企画展同時開催 渡辺崋山を知る

開催日 平成22年7月10日(土)〜8月22日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

田原市博物館は渡辺崋山生誕200年にあたる1993年(平成5年)、田原城二ノ丸跡に開館しました。常設展示は、渡辺崋山をテーマにし、様々な角度から紹介しています。企画展「杉浦明平の世界」を開催するにあたり、『小説渡辺崋山』『わたしの崋山』『崋山探索』の出版の参考となる崋山に関わる資料を展示します。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  参海雑志(複) 渡辺崋山 大正9年(1920) 原本は天保4年(1833)、焼失
重文 自筆退役願書稿 渡辺崋山 天保10年(1839)  
  桃家春帖 太白堂孤月

渡辺崋山画
天保4年(1833)  
  太白堂孤月宛書翰 渡辺崋山 天保10年(1839) 個人蔵
  桃家春帖 太白堂孤月

椿椿山画
天保12年(1841)  
  蒲公英之図 江川坦庵 江戸時代後期  
  五律扇面 江川坦庵 江戸時代後期  
重文 麹町一件日録 椿椿山 天保10年(1839)  
  門田之栄 大蔵永常
渡辺崋山画
天保6年(1835)  
  玄同放言 曲亭馬琴
渡辺崋山画
文政元年(1818)から3年  
重文 渡辺崋山像(複) 椿椿山 嘉永6年(1853)  
重文 渡辺崋山像稿 椿椿山 天保14年(1843)〜嘉永年間 個人蔵
重文 渡辺巴洲像画稿(複) 渡辺崋山 文政7年(1824)  
重文 渡辺巴洲像画稿
五図(複)
渡辺崋山 文政7年(1824)  
  岩本幸像 渡辺崋山 天保2年(1831)  
  江川太郎左衛門
英龍像(複)
     
重文 日月大黒天図 渡辺崋山 天保11年(1840)  
重文 佐藤一斎像(複) 渡辺崋山 文政4年(1821) 原本は東京国立博物館蔵
国宝 鷹見泉石像(複) 渡辺崋山 天保年間 原本は東京国立博物館蔵
重文 市河米庵像(複) 渡辺崋山 天保8年(1837) 原本は京都国立博物館蔵
重文 市河米庵像稿(複) 渡辺崋山 天保8年(1837) 原本は京都国立博物館蔵
重文 自筆手本(忠孝) 渡辺崋山 天保年間  
重文 高野長英像(複) 椿椿山 天保年間 原本は高野長英記念館蔵
重文 板絵墨画馬図
(絵馬)
渡辺崋山 天保12年(1841)  
重美 黄粱一炊図(複) 渡辺崋山 天保12年(1841) 原本は個人蔵
重文 自決脇差 東播士祐國 文政年間  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

椿椿山 享和元年(1801)〜安政元年(1854)

名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救済に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜98)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。

太白堂孤月 寛政元年(1789)〜明治5年(1872)

五代太白堂、山口桃隣の弟子。姓は江口、文政4年(1821)、太白堂を継ぐ。天保2年(1831)9月、相州厚木に赴くにあたり、青山に住む孤月を訪ねている。翌10月、毛武へ旅立つ際には、孤月の紹介状をもらって行く。渡辺崋山の挿画による歳旦帖「桃家春帖」の刊行を長く続けた。挿画は崋山が蛮社の獄で捕えられると、椿椿山に、椿山が亡くなると、渡辺小華に引き継がれた。

江川坦庵 享和元年(1801)〜安政2年(1855)

江川英毅(1770〜1834)の子として生まれ、天保6年(1835)、父の死後、伊豆韮山代官職と三十六代太郎左衛門を継ぐ。字は九淵、号を坦庵と称す。所領は武蔵・相模・伊豆・駿河、のちに甲斐の幕領も加わった。優秀な人材を登用し、民政を施し、「世直し大明神」と呼ばれた。種痘奨励、パンの製造でも知られる。渡辺崋山と交遊し、海防のため高島秋帆(1798〜1866)に砲術を学び、佐久間象山(1811〜1864)、木戸孝允(1833〜1877)らに教授した。嘉永6年のペリー来航の時、勘定吟味役格となり、品川沖に砲台の台場を築造、また、韮山に砲身鋳造のための反射炉(国指定史跡)建造に着手したが、完成(1857)を見ずに没した。

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作品紹介

参海雑志(複製)

渡辺崋山が天保4年(1832)に田原から渥美半島を西進し、伊良湖、神島を旅した記録をまとめたものである。「伊良虞人」「神島船をあぐる図」など当時の漁民風俗を記録したものとしても貴重である。関東大震災で焼失したが、大正9年(1920)に稀書複製会から複製本が刊行されている。崋山会報創刊号・第二号に口語訳が掲載される。

重要文化財渡辺崋山関係資料について

天保3年(1832)、田原藩江戸詰年寄役、海防掛(かいぼうがかり)を兼務し、のちに幕府の海防策を批判した『慎機論』を著述し、高野長英とともに蛮社の獄に連座した江戸時代末期の蘭学者、文人画家としても知られる渡辺崋山(1793〜1841)の関係遺品類である。その内容は、崋山自筆にかかる画稿類、書状類および弟子の椿椿山(1801〜54)の筆になる渡辺崋山像、麹町一件日録、崋山所用の印章等である。昭和30年(1955)2月2日に重要文化財に指定された。

退役願書稿 重要文化財

天保10年(1839)4月、崋山は病気を理由に藩の年寄役を辞し、蘭学研究や絵画に専心したいと考えるようになり、16丁からなる退役願いを藩に提出した。内容は崋山の生い立ちから家庭状況、画業、学問の経過、藩政に対する見解などから成り、崋山の伝記を検討する際の基準となる底本となった。「立志」や「板橋の別れ」などのエピソードや「見よや春大地も亨す地虫さへ」という句もこの本の中に記載されている。『崋山会報』第5号から第9号まで口語紹介されている。

麹町一件日録 重要文化財

渡辺崋山崋山が揚屋入りとなった蛮社の獄(天保10年5月14日)の顛末を弟子の椿椿山が記した救済活動の記録である。蛮社の獄の進行状況や情報、救済の方法など、几帳面な椿山らしく克明に記録されている。
5月15日から書き始め、椿山、半香、崋山と同じ谷文晁門下であった、水戸藩士立原杏所・高久靄厓、崋山の弟子では小田莆川・寿山こと後の永村茜山・津和野藩士山本琹谷・井上竹逸・金子健四郎・斉藤香玉、崋山の妻たかの実父和田伝・蘭法医鈴木春山をはじめとした田原藩士などが登場する。 16日には「此度不審之姓名合十八人」として、崋山・高野長英・小関三英などの名が上げられている。崋山が獄中から出した手紙も書き写され、6月17日まで記録されている。田原に在所蟄居の申渡しが行われたのは、12月18日であった。

蒲公英之図

即興でタンポポを描いたものか。日頃から野に咲く花を観察しているからこそ、筆に付けた墨を紙に置くことで立体感を表現できる。縁の葉は多年草の力強さを表現し、花は細くかわいらしい。

五律扇面

坦庵は江戸本所の役宅で育ち、詩は当時神田お玉が池に塾を開いていた大窪詩佛(1767〜1837)に学んだ。代官として治めていた伊豆や甲州にちなんで自然を詠じた律詩は、当時の詩壇の影響を受けているが、師の詩佛が軽く、時には俗っぽいものも見受けられるのに対し、代官の家柄らしく品位を備え、独自の風格とセンスに満ちている。
「五律」とは、漢詩の一体で、八句からなり、第三・四句(頷聯)、第五・六句(頸聯)がそれぞれ対句をなすものである。五言以外にも七言がある。坦庵没年の安政2年(1855)韮山の学校の教授であった大石潤が編集した『坦庵詩稿』によって百首が知られる。
 辛酉生(印)
 浦雲隨霽収。一望渺無涯。根露懸崖樹。花開掠水技。両岸潮来濶。片帆風定遅。夕陽欲西下。留杖立多時。
 赴江梨山途中作 坦庵 九淵(印)

渡辺巴洲像画稿(複製) 重要文化財

この絵は崋山の父、巴洲の肖像である。とても人柄の優しさ、温かさがにじみでている作品である。父が亡くなった時に涙で泣きむせびながら筆を走らせたと言われており、崋山の父に対する愛情があふれている。側に刀を置き、痩身で端座する巴洲の謹厳な肖像には、款記に「巴洲先生渡邊君小照」とあり、図下に、「大学様御寺柳町浄土法伝寺、水戸御寺浅草清光寺、駒込大乗寺、播磨様御寺極楽水宗慶寺」と書かれている。
枯相を写生したもの、左向き、斜左向き、上半身を描き添えたもの、画面を彩色したものの五種の草稿がある。描くことで、深い悲しみを癒すこととなったのではなかろうか。

岩本幸像

崋山の妹もとの嫁ぎ先である桐生の岩本家の姑を描く。『毛武游記』10月17日に「茂兵衛絹を持し其母の真を寫さん事を請ふ、応ず」とあり、まさにその作品と考えられるものである。眼には金泥を入れる。岩本家を切り盛りする偉丈夫な女主人の姿を描いた。

日月大黒天図 重要文化財

落款に「是十月、阿母君所夢也。命児登寫之。時十一月朔子謹記」とある。ある夜、崋山の母、栄は日月大黒天を夢に見た。崋山が蟄居を命ぜられ、江戸から田原へ来て寂しく貧しい日々の暮らしの中で見た夢であった。その大黒天の姿は頭巾をかぶり、左肩に大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏まえるという、お決まりの姿だった。渡辺家も田原へ来てから十か月が経ち、暮らしも落ち着いてきた。平和な日々を夢見た母の依頼により描いたもの。大黒天のにこやかな顔と衣線画が東洋画独特の太い線で表され、さらにおめでたい太陽と月が同時に空に見られるという背景を加え、ほのぼのとした家族愛を見る者に感じさせている。

門田之栄

天保五年崋山の招聘により、田原藩に雇われた九州日田出身の農学者大蔵永常が翌六年に板行したものである。領内農家に配布したものとも伝えられ、再版を重ねる永常の刊行物としては例外的に少ない。永常挿絵四図は崋山が担当している。挿絵の「宮渡発船図」には大蔵永常と思われる人物も描かれる。

鷹見泉石像(複製) 国宝

図中に「天保鶏年槐夏望日寫 崋山渡邉登」とある。鷹見泉石(1785〜1858)は古河藩(現在の茨城県古河市)の江戸詰家老で、崋山にとっての蘭学の先輩にあたる。『鷹見泉石日記』によれば、天保八年四月頃は大塩平八郎の乱事後処理のため、大坂に滞在していた。また、画稿の存在が知られていないことはミステリーである。
顔の輪郭線は濃淡の差と肥痩のある線を短く使い、目立たせず、岱赭と微妙な墨の陰影で立体感を表現する。顔の光が当たる部分に、明るい色使いを、側面と首部にはやや茶色がかった濃い肌色を使用することにより、顔の立体感を描き出す。眼には瞳孔に円形の塗り残しがある。顔部分の毛書きに対し、烏帽子の黒紐はかすれた線で、また、衣線は恣意的に太く描き、袖から下を消える線で表現することにより、人物が浮き上がるような感じを見る者に与えている。脇差の鍔の立体感も違和感なく描かれ、西洋画から取り入れた陰影を軽やかに体現することで、東洋的な肖像画の気品を漂わせることに成功した崋山肖像画を代表する傑作である。

市河米庵像・市河米庵像稿(複製) 重要文化財

図には門弟の数、五千人と言われた書家、米庵(1779〜1858)による自題が「六旬誕日寫伝神 驚見蒼顔一老人 烏帽戴来雖似黄 綿裘着得竟応真 繋名文苑瘤相類 游手墨池亀有因 無事散間能到七 重逢垂白画中身 戊戌九月六日 米葊自題」とある。自題にある「戊戌九月六日」は米庵六十歳の誕生日にあたり、かつてはこの作品の完成年を天保9年としていたが、本像完成の謝礼として米庵が崋山に贈った鄭岱筆「西湖画帖」中の題識に、「余明年六十ナリ、コノ頃兄ヲ債ウテ寫照ス」とあり、天保8年の作品であることが知られるようになった。自賛で、描かれた自らの姿と向き合う不思議な感覚を述べている。「年老いて蒼黒くなった自分の顔に驚き、頭髪や髭の白くなった画中の自分と出会う」と述べている。画稿に比べれば、正本では力強さは弱まり、淡く細い弱々しい線を使い、顔の輪郭線の内側で上瞼・頬・額の中心は朱勝ちの肌色の濃淡で立体感を表現している。黒眼には茶色を塗り、中心から外郭に向かって濃くなるように描き、瞳孔には泉石と同様に円形の塗り残しがある。
崋山は肖像画を完成させるために稿本を数多く描く。本図と異なり、縞の着物に羽織を着ている。その姿はまさに「対看写照」の実践を現代の我々に伝えてくれる。他の肖像画と異なるのは、顔を正面から描いたことで、烏帽子から下がる紐を白の胡粉で描いた大胆なつけたての描線は鋭い。正本と稿本はともに市河家に伝えられた。描かれる者と描いた画家が画上で対決している。

高野長英像(複製) 重要文化財

高野長英(1804〜1850)は仙台藩領水沢の領主伊達将監の家臣後藤実慶の三男として生まれた。伯父で、伊達将監の侍医であった高野玄斎の養子となった。文政3年(1820)、医学修養のため江戸に出て、蘭法医杉田伯元・吉田長淑の弟子となり、同8年の長淑没後、長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾で西洋医学と関連諸科学を学ぶ。文政11年シーボルト事件が起きると、いち早く難を逃れ、天保元年(1830)江戸に戻り、麹町貝坂で町医を開業し、生理学の研究を行い、同3年には『醫原枢要』を著した。渡辺崋山と知り合ったのは、この頃のことである。長英は崋山の蘭学研究を助け、飢饉救済のための『二物考』などを著した。天保9年には、『夢物語』で幕府の対外政策を批判し、翌年の蛮社の獄で、永牢の判決を受けた。弘化元年(1844)、牢舎の火災により、脱獄逃亡し、全国各地を潜行し、『三兵答古知幾』などを翻訳した。嘉永元年(1848)宇和島藩主伊達宗城に招かれ、『砲家必読』等、兵書翻訳に従事した。同2年、江戸に戻り、沢三伯と名乗り、医業を営むが、翌年幕吏に襲われて、自刃した。
この画は、高野家と姻戚関係にあったかつての東京市長であった後藤新平が一時手元に置いていた。後藤新平の書簡によれば、かつては愛知県豊橋に残され、崋山の息子渡辺小華による箱書がある。高橋磌一によれば、大槻文彦が『高野長英行状逸話』に、「此椿山ノ筆ハ渡辺崋山ノ粉本中ニ長英ノ顔ノミ画キテアリシニ拠リシモノト云。」と書いていることを紹介している。崋山が縮図冊に記録しておいたものを元に椿山が描いたと伝えられるが、詳細は不明である。

渡辺崋山像稿 重要文化財

天保13年の崋山一周忌に肖像画を完成させようとしていたことが椿山から福田半香に宛てた手紙によりわかる。「田原小祥之忌相当り、御同前旧懐断腸仕り候。御像も可認之所、今以不能其義候。是は誠に難儀仕候。迚も当年はなげ置可申と存候。実に「筆とりてかくもかなしき面影を何なかなかにうつしそめけん」此は先生竹村海三(蔵)の小照御認候節、御詠被成候歌なれ共、則是が実地に御座候。御察可被下候。」師崋山も親友の憤死に際し、肖像画を描こうとしたが、「筆とりてかくもかなしき面影を何なかなかにうつしそめけん」と詠んだ歌を思い出し、自分もその通りだという。
「癸卯六月七日第一稿」は顔の輪郭線を何本か引き、鼻や顎に淡墨で陰影をつける。墨画で着色はされない。「癸卯六月七日第二稿」には淡い代赭、淡墨にて鼻や顎に陰影をつける。髯のあとを淡彩で描く。「癸卯六月七日第三藁」とある図は肌色をやや濃くし、輪郭線を淡くする。第四稿では、頬、目許、顎、喉に墨暈しを施し、顔の骨格を強調する。

渡辺崋山像(複製) 重要文化財

外題には「崋山先生四十五歳象癸丑十月十一日寫」とあり、崋山没後十三回忌のために描かれたことが知られる。この像には三回忌の年にあたる天保14年6月7日に描かれたもの、七回忌にあたる弘化4年4月14・15日に描かれた画稿の存在が知られている。また、一周忌においても福田半香宛書簡に、半香、平井顕斎の依頼により亡き師の像を描こうとしたが、あまりの悲しみのため筆が取れないことを認めている。12年もの構想の末、完成したこの像は、生前の崋山の姿を伝え、椿山自身もその出来栄えに満足したであろう。
黒漆螺鈿の机の前に座る崋山は、右前方を見据えている。面貌は多くの画稿が存在することから、とくに精緻に描かれているが、衣服は簡略に写意的に描く。切れ長の目の瞳は落ち着き、知性と慈愛に富んでいる。机に置いた右手は異様なほど大きく描かれ、人差し指が上に動く瞬間をとらえているようである。また、この像には公人、つまり武士の立場を演出する刀は描かず、衣服も含めプライベートな崋山の姿を写しているのである。
なぜ椿山は45歳の像を描いたのであろうか。この翌年、公職を辞して画家、西洋事情の研究への道を歩むことを決意し、その思いを成就するため公人としての立場を放棄しようと考え始めた年にあたる。この一連の事情を知っている椿山は、その45歳の転機の姿をポートレートとして記録し、供養したとも考えられるのである。

馬図(絵馬) 重要文化財

裏書によれば、片浜村の山田甚左衛門・同重五郎・同重左衛門・同六治郎・同安右衛門・同久右衛門・小林傳右衛門の7人が願主となり、片浜観音堂に奉納したものである。「天保十二載丑花月吉辰 所願成就」とあり、天保12年3月に崋山に依頼したものである。はやり立つ馬が2本の杭に繋がれ、後ろ足を蹴り上げようとする様を描く。あたかも崋山自身の心境を表しているようである。

黄粱一炊図(複製) 重要美術品

唐の時代に盧生という人物が邯鄲の宿で、道者の呂公に会い、身の不遇を嘆いたところ、呂公は枕を取り出し、これによれば栄華も思いのままと説いた。そこで、宿の主人が黄粱を蒸す間に、その枕で休むと盧生は官吏試験に合格し、宰相の地位にのぼり、子孫は繁栄し、八十歳になったところで目が醒めるが、まだ黄粱も蒸し終えていないことに気付く。呂公は人の一生もまたこの「黄粱一炊」の夢と同じだと盧生に諭した。
崋山の絶筆と伝えられる作品で、宿の建物の中には、横たわる盧生とそれを見守る呂公、黄粱を蒸す宿の亭主、外では休む馬が描かれる。その盧生は崋山の妻、呂公は崋山、亭主は崋山の母を投影しているとも考えられる。自刃する前日に完成させた作品と伝えられる。明の画家朱端の原画によった模成作品と考えられるが、死を前にした崋山の緊張感ある線が見る者に殺気を感じさせる。庵や人物の配置構成は、明の人朱端の原画からの摸成作品と思われるが、背後にそそり立つ崖や険しい山、中心に立つ馬が繋がれている樹木には、崋山独特の切り裂くような緊張感が見られ、自刃を前にした荒涼感で、よりうらぶれた寒村の雰囲気と崋山自身の殺気を感じさせる。

自決脇差 重要文化財

茎に刀銘として「東播士祐國」、「明石隠士大野夕鴎 令祐國作 以贈華山先生 文政十三年八月日」とあり、嘉永年間(1848〜54)に没した祐國の作であろうか。祐國は「東播士」と称しているので、播磨(現在の兵庫県南西部)明石に住んだ刀工で、備州長船系であるが、その素性は明らかでない。長さは三十八センチ弱である。現在は拵えは無く、白鞘で伝えられる。
幕府から渡辺崋山の検死のために田原を訪れた町奉行与力中島嘉右衛門・磯貝七五郎による『検死一件』の中にこの脇差の拵えについての記述がある。
渡邊登死骸改、歳四十八
 一、臍下 左之方より右之方へ横に六寸程引廻候。切疵壱ケ所。
 一、咽  右之方より左耳之脇迄突貫、疵壱ケ所。都合二ケ所。
 一、拵付脇差 壱腰
   身長壱尺弐寸五分、銘東播士祐國。但血付有之  柄 鮫無之、小倉に而巻有之候。
   目貫 金甲具、但登門所之由  鞘 革巻  鍔 鉄無地  縁頭 同  切羽 鎺金着せ
   右之外疵無之。…
崋山が自決に使用した脇差は、明石藩松平家の藩士から贈られている。「隠士」とあり、家督を譲った隠居の武士であろうか。大野夕鴎は特定できないが、天保八年に医師の「大原道斎像稿」(天保2年11月と12月の書簡・全楽堂日録の文政13年10月晦日の条に登場)、天保年間に同じく医師の「竹中元真像」と、明石藩士の肖像画をいくつか描いている。田原蟄居中の書簡中にも明石侯こと播州明石藩主松平斉韶(なりつぐ)・斉宜(なりこと)父子についての記述がみられる。明石侯侍医藤村宗禎とも親しかった。明石藩は六万石で、田原藩上屋敷があった半蔵門外にあり、藩士との付き合いも多かった。

杉浦明平著『小説渡辺崋山』について

『朝日ジャーナル』1968年1月第1週号から1970年10月まで、144回連載され、1971年・上下巻、1982年8巻の文庫本(いずれも朝日新聞社)、1971年毎日出版文化賞受賞)で刊行された。
1972年刊行の『崋山探索』では、『小説渡辺崋山』を書く過程での困難や、崋山および関連した人々を追跡したエッセイ。「救援会の人々」では、崋山の多方面な儒学、蘭学、絵画、藩関係などの交友が探られ、また、友人が逆境におちいった時のさまざまな対応があきらかにされている。「田原―崋山没後」では、田原藩二百の家臣の末は、その父祖が崋山と争った子孫も、その多くは自由民権運動の中で、歴史の波に消えていったことなどがつづられている。

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