開催日 | : | 平成23年1月19日(土)〜3月27日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
琹谷は石見国(島根県)津和野藩士、藩の家老多胡逸斎に絵を学び、江戸に上り崋山に入門。のち椿椿山の弟子となり、明治6年のウィーン万博にも出品しました。竹逸は旗本の家臣で、17歳頃から崋山の家に出入りし、やがて絵を学ぶようになります。崋山四天王と呼ばれた弟子、山本琹谷と井上竹逸の作品を展示。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
丁亥画稿縮図 | 渡辺崋山 | 文政10年(1827) | 館蔵名品選第2集3 | |
山水図 | 井上竹逸 | 明治時代前期 | ||
安政名家帖 | 井上竹逸ほか | 安政年間 | ||
万里長江巻 | 井上竹逸 | 明治11年(1878) | 館蔵名品選第2集68 | |
松寿介二石友図巻 | 渡辺崋山 立原杏所 |
天保4年(1833) | 館蔵名品選第2集15 | |
甲斐叢記 前編 | 大森快庵著 井上竹逸 |
嘉永4年(1851) | 椿椿山・大西椿年ら挿絵 | |
酒井忠世像稿 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
全楽先生像 | 山本琹谷 | 嘉永3年(1850) | 個人蔵 | |
市文 | 関羽帝之図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | 館蔵名品選第2集17 |
三亀之図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | 館蔵名品選第1集17 | |
太子像 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
痩馬図 | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | 個人蔵 | |
韓信忍耐之図 | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | ||
千利休翁立像図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 館蔵名品選第2集39 | |
蘇武養羊図 | 渡辺崋山 | 天保10年(1839) | 個人蔵 | |
重美 | 笑顔武士像稿(複) | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | 原本は個人蔵 |
漁父図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | 個人蔵 | |
孔愉放亀図 | 山本琹谷 渡辺小華 伊藤鳳山賛 |
慶応3年(1867) | 館蔵名品選第1集77 | |
茄子蓮之図 | 山本琹谷 渡辺小華 |
明治時代前期 | 個人蔵 | |
漁夫之図 | 山本琹谷 | 安政元年(1854) | 館蔵名品選第2集65 | |
観音蓮華座図 | 山本琹谷 | 明治時代前期 | 館蔵名品選第2集67 | |
群老登山図 | 山本琹谷 | 万延元年(1860) | ||
夏耕之図 | 山本琹谷 | 文久元年(1861) | 三宅家旧蔵 | |
孟子講書図 | 山本琹谷 | 慶応3年(1867) | 小澤耕一氏収集資料 | |
張良捧靴之図 | 山本琹谷 | 明治時代前期 | 個人蔵 | |
漁村図屏風 | 山本琹谷 | 明治時代前期 | ||
秋景山水図 | 井上竹逸 | 元治元年(1864) | 館蔵名品選第1集86 | |
蔬菜図 | 井上竹逸 | 慶応2年(1866) | ||
于公高門図 | 井上竹逸 | 安政5年(1858) | 館蔵名品選第1集87 | |
山水図 | 井上竹逸 | 明治時代前期 | 館蔵名品選第2集69 | |
秋景山水図 | 井上竹逸 | 元治元年(1864) | 小澤耕一氏収集資料 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)
石見国(島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれましたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図』は好評を得た。弟子として荒木寛友(1850〜1920)・高森砕巌(1847〜1917)等がいる。
● 井上竹逸 文化11年(1814)〜明治19年(1886)
名は令徳、字は季蔵、通称を玄蔵と称す。天保10年(1839)から12年にかけて長崎奉行田口加賀守の家臣として長崎に滞在した。長崎滞在中には、砲術を高島秋帆(1798〜1866)に学んだ。天保12年5月の秋帆の徳丸ヶ原での砲術実射演習にも参加している。蛮社の獄以前に渡辺崋山についたのだが、初め谷文晁(1763〜1840)につき、その後崋山についたと伝えられるが、詳細は不明である。経史を大黒梅隠(大黒屋光太夫の長男、1797〜1851)に学ぶ。秋帆が疑獄に巻き込まれて逮捕されると、竹逸は自らの無力を嘆いた。嘉永2年(1849)父が亡くなると、家督を継ぎ、梶川家の用人となった。元治元年(1864)には家を子徳太郎に譲って退隠。鳥海山人について七弦琴を習う。明治維新後、旧主梶川氏の生活困窮の話を聞き、愛蔵する琴を金に替え梶川氏に贈った。その忠誠の評に依頼画を乞う者多し、との話が伝わる。晩年は東京に戻り、根岸鶯谷で余生を送った。天保年間の日記が神戸市立博物館に所蔵されている。
● 伊藤鳳山 文化3年(1806)〜明治3年(1870)
羽後国(うごのくに)酒田本町三丁目の町医伊藤維恭(いきょう)(医業のかたわら鹿鳴塾を経営、儒学を指導)の家に生まれた。名を馨、字は子徳、通称大三郎。鳳山・学半楼と号した。江戸に出て朝川善庵(1781〜1849)塾に入り、諸大名に講書に出るようになる。名古屋の医師浅井塾に入り、医を学び、塾頭となる。天保9年(1838)崋山の推挙により、田原藩校成章館教授に迎えられ子弟の教育につくす。二年にして辞し京都−江戸にて塾「学半楼」を開くが、元治元年(1864)田原藩主より要請を受け、生涯を田原に終える決心をもって応じる。明治3年1月23日田原に没す、65歳。著書多数あり。田原藩には過ぎたる大儒であった。
● 渡辺崋山 丁亥画稿縮図
表紙に「二号 丁亥画稿縮図 全楽堂」と書かれている。21丁からなるが、後半は、後から縮図を描こうと思ったものか、枠のみを描く頁もある。一丁目裏から二丁目表にかけての見開きには「三月廿九日」と書かれている。次の頁の見開きには「文政丁亥嘉平月」とあり、「嘉平月」は12月である。この頁はいずれも見開きでひとつの図を描いているので頁の交錯ではなく、最初から続けて三月と十二月という離れた時期に描いている。少し後には二月十七日の依頼画の控が記録される。後世整理したものか、または写しの可能性もある。
● 井上竹逸 万里長江巻
「萬里長江 戊寅夏日 竹逸琴士寫」とあり、朱文方形印の「竹逸」を捺す。
「萬里」とは極めて遠い距離のことである。『漢書終軍伝』には「今天下為一、万里同風」とあり、天下が統一され、極めて遠い所までも、同じ風俗になるという意味がある。「万里」という言葉には、徳川幕府体制から明治時代に入り、世の中が安定し、泰平であることを表したものであろうか。竹逸が家臣としてついた旗本戸川氏は幕臣であり、明治維新後、徳川家が駿府・遠州に転封されたことにより、江戸を離れた。戸川氏の窮乏を救った竹逸には、徳川から明治の時代に変わり行く世の中を心象風景として描きたかったのであろう。手前の陸地を表す木々と対岸の連山へ向かう船は「武士」への郷愁か。
● 渡辺崋山・立原杏所 松寿介二石友図巻
天保四年九月崋山が四十一歳、立原杏所が四十九歳の作品である。杏所は水戸出身で谷文晁に学ぶ。この作品は杏所が岩石を描き、崋山が松を描いた。款記に「癸巳晩秋為東塢先生補枩以為二友図予曰啓霜雪而不改其節唯介石与此公而巳。先生曰我所以愛二友也。因記之登」。
● 渡辺崋山 酒井忠世像稿
江戸時代初期に幕政の中心を担った酒井忠世(徳川秀忠の家老、老中・大老をつとめる、1572〜1636)の姿を描く。重要美術品の『壬午図稿』(文政5年、田原市博物館蔵)にもこれらの人物のスケッチが見られる。
● 渡辺崋山 関羽帝之図
関羽は三国時代の蜀の名将であり、劉備に仕え勇名を馳せたが、呉の孫権に殺された。後世、国民的英雄と崇められ、関帝廟に祭られている。作品を見るとまず太く濃い墨の輪郭が目に入る。ルオーのステンドグラス職人時代に学んだ黒く太い線を思い起こさせる。画を描くことに対する視点が似通っているのであろう。又、関羽の顔には、まぶた、鼻筋、あごの辺りが他の肌色よりも白く配色されている。そのことにより立体感ある顔立ちとなっている。落款は「崋山外史登」。
● 渡辺崋山 三亀之図
崋山から弟子の高木梧庵に絵手本として与えられたものと伝えられている。梧庵は、名島氏の出生で北村・高木の二姓を名乗り、通称は真吉・秦吉・晋吉といい、のち縫殿之介と称した。号を梧庵・愛葵・香遠・鴨青・水壺・南梧里・鴨川志摩丸・雲錦亭等を名乗る。天保5年3月20日に崋山から梧庵へ京都の季鷹流狂歌の宗匠山本家へ養子となったことの祝い状があり、この頃に京都へ移ったようである。加茂の社に仕えて雑掌・執事を勤めた。天保2年の9月崋山が相州厚木に旅行した時と、同年10月桐生・足利に旅行した時、梧庵が随行したことが『遊相日記』『毛武游記』に見える。また、梧庵は蛮社の獄後、田原へ幽居した崋山を訪ね、田原龍泉寺に宿泊した。画学に関する手紙の往復も見られ、天保5年までは崋山と非常に近い関係にあった人物である。
● 渡辺崋山 蘇武養羊図
賛に「孔子稱志士仁人有殺身以成仁無求生以害仁使於四方不辱君命蘇武有之矣」、その末尾に「己亥三月朔九日崋山外史登」とある。蘇武は中国の前漢時代の人で、武帝の命を受けて使者として胡国匈奴に向かうが、捕われ、19年抑留されたが、胡国に降伏しなかった。もし、この羊が子を産めば、帰してやろうとあてがわれた牡の羊と共に描かれるその姿は、やつれているが、眼光鋭く崋山自身の姿が投影されている。
● 渡辺崋山 漁父図
賛詩に「数口妻児托一竿 夫須襏襫老沙灘 笑他世上軽肥客 更以犧牛得飽安」とある。「数口の妻児を一竿に托し、夫須(蓑のこと)襏襫(太織の雨衣)沙灘に老ゆ。さもあらばあれ世上軽肥の客。更に以たり犧牛の飽安を得るに」と読む。墨の太い線で、文人の憧れであった漁師を描いたもの。
● 山本琹谷・渡辺小華・伊藤鳳山賛 孔愉佩亀図
『晋書』の孔愉という人の故事である。孔愉が余不亭という場所へ行き、亀をカゴに入れて歩く人がいた。亀が苦しそうなので、孔愉は亀を買い取って、川に放した。その放した亀は何度も孔愉の方を振り返って泳いで、遠ざかって行った。
その後、孔愉は軍功を挙げ、余不亭を治める者として取り立てられたが、その際に縁を感じて亀のつまみが付いた金印を作らせた。何度作り直させても、つまみの亀が左向きになってしまうが、仕方なく、そのまま使っていた。孔愉はあの時の恩返しに亀が霊力を発揮したのだと分かり、長くこの印を使って、余不亭を治めた。
● 山本琹谷 漁夫之図
崋山を手本とした中国風人物を得意とした琹谷作品の好例である。漁夫の手前に携えた釣竿が勢いよく描かれる。略筆であるが、その筋肉や骨格のたくましさがよく表現されている。明治維新前後の作品が多く残っているが、この作品は琹谷が江戸に拠点を置いていた時期の作品である。
● 山本琹谷 観音蓮華座図
渡辺崋山を手本とした人物画の多い琹谷であるが、このような細密な描写の人物表現も残している。
● 山本琹谷 夏耕之図
箱書によれば、大正年間に元田原藩主であった三宅家の蔵品であったとされる。
● 山本琹谷 孟子講書図
孟子とその弟子、公孫丑(こうそんちゅう)・萬章(ばんしょう)・楽正子(がくせいし)・梁恵王(りょうけいおう)・斉宣王(せいせんおう)・滕文公(とうぶんこう)・告子(こくし)を描いたもの。
● 井上竹逸 秋景山水図
蛮社の獄以前に渡辺崋山についたが、初め谷文晁につき、その後崋山についたと伝えられるが、詳細は不明である。嘉永2年(1849)父が亡くなると、家督を継ぎ、梶川家の用人となった。元治元年には家を子徳太郎に譲って退隠。その頃の作品である。落款には「甲子晩秋寫於松吟舎竹逸琹士」と読める。「松吟舎」が竹逸の堂号であるかは不明である。嘉永三年には「九霄琴室」という堂号の作品も知られる。川のほとりにたたずむ庵には4人の人が描かれる。はるかに続く川面にはゆったりと浮かぶ帆船が2艘見えている。画面構成も雄大で、その頃の安定した生活を感じさせる。
● 井上竹逸 于公高門図
重要文化財に指定された渡辺崋山の「于公高門図」を安政5年に写したものである。崋山の落款の「于公高門図 邊伯登製」という隷書体の文字と印記も忠実に写し取っている。その左に「安政五戊午秋七月上旬 末門竹逸井令徳模」と記している。于公高門の故事は「獄吏であった于公は、裁判をする際に公平で、人々から尊敬されていた。ある時、屋敷の門が壊れ、新築することになった。そこで、門を四頭立ての馬車が通ることのできるくらいの高い門にしたところ、子孫の代までその家は繁栄した」というもので、崋山は蛮社の獄で捕えられた際に、公正な裁きをした北町奉行所の与力中島嘉右衛門にこの作品を贈ったとされている。絹本と紙本の違いはあるが、細部までよく観察され、努力の様子が窺われる。
● 井上竹逸 山水図
「竹逸人寫」とあり、白文方形印の「源令徳印」と朱文方形印の「竹逸」を捺す。あっさりとした画面構成となっている。作品が少なく、年紀も入れられていないため、年代を特定しがたいが、悠々自適となった明治時代の作品であろうか。
● 井上竹逸 秋景山水図
制作年である元治元年には家を子徳太郎に譲って退隠。その頃の作品である。落款には「甲子晩秋寫於松吟舎竹逸琹士」とある。同題の作品にも「松吟舎」が記され、元治元年に使用される竹逸の堂号であろう。