開催日 | : | 平成22年8月28日(土)〜10月17日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
渡辺小華は、崋山が亡くなった時には7歳であった。その後、小華は13歳で田原から江戸に出て、椿椿山の画塾に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。兄の立が亡くなったため、渡辺家の家督を相続した。明治10年代後半には画家として東京進出をはかります。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
游鯉 | 渡辺崋山 | 天保年間 | ||
蟷螂捕蝉図扇面 | 渡辺崋山 | 天保年間 | 館蔵名品選第2集37 | |
一掃百態図(複) | 渡辺小華 | 明治11年(1878) | ||
花禽十二帖 | 渡辺小華 | 明治10年(1877)頃 | 渡辺小華展54 | |
花卉介鱗 | 渡辺小華 | 明治7年(1874) | 個人蔵 | |
花鳥画十二図 | 渡辺小華 | 明治5年(1872) | ||
松図屏風 | 渡辺小華 | 明治14年(1881) | 個人蔵、渡辺小華展72 | |
鍾馗図 | 渡辺崋山 | 文政年間 | 館蔵名品選第2集6 | |
昇天龍 | 渡辺崋山 | 天保4年(1833) | 館蔵名品選第2集14 | |
墨竹之図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | ||
四季草花図屏風 | 渡辺小華 | 明治17年(1884) | ||
ヒポクラテス像 | 渡辺小華 三宅友信賛 |
安政6年(1859) | 館蔵名品選第1集98 渡辺小華展10 |
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西園雅集之図 | 渡辺小華 | 江戸時代後期 | 渡辺小華展19 | |
黄粱一炊図 | 渡辺小華 | 文久2年(1862) | 渡辺小華展12 | |
天中麗景之図 | 渡辺小華 | 文久2年(1862) | 渡辺小華展13 | |
黄雀覗蜘蛛図 | 渡辺小華 | 明治時代初期 | 渡辺小華展26 | |
溪流群仙図 | 渡辺小華 | 明治3年(1870) | ||
柳塘山水 | 渡辺小華 | 明治時代初期 | ||
煙草棉花写生図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 渡辺小華展57 | |
臘梅水仙図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | ||
牡丹に松図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | 磯田寛氏寄贈 | |
柳香飛燕図 | 渡辺小華 | 明治17年(1884) | 渡辺小華展86 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 渡辺小華 天保6年(1835)〜明治19年(1887)
小華は崋山の二男として江戸麹町に生まれた。崋山が亡くなった時にはわずかに7歳であったため、崋山からの影響は多くなかった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、渡辺家の家督を相続し、幕末の田原藩の家老職や、廃藩後は参事の要職を勤めた。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。
● 三宅友信 文化3年(1806)〜明治19年(1886)
三宅友信は田原藩第8代藩主康友(1764〜1809)の子として生まれ、9代康和・10代康明は異母兄にあたる。兄康明が文政10年(1827)に亡くなると、友信が藩主となるはずだったが、藩財政が厳しく、病弱を理由に跡継ぎとして不適当とされ、姫路藩から持参金付きの稲若(のちの康直)が養子として迎えられる。翌年、友信は藩主の座に就いていないものの家督を譲って引退した隠居として扱われ、渡辺崋山が友信の側仕えを兼ねるようになる。友信は崋山の勧めにより蘭学研究をするようになり、友信が隠居していた巣鴨の田原藩下屋敷には蘭書が山のように積まれていた。安政3年(1856)には語学力を高く評価され、蕃所調所へ推薦され、翌年に入所している。維新後は田原に居住していたが、晩年は東京巣鴨に移り、明治19年8月8日逝去、東京都豊島区雑司ケ谷の本浄寺に葬られた。昭和10年(1935)には従四位を贈られた。
● 渡辺崋山 蟷螂捕蝉図扇面 明治12年
崋山が、文政元年11月に26歳で描いた『一掃百態図』は、序文・跋文に古今の風俗画に関する論述を行い、鎌倉から江戸時代の寛延、明和にいたる各時代の古風俗と文化文政期の江戸の市井の風俗を一日二夜にして完成させたもので、装丁は32葉の画帖である。その当世風俗は走筆の素描であり、朱や墨で訂正を加えていることから稿本と考えられるが、崋山前期の代表作である。渡辺小華が木版刷の複製を作成した。奥付から東京と名古屋の書肆を発行元としたことがわかる。
● 渡辺小華 花禽十二帖 明治時代
崋椿系画家の得意とする、ヲ南田風の没骨、着彩を駆使した作品である。小華の作品では水墨小画面の作品が多い中、このような着彩画は珍しい。牡丹、桃、山茶花、梅と小禽、枯木、秋海棠に鶉、金木犀、蓮、朝顔にキリギリス、果実など花鳥画モティーフのスタンダードが集められている。この作品では写実性を重視しなかったせいか、モノの形を厳密に捉えていない。しかし似る、似ないは別として、それぞれのモティーフの持つ個性を充分引き出しているのである。まさに崋山と椿山が目指した「唯写生にて真物の性情を悟り」の境地に達した作品といえよう。跋文に雲単鶴在主人の求めによって描いたことがわかるが、雲単鶴在主人がどのような人物か不明である。署名の書体から、明治10年以前と思われる。なお、箱は共箱であるが、後日改めた可能性がある。
(題字)多識/為/雲巣鶴在/主人之嘱/小華并題
(一)玉洞春雲/倣甌香館/賦色之法
(二)想見唐朝少年士/家無四壁為斯花
(三)落花流水与心間夢/裏不知与已還起捲/風簾晴日嫩一鵑啼/緑雨余山
(四)山妻早作/塩蔵計/手打黄梅/摘紫蘓
(五)夜游誰秉燭明月/照新粧
(六)暁庭試歩興尤奇、世韻露香/秋一籬、残月伴人如有意/牽午花外逗留時。
(七)休説越王恨西風秋満/江季斉詩句好無/入船牕
(八)三千界秋色都自/月中来
(九)山禽憐影応相似、腸/断誰知為自家
(十)寄跡空山裏蕭然気味/親蘇々遺墨在写書自家真
(十一)寒蝶凍/蜂争附/熱雪中/如火独斯/花
(十二)非有玉肌温/若許争堪/氷雪此時寒/為清癡詞家/少華并詩/
● 渡辺小華 花鳥画十二図 明治5年
父渡辺崋山に同構図の作品があり、水墨のみで描かれるが、輪郭線を描かない南田風の没骨作品である。前年に母のたかを亡くし、廃藩置県があり、それらの事務が一段落し、崋山の作品を写した作品を制作する余裕ができた頃の作品である。
● 渡辺崋山 鍾馗図 文政年間
厄病神を追いはらう神である。唐の玄宗皇帝が夢にみて、呉道子に描かせたのに始まり、ひげづらで、大きい目をしている。「唐有進士鬼之司直夢中誅邪帝寤警惑雖寤非寤内艶外佞曽無如憎是匡是正禄食誰我言敬聴 華山人戯墨」とある。
● 渡辺崋山 昇天龍 天保4年
天保4年、田原留宿中の作である。墨を画面全体に飛ばし、生き生きと勢いよく描かれている。落款は「癸巳春三月寫時風雨激怒客舎如蹈行巨艦此日撥欝大酌爛醉餘就暗窓竣之 登」。
● 渡辺小華 四季草花図屏風 明治17年
この屏風を制作した明治17年には、川辺御楯・渡辺小華ら画家が中心となって、伝統的な東洋画の復興を目的とした東洋絵画会が結成された。東洋絵画会は、月刊の『東洋絵画叢誌』を発行し、橋本雅邦・滝和亭・川端玉章・野口幽谷などが特別会員に名を連ね、通常会員を入れると170名余がいた。政府主催の絵画共進会が明治15年、17年の2回開催された。印は明治14年に篆刻した「有聲」「無聲」、関防印に「皆知己」を使用している。落款の字体が異なるが、印も同一印を使い、墨の具合もほぼ同一で、同じ年に描かれたことは疑う必要も無い。画家としての拠点を東京に移し、東京を中心とした画の依頼も多くなりつつある時期の作品であろう。阪田氏の依頼で描かれたことが落款でわかる。
● 渡辺小華 三宅友信賛 ヒポクラテス像 安政6年
ヒポクラテスは、西洋医学の祖である。江戸時代においては、伝統的な儒医は「神農像」を医学の神としてまつり、新興勢力である蘭法医は、西洋医学の父たるヒポクラテスをシンボルとして対抗した。父崋山が友人で、吉田(豊橋市)の医師、浅井完晁のために描いた原本が存在する。ともに「以洋本寫之」とあることから、別に舶来された手本となるものがあったことを示唆する。また、崋山筆の画稿の存在も知られている。さて、小華の描くところのこの像は、原本とほぼ同じであるが、画稿との比較から、原本からの模写によるものであることがわかる。しかし、面貌の立体表現は、崋山のそれが淡い陰影で表現されるのに対し、線が強調された表現は雑な印象が強く、色彩も軽い印象がある。これによって崋山から椿山へと受け継がれた肖像技法は、小華まで到達していなかったことが理解できるのである。小華には崋山の模写的な作品が見受けられるが、いずれも江戸時代に集中する。いまだ父崋山の呪縛から脱し得ない小華の姿を見るが、小華の画業を知るに、貴重な作例である。図上のヒポクラテスを称える賛文は、三宅友信(1798〜1886)によるものである。
● 渡辺小華 黄粱一炊図 文久2年
図中賛は、崋山の絶筆と伝えられる作品から忠実に写し、「呂公経邯鄲 邨中遇盧生貧困 授以枕 生夢登高科歴台閣 子孫以列顕任 年余八十 及寤呂公在 初黄粱猶未熟 載在異聞録 其事雖近妄誕 警世也深矣 故富貴者能知之 則不溺驕栄袪欲之習 而恐懼循理之道 亦当易従 貧賤者能知之 則不生卑屈憐求之念 而奮励自守士操 亦当易為 若認得惟一炊之夢 便眼空一世 不得不萌妄動妄想 画竣而懼 因記之 子安」とある。次に「家蔵黄粱一夢図乃家翁絶筆為竣夕庵主人節義之時壬午新歳朔五日也 邉諧」と款している。絵の構図では、崋山作品の下半分を切り取ったように構成し、背後にそそり立つ崖や険しい山、中心に立つ樹木などは、父崋山の切り裂くような緊張感を避けたものか、描かれていない。
● 渡辺小華 天中麗景之図 文久2年
天中は天の真ん中で、この時期は「小崋道人」落款を使用する。道人は道を求めて修行している、という意味で使用したのであろう。俗世間を逃れた人という意味もあるが、若き日の文人画家としては前者であろう。
● 渡辺小華 黄雀覗蜘蛛図 明治時代初期
出光美術館所蔵の同画題・モティーフの崋山作品が知られている。竹には蜘蛛が巣をはり、ぶら下がっている。竹枝に止まる雀は羽を開いてバランスをとっているようにも見えるし、蜘蛛を狙うため飛び立とうとしているようにも見える。崋山作品を意識したのは間違いないが、崋山のそれが、緊張感に満ちた画面であるのに対し、小華のそれは軽妙洒脱でユーモラスに満ちた作品となる。小華の諧謔的な解釈によるもので、「小崋外史戯寫」の署名がそれを示す。
● 渡辺小華 煙草綿花写生図 明治時代前期
小華は明治10年(1877)、第一回内国勧業博覧会に「煙草草綿ノ図」を出品し花紋賞を受けた。この図が同一のものかは不明であるが、関連が深いものであることは間違いなく、ほぼ同時期に描かれたものであろう。作品名のとおり、写生作業を繰り返し描かれたものと思われ、とくに煙草の葉の伸びる様の表現は素晴らしい。ともに葉の一部に虫食いの穴、枯れた様子を描き変化を持たせている。しかしながら二つのモティーフが、写生的であればあるほど背景の処理、配置に齟齬をきたしているのは否めない。「我愛知之産烟草綿花二物…」という賛は謹直な書体でもって書され実に誇らしげである。
旧田原藩の有能な行政マンであった小華にとって、地域の経済基盤を支える産物の開発、安定生産は地域の繁栄につながる大きな関心事だったに違いない。師の椿椿山が描く五穀図的な作品は、豊穣を願うマジカルなものであったが、この作品では二つの産物への豊穣の願は実作物としてあくまでも現実的であり、椿山の生きた時代との隔たりを感じるのである。
● 渡辺小華 柳香飛燕図 明治17年
柳の木の下を素早く滑空している燕を描く。昭和11年に小華会主催で開催された小華先生追薦会並遺墨展覧会に出品されている。