開催日 | : | 平成22年3月27日(土)〜5月9日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 企画展示室2 |
元田原藩士出身の村松愛蔵・川澄徳次らは自由民権運動に参加し、1884年愛知・長野の自由党員が起こした反政府転覆未遂事件「飯田事件」に関与しました。事件後、村松は衆議院議員となりましたが、日糖疑獄事件後、宗教家に転進、川澄は南洋諸島へ向かう船に乗り込み、別々の人生を歩みます。
企画展示室2 | ||||
指定 分類 |
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
独逸カドリ氏文典 直譯 |
鈴木孝之介 | 明治5年(1872) | ||
渡邊崋山 | 白井菊也 加須屋壽賀藏 |
明治30年(1897) | 白井も自由党員、白井烟_寄贈図書239 | |
66 | 欽定四庫全書簡明目録 | 鷹見爽鳩校閲 | 江戸時代後期 | 萱生玄順旧蔵、川澄徳次旧蔵書 |
数学教科書 Robinson's Mathematical Series Key to Robinson's New Elementary Algebra |
1877年 | 村上照武旧蔵 田原藩御納戸書籍398 |
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村松愛蔵 | ||||
村松愛蔵写真 | 青年時代 | |||
村松愛蔵写真 | 明治29年(1896) | |||
村松愛蔵写真 | 昭和7年(1932)撮影 | 救世軍時代 | ||
三宅康寧写真 | 昭和時代 | 元田原藩主 | ||
田原藩御家中由緒 | 江戸時代後期 | 村松の項 | ||
高島流起請盟文 | 天保14年(1843)〜嘉永6年(1853) | 父、村松志津馬天保14年9月20日入門 | ||
新製家中分限帳 | 明治元年(1868) | |||
市文 | 康保日記 | 三宅康保 | 明治5年(1872) | 4月6日 |
川澄徳次 | ||||
2 | 川済由緒 | 親昌− | ||
3 | 由緒書 | 川済彦四郎義見 | ||
8月1日 | 下等小学八級卒業證書 | 田原学校 | 明治7年(1874)6月18日 | |
8月2日 | 下等小学七級卒業證書 | 田原学校 | 明治7年(1874) 6月18日 | |
8月3日 | 下等小学六級卒業證書 | 田原学校 | 明治7年(1874) 6月20日 | |
8月4日 | 下等小学五級卒業證書 | 田原学校 | 明治7年(1874)9月25日 | |
自由党東三支部之印 | 明治時代 | |||
自由党選挙事務事務所印 | 明治時代 | |||
1 | 自由新聞株式券状 | 自由新聞社 | 明治15年(1882)5月29日 | |
15 | 江湖新報 | 明治14年(1881) | 第63号〜83号 | |
川澄徳次写真 | 明治時代 | |||
五字書 「遊魚迸冰出」 |
川澄徳次 | 個人蔵 | ||
4 | 金銭雑費出入 | 川澄徳次 | 明治9年(1876)8月 | 12月まで |
6 | 算術問題 | 明治10年(1877) 9月30日 | ||
5 | 月謝月俸受納記 | 川澄徳次 | 明治10年(1877)から | |
7 | 川澄徳次宛書簡 | 青木幸作 | 明治10年(1877)頃 | 青木は広瀬塾生 |
1 | 算学免許授与目録 | 広瀬祐貞 | 明治12年(1879)3月 | |
2 | 数学傳書 | 広瀬祐貞 | 明治12年(1879)7月 | |
(教科書類 歴史地理) | ||||
62 | 改訂兵要日本地理小誌 | 中根淑 | 明治9年(1876) | |
63 | 改訂兵要日本地理小誌摘解 全 | 長瀬寛二編 | 明治10年(1877) | |
64 | 近古史談 | 大槻磐渓 | ||
65 | 日本政記 | 頼山陽 | ||
69 | 近世史畧 | 山口謙 | ||
71 | 日用暦談 | |||
70 | 浅野家時代赤穂之圖 | |||
68 | 膠州湾征独地図 | 大正3年(1914) | ||
72 | 物理記 | |||
73 | 農業三事 | 津田仙 | 明治7年(1874) | |
74 | 博物圖略解 | 長岡道謙 | 明治9年(1876) | |
67 | 日清韓三国大地図 | 明治38年(1905) | ||
75 | 箋註蒙求校本 | 万延元年(1860) | ||
76 | 孟子 | |||
78 | 解註 釋文十八史略 | 元治元年(1864) | ||
79 | 禮記 | |||
80 | 春秋左氏博校本 | |||
77 | 續詩語碎金 完 | |||
81 | 和漢年契 | 文化13年(1816) | ||
82 | 文章軌範評林 | 明治5年(1872) | ||
83 | 明治新講 正文章軌範評林 | 明治9年(1876) | ||
84 | 記傳論説作例大全 | |||
85 | 日本外史字類大全 | 川村與一郎編 | 明治31年(1898) | |
86 | 頼子詩集楷書帖 | |||
87 | 真道問答 | 1904年 | ||
(南洋諸島へ向かう) | ||||
1 | 東洋群島航海費計算簿 | 明治21年(1888) | ||
2 | 南洋義捐金取纏簿 | 明治26年(1893) | ||
3 | 東海丸第一次回航海記事 | 明治27年(1894)〜29年(1896) | ||
5 | 書簡 | 明治27年(1894) | ||
9 | 川澄徳次宛 受領収證 |
明治29年(1896) | ||
4 | 南洋トラック群島内 川澄徳次宛書簡 | 渡邉基 | 明治38年(1905) | |
6 | 故赤山白三郎君遭難前後概況(草稿)庸人長アムク(ボート同船者)らの聞書 | |||
7 | 南洋行経費 | |||
8 | 日用品支拂覚 | |||
10 | 得刺克島語集 前編 | 明治28年(1895) | ||
飯田事件 | ||||
2月2日 | 奇怪哉 | 川澄徳次 | 明治16年(1941)4月1日から | 飯田事件前の紀行日記 |
写真 檄告 | 原本は明治17年(1884)に白井菊也に送ったもの | |||
写真 桜井平吉 | ||||
4 | 勾引状 | 飯田警察署 | 明治17年(1884) 12月3日 | |
5 | 勾留状 | 飯田警察署 | 明治17年(1884) 12月4日 | |
6 | 送達書 | 長野軽罪 裁判所 松本支廰 |
明治18年(1885)9月9日 | |
8 | 重罪裁判所ニ移スノ言渡 | 明治18年(1885)9月8日 | ||
7 | 送達書 | 長野重罪 裁判所 |
明治18年(1885)9月25日 | |
9 | 公訴状 | 長野重罪裁判所 | 明治18年(1885)9月25日 | |
10 | 弁護人選定についての川澄徳次宛書簡 | 白井菊也 湊宿太郎 |
明治18年(1885)9月25日から | |
11月1日 | 大赦通知 | 東京集治監典獄 | 明治21年(1888)2月14日 | |
11月2日 | 大赦通知 | 東京軽罪裁判所 | 明治21年(1888)2月15日 | |
飯田事件後 | ||||
12 | 政府予算案に対する反対貫徹を訴える文書 | 川澄徳次他 96名 |
明治24年(1891)1月 | |
市文 | 雑書日記 | 明治40年(1907) | 7月20日 | |
近藤博宛書簡 | 村松愛蔵 | 大正9年(1920)4月5日 | ||
近藤博宛ハガキ | 村松愛蔵 | 大正12年(1923)6月11日 | ||
近藤博宛ハガキ | 村松愛蔵 | 大正12年(1923)6月20日 | ||
近藤博宛ハガキ | 村松愛蔵 | 大正12年(1923)6月22日 | ||
近藤博宛ハガキ | 村松愛蔵 | 大正12年(1923)11月 | ||
近藤博宛ハガキ | 村松愛蔵 | 大正12年(1923)6月22日 | ||
写真 鈴木清節先生禁酒大講演会記念撮影 | 昭和6年(1931)1月18日 | 田原町町会議事堂にて禁酒大講演会後 | ||
写真 救世軍京都小隊長河合光治大尉・奥様御来田記念撮影 | 昭和時代 | 田原城跡崋山記念碑前にて | ||
写真 東京救世軍杉並中隊前の写真館にて | 昭和10年(1935) | |||
「鈴木春山九十年法要展墓会参集の人々」写真 | 昭和11年(1936) | 鈴木春山兵学全集 上巻 口絵写真 最前列に村松愛蔵 |
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愛用の聖書 | 大正15年(1926) | 高津高次へ贈ったもの | ||
高津高次宛ハガキ | 村松愛蔵 | 昭和6年 | ||
参考文献 | ||||
たはら文化 第27号〜46号コピー | 田原町文化 協会 |
昭和53年(1978)〜58年(1983)〜 | ||
田原史 | 太田ぜん太郎 | 昭和10年(1935) | ぜん=金偏に善 | |
三河憲政資料 | 鈴木清節 編 | 昭和16年(1941) | ||
愛知大学綜合郷土研究所紀要第24輯 | 愛知大学 | 昭和54年(1979) | ||
愛知大学綜合郷土研究所紀要第25輯 | 愛知大学 | 昭和55年(1980) | ||
三河民権史料 信濃毎日新聞所載飯田事件裁判記事 | 愛知大学 文学部史学科田崎ゼミ |
昭和56年(1981) | ||
回天の志士 村松愛蔵 | 小澤耕一 | 昭和61年(1986) | ||
自由民権 村松愛蔵とその予告 | 柴田良保 | 昭和59年(1984) |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 村松愛蔵 安政4年(1857)〜昭和14年(1939)
村松愛蔵は田原藩家老の家に生まれ、藩校成章館(せいしょうかん)や豊橋の穂積清軒塾(ほづみせいけんじゅく)で儒学・英語などを学んだ。1873年(明治6)、16歳で上京し、東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語学科に入学する。彼はそのころ盛んになりつつあった自由民権運動に関心をもち、田原に帰郷後、同士を集めて恒心社(こうしんしゃ)という政治結社をつくり、国会開設の運動を盛り上げ、「日本憲法草案」を起草し、発表した。しかし、1884年(明治17)に長野県飯田の自由党員たちと挙兵暴動計画を立てたが、事前に発覚し、処罰され、北海道の監獄に送られた(飯田事件)。
その後、明治22年、憲法発布の大赦(たいしゃ)により釈放された彼は、名古屋の扶桑新聞社の主筆となり、1894年(明治27)衆議院議員選挙に二度出馬したが、落選。1898年(明治31)第5回衆院選で初当選、立憲政友会に属して政界で活躍する。1909年(明治42)日糖疑獄事件で政界を去り、晩年はキリスト教救世軍に転向し、宗教人として生涯を終えた。没後、田原中部小学校で行われた納骨式には数百人の町民が参列した。
(村松家)五郎左衛門尉定政―清左衛門定次―清左衛門定良―清兵衛定世―清左衛門定賢−清兵衛定繁−六郎左衛門定克−五郎左衛門定彜―(父)清兵衛定孝(志津馬)−(長男)愛蔵
● 川澄徳次 安政6年(1859)〜明治44年(1911)
川澄徳次は田原藩士川澄与五右衛門の四男として生まれ、藩校成章館で伊藤鳳山や萱生郁蔵らに学んだ。少年期に豊橋で関流数学を学び、16歳で小学教師となり、19歳で新城の広瀬祐貞塾でさらに関流数学を学び、塾頭となった。徳次は2年先輩の村松愛蔵の影響を受け、民権運動に加わった。恒心社に参加し、まもなく自由党に入党、明治16年4月から約10ヶ月かけて、愛知・長野・山梨・東京・神奈川・静岡の6県を視察と遊説のため、徒歩で無銭旅行をした。飯田方面において8ヶ月間、現地の小学校に教員として勤務した。この飯田在住が飯田事件で桜井平吉らの信州グループと村松愛蔵らの田原グループを結びつける契機となった。飯田事件で逮捕された徳次は北海道の監獄に入獄した後、明治22年、憲法発布の大赦(たいしゃ)により釈放された。しばらくは愛蔵らと政治活動に従事したが、明治25年、保安条例により東京退去を命ぜられたのを、機に当時流行した南進論に共鳴し、27年に、知多半田の東海航業会社の南洋貿易帆船東海丸に横浜港から乗船した。スペイン領トラック群島に到着し、原産物の交易に従事した。日本の南洋貿易に尽力したが、2年で帰国した。その後、台湾やプラタス島で新たな貿易に取り組んだが、失敗に終わった。東京で、餅菓子や稲荷ずしを取り扱う店を営んだが、病没し、蔵王山麓の墓地に葬られた。辞世の歌に「生れたは 何の為かは 知らねども 死んで行くのは 更にわからず」。
(父)与五右衛門−(四男)徳次
● 萱生郁蔵 (1819〜1868)
田原藩医萱生玄順の養子。名古屋の浅井医塾の塾頭、洋学を学び、のち二代目玄順を襲名した。藩の大型帆船建造調査のため、長州へ旅した
● 鈴木才三 (1848〜1910)
田原藩蘭法医鈴木春山の孫、成章館で英語を学ぶ。廃藩後、開成学校・大学南校・慶応義塾で学ぶも、いずれも学資欠乏と病気のため中退、のち「愛岐日報」編集長・扶桑新聞社主
● 村上照武 (1850〜?)
田原藩家老で、兵学者村上範致の息子、成章館で英語を学ぶ
● 三宅康寧 (1857〜1918)
江戸時代最後の田原藩主三宅家の若君、明治16年家督相続、翌年子爵拝命、巴江神社祠官・津島神社社司をつとめた
● 穂積清軒 (1836〜1874)
吉田藩士、明治維新後、英語塾好問社を開設
● 広瀬祐貞 (?〜?)
新城の関流数学者。由精堂という和算の私塾を開いていた
● 板垣退助 (1837〜1919)
土佐藩出身。1874年から自由民権運動に乗り出した。1881年から自由党初代総理。100円札紙幣に肖像が使用された
● 鈴木孝之介 (1854〜1945)
田原藩出身。村松愛蔵らとともに田原での自由民権運動を行ない、政社「恒心社」を結成した。東京医学校に進み、愛知県立医学校教師となる。軍医として活躍、海軍軍医総監に任命された
● 八木重治 (1862〜1911)
田原藩士、飯田事件で村松とともに逮捕。後に実業界へ転じ、愛知電灯株式会社の創立に参加
● 白井菊也 (1861〜1897)
田原藩出身。渥美郡高塚学校教員をした後、名古屋の自由党系扶桑新聞社記者となり、のちに新聞広告取次店を開業。隣に八木重治が住んでいた。妻こうは菊也没後、私立女学校として岡崎裁縫女学校を開いた
● 太田金善太郎 (1863〜1942)
田原藩出身。田原小学校訓導。明治30年から実業家となった。昭和10年に『田原史』を編纂した
● 桜井平吉 (1853〜?)
飯田の愛国正理社社主
● 鈴木清節 (1869〜1952)
吉田藩士の二男で、明治9年に元田原藩士の家へ養子に入り、田原学校で学ぶ。若見小学校代用教員となり、18歳で巴江義塾に入り、学ぶ。のち名古屋で新愛知新聞社の記者となる。田原の八木重治が新愛知新聞の主筆となった。のち、渥美郡会議員・田原町長をつとめた。村松の斡旋で、扶桑新聞社に入った。東三河自由党の党務を担当。マスコミ人として活躍し、『三河憲政史料』を著した。名古屋禁酒会創立
● 高津高次 (1910〜1980)
明治43年生まれ、救世軍時代の村松夫妻を訪ねた。村松愛蔵から愛用の聖書を贈られた。昭和55年2月16日逝去。
● 近藤博 (?〜1982)
田原藩御用達商人近藤伝十の家の二男。尋常小学校教員。一燈園の西田天香(1872〜1968)に心酔し、救世軍の村松愛蔵を慕っていた。昭和57年逝去。
参考 山本健文書より
恒心社/明治十三年三月大阪ニテ国会/期成同盟会ヲ組織/当田原デハ恒心社ヲ組織シ、/村松愛蔵・鈴木孝之助/廣中鹿次郎・永瀬誉/尾頭徳義・児島彦七/児島徳・ト山本健等/盛ンニ政論ヲ鼓舞シ、西三/内藤魯一・太田松次郎等ト/図リ、政治運動ノ振作ニ努メル。
● 数学教科書 村上照武旧蔵
表紙裏に「Z.P.MARUYA&CO.」のシールが貼られている。住所には東京日本橋通三丁目14・15とあり、現在の丸善のことで、創業当時は「球屋商社」の名であった。明治13年(1880)から「丸善」を名乗るようになる。
● 高島流起請盟文
天保14年から嘉永6年にかけての起請文。村上範致は天保12年3月、江戸へ出て徳丸原洋式砲術訓練に参加し、砲術修行をした。翌年、さらに長崎へも留学し、帰藩後、田原藩でも高島流銃陣砲術を採用した。村松・川澄らの父も高島流を学んだことがわかる。
● 康保日記
田原藩が明治4年に廃藩置県で無くなると、それ以降、藩主であった三宅家では私日記を大正時代初めまで録している。明治5年の日記、4月6日のところに「村松愛蔵、今度為修行出府ニ付、為伺罷出、菓子一折持参之、逢有之」とあり、上京して東京駿河台のギリシャ正教会大主教ニコライにロシア語を学ぶ前に、康保に面会に来たことが記録されている。
● 卒業證書
明治の学制頒布により、6年10月から田原町にも小学校が設立された。義務教育ではあったが、生徒から月謝が徴収された。当初は上等が10歳から13歳、下等は6歳から9歳に区分されていた。
● 自由党東三支部之印・自由党選挙事務所印
明治23年(1890)、板垣退助が立憲自由党(翌年に自由党と改名)を結党すると、村松愛蔵らはすぐに入党し、活動を始めた。1898年に憲政党の結成に伴い、解党。
● 江湖新報
明治13年(1880)11月に創刊された。新聞記者で、後に小金井村長となる大久保常吉編集で、服部誠一が社務綜理。明治15年10月には、『内外政党事情』と改題。東京京橋区にあった四通社発行。毎月10回発行。「小」「川」「神」などは回覧済のサインであろう。
● 自由新聞株式券状
自由新聞は自由党の日刊機関紙。立憲改進党と立憲帝政党を支持する新聞社しか無かったため、同士から資金を募って日刊新聞を出すことにした。社長は板垣が就任。定価は1部3銭で推定発行部数3000部。資本金が目標の2割程度しか集まらなかった。