平常展 新収蔵品見せます

開催日 平成22年3月27日(土)〜5月9日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室1

博物館の重要な目的のひとつに資料収集があります。毎年絵画作品や資料が寄贈や寄託されています。渡辺崋山関係資料はもちろん、歴史資料も多くあります。

展示作品リスト

企画展示室1
作品名 作者名 年代 備考
矮樹小禽之図 谷文晁 寛政年間 高林富美子氏寄贈
三賢人図 山本琹谷 慶応3年(1867)  
秋景山水図 山本琹谷 慶応3年(1867)  
飛瀑之図 山本琹谷 江戸時代後期  
虎図 岸岱 江戸時代後期 吉田一夫氏寄贈
赤鍾馗 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
老猿図 渡辺崋山 文政年間 福井克人氏寄贈
終南進士之図(鍾馗図) 椿椿山 弘化4年(1847) 個人蔵
水墨双孔雀図 小田莆川 江戸時代後期  
大黒天像 渡辺崋山 文化14年(1817) 個人蔵
牡丹図 渡辺小華 明治時代前期 眞木きく氏寄贈
歳寒仙友図 野口幽谷 明治12年(1879)  
髯君除魔図 田崎草雲 明治時代 個人蔵
西園雅集図 山下青厓 明治24年(1891) 島田一彦氏寄贈
春庭香艶 山下青厓 明治30年(1897) 島田一彦氏寄贈
緑竹群雀之図 山下青厓 明治36年(1903) 島田一彦氏寄贈
山村夜雪図 白井烟嵓 昭和7年(1932) 楠見一徳氏寄贈
石榴花 椿華谷 江戸時代後期 小澤千代氏寄贈83
絵馬(黒馬) 狩野梅春 正徳5年(1715) 村松自治会蔵
絵馬(白馬) 狩野梅春 享保6年(1721) 村松自治会蔵
三賢人図 渡辺崋山 江戸時代後期 石原京子氏寄贈
鰐口     村松自治会蔵
梅花飛鳥之鏡     村松自治会蔵
渡辺崋山筆亀台
金母図写
斎藤香玉 江戸時代後期  
渡辺崋山筆関羽図写 斎藤香玉 江戸時代後期  
薩埵冨士図 中林竹洞 天明7年(1787) 個人蔵
あぢさい 大場厚 昭和20年代 渡辺汎子氏寄贈
爪切場 大場厚 昭和22年(1947) 大場正夫氏寄贈
魚と女 仲谷孝夫 昭和33年(1958) 村田泰恵氏寄贈
丘の人 仲谷孝夫 昭和45年(1970) 村田泰恵氏寄贈
ユッカ 仲谷孝夫 昭和時代後期 村田泰恵氏寄贈
鴨水十五景詩画冊 小田海僊
山本梅逸
ほか
江戸時代後期 高林富美子氏寄贈
雲煙過眼 椿椿山 文政5年(1822) 小澤千代氏寄贈83
水墨花卉画冊 椿椿山 嘉永2年(1849)  
和歌二十八首短冊型折帖 樋口一葉 明治時代前期 個人蔵
短冊 首夏水 樋口一葉 明治時代前期 個人蔵
短冊「なまづといふものの治るうた」 糟谷磯丸 江戸時代後期  
短冊「親の齢をのぶる歌よみてよとありけれは」 糟谷磯丸 江戸時代後期  
うぶすな 伊奈森太郎編 昭和21年(1946)〜
昭和34年(1959)
第一号〜第148号
(最終号)、5冊欠
一部展示
御文記事珠 巻一 慧琳著(安楽寺敬隆写) 文化14年(1817)写 文中に「安楽寺」印あり
御文記事珠 巻二 慧琳 著 (安楽寺敬隆写) 文化14年(1817)写 文中に「安楽寺」印あり
御文記事珠 巻六 慧琳著(安楽寺敬諦・敬隆写) 文化14年(1817)写 文中に「安楽寺」印あり
蓮如上人帖外御文 一の三 蓮如(安楽寺敬隆 写) 文化15年(1818)写 文中に「安楽寺」印あり
蓮如上人帖外御文 四の六 蓮如(安楽寺敬隆 写) 文化15年(1818)写 文中に「安楽寺」印あり
選択私集抄 巻五 尭恵 享保元年(1716)版 文中に「西圓寺」・「誓観」の印あり
選択私集抄 巻八 尭恵 享保元年(1716)版 「末尾に(中略)西円寺誓観」の署名あり
法華玄義科文 巻第一之一 (隋釈)智_説、(唐釈)湛念述、(日本釈)真慶註解 江戸時代版 文中に「播_赤穂郡八洞村称念寺教山」印あり(ただし墨消されている)
法華玄義科文 巻第一之二 (隋釈)智_説、(唐釈)湛念述、(日本釈)真慶註解 江戸時代版 文中に「播_赤穂郡八洞村称念寺教山」印あり(ただし墨消しされている)
法華玄義科文 巻二之三 (隋釈)智_説、(唐釈)湛念述、(日本釈)真慶註解 江戸時代版 文中に「播_赤穂郡八洞村称念寺教山」印あり(ただし墨消されている)
浄土真宗 報恩講式 歎徳文 龍谷山御蔵版 江戸時代版 文中に「龍谷開蔵」「安楽寺」印あり
観無量寿会疏註経 上 洞空 元禄2年(1689)版 文中に「安楽寺」「敬快」印あり
観無量寿会疏註経 中 洞空 元禄2年(1689)版 文中に「安楽寺」「敬快」印あり
観無量寿会疏註経 下 洞空 元禄2年(1689)版 文中に「安楽寺」「敬快」印あり
愚禿鈔聞記 巻第一 香月院深励説(長泉寺義淵写) 寛政10年(1798)講録、嘉永3年(1850)写 寛政10年4月23日に京都高倉学寮で行った講録
愚禿鈔聞記 巻第二 香月院深励説(長泉寺義淵写) 寛政10年(1798)講録、嘉永3年(1850)写  
愚禿鈔聞記 巻第三 香月院深励説(長泉寺義淵写) 寛政10年(1798)講録、嘉永3年(1850)写  
信長記拾遺 巻之一 秋里湘夕(籬島)編 安永5年(1776)版 「長」印あり
信長記拾遺 巻之三 秋里湘夕編 安永5年(1776)版 「長」印あり
百人一首拾穂抄 北村季吟 江戸時代版  
作 品 名 作者名 年 代   備   考
本朝神社考 巻六 羅浮子道春(林羅山) 江戸時代版  
ニューナショナル第一リードル独案内 元木貞雄 明治20年(1887)1月刊  
各地織物相場報告 吉野屋商店(大阪) 明治39年(1906)6月発行  
蓬壷堂歌集 下之巻
猿丸太夫家集
須賀直見編(安楽寺敬諦写) 享和元〜2年(1801〜1802)写 安楽寺敬諦の署名あり
新増箋注蒙求 下 李瀚 嘉永2年(1849)版 「龍興」書き込み、「人田民」印あり
春秋   江戸時代版  
中庸 道春点   江戸時代版  
学校幹事任命時の本人控 正法寺了証 明治5年(1872)2月 『春秋』に挟み込まれていたもの

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

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作者の略歴

谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)

字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で当時著名な漢詩人谷麓谷の子として江戸に生まれ、中山高陽の門人渡辺玄対に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身の老中松平定信付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、「石山寺縁起絵巻」の補作、また定信の個人的な画事などを勤めた。
 明清画を中心に中国・日本・西洋の画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p、立原杏所がいる。

山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)

石見国(島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれましたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図』は好評を得た。弟子として荒木寛友(1850〜1920)・高森砕巌(1847〜1917)等がいる。

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

小田莆川 文化2年(1805)〜弘化3年(1846)

旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済運動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)とともに、椿山が信頼を置いた友人のひとりである。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。近年、莆川に関わる資料情報が二件あった。田原市博物館に手控画冊十冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原町博物館年報第八号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。

斎藤香玉 文化11年(1814)〜明治3年(1870)

上野国緑野村(現群馬県藤岡市)に代官斎藤市之進(一之進も使用)の三番目の子として生まれる。長兄伝兵衛、次兄伝三郎と三兄弟。名は世濃、号を香玉、別号に聴鶯がある。父は後江戸に移り、旗本浅倉播磨守の用人となった。香玉は十歳で父と知己であった崋山につき、蛮社の獄では、父娘とも師の救済運動に奔走した。幼少の頃から手本として摸写してきた崋山の画法を忠実に継承した女性弟子である。崋山から田原幽居中に斎藤家に宛てた手紙もあり、斎藤家と崋山との交遊も知られる。旗本松下次郎太郎に嫁ぎ、二人の子をもうけた。崋山没後は、谷文晁(1763〜1840)の弟子で、彦根藩井伊家に仕え、法眼となった佐竹永海(1803〜74)に入門した。結婚後の作品は今に残るものが少ない。近年粉本類が多く発見された。

野口幽谷 文政10年(1827)〜明治31年(1898)

江戸神田町に大工の子として生まれた。名は続、通称巳之助、画室を和楽堂と号した。幼時期の天然痘のため、生家の大工の仕事より宮大工神田小柳町の宮大工鉄砲弥八に入門し、製図を学んだ。嘉永3年(1850)3月に、椿椿山に入門した。椿山が没した後、安政年間からは画事に専念し、師の画塾であった琢華堂を盛り立てた。明治5年(1872)湯島の聖堂絵画展覧会に『威振八荒図』を出品し、優等となり、ウィーン万国博覧会にも出品し、画名を知られるようになった。明治10年、第1回内国勧業博覧会で褒状を受け、明治15・17年の内国絵画共進会では審査員に選ばれ、かつ出品。第2回では銀賞を受賞した。明治21年に発足した日本美術協会展で審査員に選ばれ、以降同協会の指導的役割を担った。明治19年に皇居造営のため、杉戸絵を揮毫し、同26年に、帝室技芸員の制度ができると、橋本雅邦(1835〜1908)らと共に任ぜられた。椿山の画風を伝え、清貧を通し、謹直な筆法で、生涯を丁髷で通した。門人に益頭峻南(1851〜1916)・松林桂月(1876〜1963)らがいる。

田崎草雲 文化12年(1815)〜明治31年(1898)

足利藩士の子として江戸藩邸に生まれる。名は芸(うん)。字は草雲。谷文晁門下で学び、弟子に小室水雲がいる。一時、脱藩し、江戸に住むが、足利へ帰郷し、藩に絵師として復帰。尊王思想に共感し、明治維新時、藩論を尊王に統一させた。その後、第1回内国勧業博覧会へも出品し、足利で多くの弟子を育てた。明治23年(1890)には皇居の杉戸絵を揮毫し、帝室技芸員を拝命した。

山下青厓 安政5年(1858)〜昭和17年(1942)

現在の浜北市貴布祢に生まれ、名は伊太郎、字は孝雄、号は17歳で龍渓、30歳で聖崖・青崖、32歳で青p、他に梧竹園、碧雲書屋等と号す。
 生家は酒造業を営んでいたが、慶応2年(1866)、9歳の時、笠井村(現浜松市笠井町)に移住し、商売をしたが、画家となることを志し、近在の市川孤芳に学び、のち三方原の望月雲荘、見附の山本愛山、渡辺小華の作品を模写し、画を学習した。明治20年(1887)に上京し、小華塾に通い、小華の明治宮殿杉戸絵作成を手伝っていたが、両親の願いから笠井に戻る。渡辺崋山・椿椿山の作品を模写し、笠井で絵画制作に励んだ。明治28年に第4回内国勧業博覧会に出品した。崋山作品の鑑定家としても活躍した。

山下青城 明治17年(1884)〜昭和37年(1962)

浜名郡笠井村に住み、渡辺小華についた山下青pの子。父に絵を学んだ後、上京し、小室翠雲に指示した。崋椿系の鑑定も多い。

白井烟嵓 明治27年(1894)〜昭和51年(1976)

愛知県豊橋市花田町に生まれ、本名を白井瀧司、字を龍と称した。16歳より、従兄の白井永川に南画を学ぶ。大正3年(1914)に上京、近衛連隊に入隊した。除隊後、大正6年に崋椿系の流れを受けた松林桂月(1876〜1963)に師事し、大正9年第2回帝展に初入選以後、帝展、新文展に出品する。戦後は日展に出品し、第2回「雨後」第5回「雲行雨施」(特選)があり、翌年、無鑑査出品となった。以後、社団法人日展となってからも、昭和43年(1968)まで委嘱作家として活躍した。昭和35年、日本南画院創設に参加し、理事を務めた。昭和36年第1回南画院に出品した「秀孤松」は文部大臣賞を受賞。南画院、日本画会など多くの展覧会にも出品した。

狩野梅春 貞享元年(1684)〜寛延2年(1743)

宇都宮出身、絵師となるため、江戸に出て狩野派に学んだ。表絵師として幕府・大奥に仕え、後に深川水場狩野家の当主となる。

大場厚 明治41年(1908)〜平成9年(1997)

渥美郡田原町大久保(現田原市大久保町)に生まれた大場厚は、昭和5年(1930)岡崎師範学校専攻科を卒業し、昭和15年二科展に初入選します。同年正宗徳三郎・向井潤吉に師事。昭和20年より成章中学美術教諭となり、同21年、向井潤吉の誘いを受けて、行動美術協会結成に参加、会友となります。翌年、東海行動美術協会を結成。昭和30年、行動美術協会会員となり、以後審査員。昭和34年、向井潤吉・田中阿喜良とともに渡仏。昭和37年に教職を退き、パリス工芸株式会社を設立し、行動美術展を中心に活躍するかたわら、東三在野美術協会などのグループに参加。平成18年、行動展出品作品を中心とする作品の多くを田原市博物館に寄贈されました。

仲谷孝夫 大正7年(1918)〜平成18年(2006)

京都市立絵画専門学校で日本画を学んだ後、戦後、洋画へ転向し、郷里の田原中学校・成章高等学校で教員をつとめながら、昭和26年(1951)に行動美術展に初入選します。作品の主題は緑豊かな自然とともに生きる人々の姿であり、半ば抽象化された画面の中に自然が破壊される不安な世相を反映させながら、描き出しています。2001年には豊橋市美術博物館にて展覧会が開催され、平成20年に行動展出品作品を中心とする作品の多くを田原市博物館に寄贈されました。

伊奈森太郎 明治16年(1883)〜昭和36年(1961)

伊奈森太郎は、大久保町の農家の長男として生まれ、26歳で田原尋常小学校の校長を勤めました。現在も田原中部小学校で続いているPTA紙『家庭と学校』は、伊奈の在任中は、ほとんど彼が執筆しました。また、伊奈は、田原に関する人物や史跡の紹介を意欲的に進め、郷土学習の手本に渡辺崋山を模範的人物として勧めています。田原中部小学校の崋山劇で知られている「立志」は、伊奈が脚本を書いたものです。昭和6年に退職した伊奈は、愛知県教育史の担当となりました。愛知県全域で資料集めを行い、考古や歴史、民俗、民話、歴史、美術の分野の調査成果を報告しています。伊奈の著書には、渡辺崋山、岡田虎二郎に関するものをはじめ、『名古屋と民謡』『郷土民謡風土記』『愛知県現存若い者文献集』『愛知県地方の古歌謡』『尾張の祭』『三河のお祭』などがあります。また、短歌の機関紙として『うぶすな』を編集しています。

樋口一葉 明治5年(1872)〜明治29年(1896)

樋口一葉は、幼い頃は甲斐国出身の父が東京府庁に勤め、裕福な家庭に育ったが、17歳で父を亡くし、女性でありながら戸主となった。本名はなつ、夏子とも書く。18歳(の時、母と妹を養うために小説家を志しましたが、それだけでは、苦しく、明治26年(1893)、龍泉寺町で荒物・雑貨と駄菓子を売る店を始めた。しかし、商売は上手くいかず、翌年には店をたたみ、本郷丸山福山町(現・文京区)に転居、執筆活動に専念し、次々と作品を発表するようになる。一葉は明治25年(1892)、雑誌『武蔵野』に処女作「闇桜」を発表、<奇跡の14ヶ月>といわれる、明治27年(1894)の12月〜明治29年(1896)の1月の間に「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」等の代表作を執筆している。

糟谷磯丸 明和元年(1764)〜嘉永元年(1848)

半農半漁の伊良湖村で育った磯丸は、長年病に伏していた母の回復を願い伊良湖明神に日参するうち、参拝人などが口ずさむ奉納歌の響きに心を引かれ歌を詠むようになった。もともと一漁夫で、文字を書くことができなかったが、だんだん仮名を見覚えて書けるようになっていった。無筆の歌詠みの評判を聞いた隣村の郡奉行の井本彦馬常陰から教えを受けるとともに磯丸の名を与えられた。その後、鍼医で女流歌人の林織江に見出され、宗匠である京都の芝山大納言の門下に加えられた。磯丸は生涯に数万首の歌を作ったといわれているが、中でも「まじない歌」は、家内安全・無病息災・安産の歌・商売繁盛など人々に請われるままに、困りごとや希望などについて心を込めて詠みあげている。歌碑の建立などを通じて、現在の三遠南信地域とゆかりが深く、遠くは京都・伊勢・尾張・江戸などにその足跡を残している。現在、恋路ヶ浜から伊良湖岬灯台まで続く遊歩道の縁石には、選歌された61首が地元の方の揮毫により刻まれている。

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