、梅逸風の文人画を描いた。梅逸に倣って、真景図を多く描いている。

岡本柳南 [おかもと りゅうなん] 嘉永元年(1848)〜昭和9年(1934)

名古屋城三之丸御土居下屋敷に尾張藩士岡本梅英の長男として名古屋に生まれる。名は申夫、字は公寿、通称を万平、別号に掬翠山房・対竹草堂等がある。画を好み山本梅逸に学んだ父の教えを受け、福島柳圃に南画を学ぶ。名古屋市の建築課に奉職し、官吏の道を歩んだ後、徳川家の営繕事務を勤めた。多芸で篆刻・漢詩・俳句なども能くした。梅逸風の格調高い画風を特徴とし、中部地域における南画の継承者として知られる。

喜田華堂 [きだ かどう] 享和2年(1802)〜明治12年(1879)

美濃出身で、京都で岸派の画家である岸駒及び岸良に絵を学んだ。東国遊歴の後、50歳前から名古屋に住み、尾張藩の御用をつとめた。

田中訥言 [たなか とつげん] 明和4年(1767)〜文政6年(1823)

名古屋に生まれた。京都に出て石田幽汀から狩野派を、土佐光貞から土佐派を学んだ。さらに、絵巻など大和絵の古画を模写研究し、画題や表現等の面で大和絵の古典に回帰した制作を行った。浮田一~や渡辺清などの弟子を育て、復古大和絵派の創始者とされる。京都で地位を築きつつ、名古屋でも盛んに活動した。

中林竹洞 [なかばやし ちくとう] 安永5年(1776)〜嘉永6年(1853)

名古屋に生まれ、豪商・神谷天遊のもとで、所蔵の古画を学んで画技を磨いた。40歳で京都に移り、以後は京都で活動した。中国絵画の模写を盛んに行い、山水画を得意とした。画論や、国学などに関する著作も多い。名古屋時代から、同じく文人画の山本梅逸と親しく交流した。

村瀬秋水 [むらせ しゅうすい] 寛政7年(1795)〜明治9年(1876)

美濃の文人画家。名古屋で中林竹洞に学び、南紀の文人画家・野呂介石にもついたという。兄の村瀬藤城は、名高い儒者である頼山陽の高弟で、漢詩人として有名だった。秋水も京都で頼山陽に詩文を学んだほか、長崎など諸国を訪れた。

村瀬太乙 [むらせ たいいつ] 享和3年(1803)〜明治14年(1881)

儒者で、詩書画をよくし、飄逸な画風に特徴がある。村瀬藤城・秋水のいとこの子に当たる。京都で頼山陽に師事し、山陽の没後は名古屋で儒学を講じた。後、犬山藩に儒者として招かれ、犬山に移って活動した。

山本梅逸 [やまもと ばいいつ] 天明3年(1783)〜安政3年(1856)

名古屋に生まれ、中林竹洞とともに、豪商・神谷天遊のもとにおいて所蔵の古画を勉強した。名古屋に住みつつ、しばしば京都を訪れ、花鳥図や山水画を中心に両地で人気を博した。中林竹洞と親しく交流し、50歳頃、既に竹洞が移住していた京都に移って活動した。竹洞の死後、最晩年には名古屋に戻り、尾張藩御用絵師格に任ぜられた。

渡辺清 [わたなべ きよし] 安永7年(1778)〜文久元年(1861)

京都で田中訥言と土佐光貞に大和絵を学んだ後、名古屋で復古大和絵派の画家として活躍し、尾張藩の御用もつとめた。文人画家の山本梅逸や中林竹洞とも親しく交流した。

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