開催日 | : | 平成23年4月2日(土)〜5月15日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
崋山は17歳で、父の勧めにより金子金陵に絵を学ぶようになります。同じ年には、江戸文人画界の大御所谷文晁にも学びます。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
癸未画稿 | 渡辺崋山 | 文政6年(1823) | 館蔵名品選第1集6 | |
脱壁 | 渡辺崋山 | 文政7年(1824) | 館蔵名品選第1集7 | |
達磨扇面図(扇面画帖) | 渡辺崋山 | 文政11年(1828) | ||
梅一枝 | 渡辺崋山 | 天保5年(1834) | 小澤耕一氏収集資料 | |
画人物諸式巻 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
全楽堂主人墨画(画道名巻) | 渡辺崋山 | 天保年間 | ||
花鶏図 | 金子金陵 | 寛政7年(1795) | ||
天香玉兎之図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | 館蔵名品選第1集50 | |
鸚鵡之図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | ||
御殿猫草花図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
花鳥之図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
梅華白鷹・芙蓉水禽 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | 双幅 | |
海棠小鳥図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | ||
菊之図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | 小澤耕一氏収集資料 | |
墨梅図 | 金子金陵 | 江戸時代後期 | ||
楊貴妃之図 | 渡辺崋山 | 文政年間 | 小澤耕一氏収集資料 | |
関帝像 | 渡辺崋山 | 文化9年(1812) | ||
蘆汀双鴨図(複) | 渡辺崋山 | 文化11年(1814) | 原本は常葉美術館蔵 | |
竹渓六逸之図 | 渡辺崋山 | 文政年間 | 館蔵名品選第1集12 | |
秋草小禽図 | 渡辺崋山 | 文政元年(1818) | ||
西王母図(複) | 渡辺崋山 | 文化13年(1816) | 原本は常葉美術館蔵 | |
鸕鷀捉魚図(複) | 渡辺崋山 | 天保11年(1840) | 原本は出光美術館蔵 | |
卯天神図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 金子金陵 文化8年(1811)〜明治6年(1873)
旗本寄合席大森勇三郎の家臣で、名を允圭、字は君璋、通称を平太夫、別に日南亭と号す。画を谷文晁(1763〜1840)や諸葛監(1717〜1790)に学んだといわれ、沈南蘋(1682〜?)風の花鳥画を得意としていた。宋紫石(楠本雪渓、1715〜1786)、旗本の董九如(1745〜1802)に学んだとする説もある。大森家には安永年間(1772〜1781)に田原藩主三宅康之(1729〜1803)の三女お滝が嫁いでいる。崋山自筆の『退役願書稿』(重要文化財、田原市蔵)によれば、白川芝山の画塾の授業料が払えなくなり、父の勧めで金陵の弟子になったとある。崋山の文化12年の日記である『寓画堂日記』や同13年の『謾録』にも、金陵の記述が度々見られる。渡辺崋山・椿椿山・滝沢琴嶺(馬琴の長男1798〜1835)の師として知られる。江戸芝伊皿子の長応寺(明治35年北海道に移転)に葬られたが、荏原郡平塚村(現品川区小山)に改葬されたと言う。
● 渡辺崋山 癸未画稿 文政6年(1823)
表紙には題の記載が無いが、頁の中に「癸未」と年記を書き入れられたところがあり、文政6年の手控画冊と推測されるものである。冊子中に、「惺窩先生肖像、一斎先生嘱四月十二日」と記される頁がある。この正本は現在、東京国立博物館に所蔵されている。正本には「水府所蔵狩野永納原図 文政癸未五月、渡邊登謹摸」とあり、近世儒学の祖といわれ、朱子学を究めた藤原惺窩の像を佐藤一斎(1772〜1859)の依頼により水戸徳川家に所蔵された原本を写し完成させたものである。また、婦人を横からスケッチした余白に「山中雨仙の為画扇五十柄」とあり、山中雨仙とは、岡崎藩士で、友人であった桜間青厓(1786〜1851)のことで、彼のために扇面画を五十面描いたことがわかる。
● 渡辺崋山 脱壁 文政7年(1824)
『脱壁』という名の手控画冊は『癸未画稿』の同年である文政六年から七年にかけて、管見の及ぶところでは4冊の存在が紹介された(栃木県立美術館紀要No.10 1982年に全図版掲載)。いずれも36から42丁の比較的薄いものである。『脱壁』という名からも推察されるが、掛軸のように壁に作品を吊った場合、その絵だけをまるで切り取ったかのように記録したものというような意味であろう。表紙の題には「甲申夏五第二」とあり、これに続くものとして「甲申夏六初七掌中縮写第三」「甲申夏六初掌中縮写第四」が知られる。「夏五」「夏六」はそれぞれ五月、六月と推察すれば、月に数冊のペースで記録していったのであろう。崋山の学画の様子が知られるものとして貴重な研究資料である。
● 金子金陵 天香玉兎図 江戸時代後期
兎がくるりと首をひねらせて、お月様を眺めている。右上からは、木蓮の枝が二手に分かれて下りてきており、その二つの枝の間に木の幹が描かれることにより画面に奥行きができ、空間が生まれている。空間構成は沈南蘋派の部分的な写実から画面が静止した様な感を受ける。画題の「天香玉兎」とは、桂花(木蓮)と兎のことである。桂花は月宮殿に開く花のことで、玉兎は月の異名である。桂花、兎どちらからも導かれる月が、つつましやかに右上に描かれている。江戸時代の人々はこの絵がなにを表しているのか謎解きをして、楽しんでいたのであろう。
● 渡辺崋山 秋草小禽図 文政元年(1818)
昭和3年(1928)に、恩賜京都博物館で開催された「渡辺崋山先生名画展」に出品された作品である。この展覧会は、関西地方の崋山作品の所蔵者を中心に出品された。恩賜京都博物館という館名は、現在の京都国立博物館にあたる。開館した当時は、帝国京都博物館と呼ばれ、その後京都帝室博物館と名を変えたが、大正13年(1924)に京都市に下賜され、展覧会当時は、この名称となっていた。その後、国に移管され、現在の名称となった。展覧会記録として、発行された『崋山先生画譜』に「菊花雙雀図」として図版掲載されている。
また、明治22年(1889)に創刊され、現在も刊行されている美術雑誌『國華』の第117号には「花鳥図」として紹介されている。当時の所蔵者は、朝日新聞創始者で、衆議院議員であった村山龍平であった。村山は茶人としても知られ、その東洋古美術を中心とした所蔵品の多くは、神戸市東灘区にある香雪美術館に収蔵されている。この作品の落款に、「文政新元秋八月二十日寫於全楽堂華山邉静」とあり、「邉・静」の楕円連印が捺される。同年に描いた作品には、「坪内老大人像」(東京国立博物館蔵)があり、落款に「文政新元秋八月十有八日 渡邉定邉寫」とあり、印も同一のようである。
● 渡辺崋山 関帝像 文化9年(1812)
『三国志』で有名な関羽を描いたもので、彩色の留書に「金、コン、ロク、白グン」「雲筋書細クコマカニ」と注記される。模写にありがちなぎこちない線描と異なり、ひとつの作品として認められる、完成した力強いものとなっている。図中に「壬申秋日華山寫 文一先生之圖」とある。「文一先生」とは谷文晁の養嫡子谷文一(1777〜1818)のことで、将来を期待されたが、31歳で早世した。滝澤琴嶺が描いた同構図の関羽図(父の馬琴が賛)もあった。
● 渡辺崋山 竹渓六逸之図 文政年間
付属の箱書に崋山の画弟子として知られる椿椿山(1801〜54)の直筆で「趙松雪竹渓六逸 護持院什物崋山先生摸」とあり、「椿山椿弼鑒蔵図書」の印が押される。趙松雪は、宋の太宗の血を引き、詩文に優れ、元朝に仕え、馬を巧みに描く画家としても聞こえた趙子昂(1254〜1322)の作品を摸写したものであることがわかる。作品の摸写としては、非常に精緻なもので、画面の虫食いまでも写し取っている。崋山の当時の画力が相当な力量であることがうかがえる。
● 渡辺崋山 鸕鷀捉魚図(複製)
「鸕鷀」とは、鵜を指し、今まさに捉えられた鮎を呑み下そうとする鵜が主題となった作品である。鵜の上には、川にせり出した柳の枝から見下ろす翡翠が描かれている。二者の間の緊張感が見る者にも感じ取られる崋山晩期の花鳥画の代表作である。晩期の崋山作品には、描かれた対象が、暗に自分自身の置かれた立場を投影したものであったり、小動物を組み合わせ、鎖国日本と海外列強の緊張感を比喩的に感じさせるという説がある。
款識は、画面左上に「法沈衡斎之意 乙未六月下浣 崋山登」とあり、天保6年(1835)にあたるが、田原幽居中の日記『守困日歴』にこの作品に関連すると思われる記述があり、内容は「青緑山水、鸕鷀捉魚の二幀を画く、鈴木春山持去る」とあり、田原藩の蘭法医であった春山が本作品を「青緑山水図」とともに持去ったことが知られる。これにより蟄居中の天保十一年以降の作品と推定されている。「沈衡斎の意に法る」とは、沈南蘋で、この作品も南蘋の画風を学習したものと、崋山は書いている。しかし、単なる摸写でなく、画家としてのリアリスムと、学者であり、藩の重役としてのストイックな部分を併せ持った時代の先覚者としての苦悩が緊張感として作品にみなぎっている。