平常展 田原の歴史―自由民権運動に参加した人々

開催日 平成22年2月19日(金)〜3月22日(月・祝)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 企画展示室2

元田原藩士出身の村松・川澄らは自由民権運動に参加し、1884年愛知・長野の自由党員が起こした反政府転覆未遂事件「飯田事件」に関与しました。彼らは田原藩の士族出身で、成章館にて、伊藤鳳山から儒学を鈴木才三・村上照武から英語を学びます。

展示作品リスト

企画展示室2
指定分類 作品名 作者名 年代 備考
  田原藩士たち      
  独逸カドリ氏文典
直譯
鈴木孝之介 明治5年(1872)  
  渡邊崋山 白井菊也
加須屋壽賀藏
明治30年(1897) 白井も自由党員、白井烟_寄贈図書239
66 欽定四庫全書簡明目録 鷹見爽鳩校閲 江戸時代後期 萱生玄順旧蔵、川澄徳次旧蔵書
  数学教科書
Robinson's Mathematical Series
Key to Robinson's New Elementary Algebra
  1877年 村上照武旧蔵
田原藩御納戸書籍398
  村松愛蔵      
  村松愛蔵写真   青年時代  
  村松愛蔵写真   明治29年(1896)  
  村松愛蔵写真   昭和7年(1932)撮影 救世軍時代
  三宅康寧写真   昭和時代 元田原藩主
  田原藩御家中由緒   江戸時代後期 村松の項
  高島流起請盟文   天保14年(1843)〜嘉永6年(1853) 父、村松志津馬天保14年9月20日入門
  新製家中分限帳   明治元年(1868)  
市文 康保日記 三宅康保 明治5年(1872) 4月6日
8月1日 下等小学八級卒業證書 田原学校 明治7年(1874)6月18日  
8月2日 下等小学七級卒業證書 田原学校 明治7年(1874) 6月18日  
8月3日 下等小学六級卒業證書 田原学校 明治7年(1874) 6月20日  
8月4日 下等小学五級卒業證書 田原学校 明治7年(1874)9月25日  
  自由党東三支部之印   明治時代  
  自由党選挙事務事務所印   明治時代  
1 自由新聞株式券状 自由新聞社 明治15年(1882)5月29日  
15 江湖新報   明治14年(1881) 第63号〜83号
  川澄徳次      
2 川済由緒     親昌−
3 由緒書 川済彦四郎義見    
  川澄徳次写真   明治時代  
  五字書
「遊魚迸冰出」
川澄徳次   個人蔵
4 金銭雑費出入 川澄徳次 明治9年(1876)8月 12月まで
5 月謝月俸受納記 川澄徳次 明治10年(1877)から  
6 算術問題   明治10年(1877) 9月30日  
7 川澄徳次宛書簡 青木幸作 明治10年(1877)頃 青木は広瀬塾生
1 算学免許授与目録 広瀬祐貞 明治12年(1879)3月  
2 数学傳書 広瀬祐貞 明治12年(1879)7月  
3 関氏秘傳術摘要 川澄徳次 写 明治12年(1879) 7月  
  (教科書類)      
1 関流算法草術 川澄徳次 写   7冊
2 関流算法演段 川澄徳次 写    
3 関流算法一式演段 川澄徳次 写    
4 関流算法図解法全 川澄徳次 写    
5 関流算法発明
日用術 全
川澄徳次 写    
6 算法點竄法 全 川澄徳次 写 明治9年(1876)3月18日  
7 算法點竄法 川澄徳次 写   3冊
8 點竄法精要算法解 川澄徳次 写   9冊
9 拾_算法 川澄徳次 写    
10 句股弦百題 下 川澄徳次 写 明治10年(1877)3月7日  
11 句股弦百題上図解 甲 川澄徳次 写 明治10年(1877)3月  
12 句股弦百題上解符術 甲、乙 川澄徳次 写   2冊
13 初伝算法記 川澄徳次 写    
14 算法重寳記 川澄徳次 写 明治10年(1877)2月 2冊
15 産数毫見免相極術 川澄徳次 写 明治10年(1877)3月18日  
16 算法差術 全 川澄徳次 写    
17 神壁算法解一之巻 川澄徳次 写    
18 神壁算法 四之解 川澄徳次 写    
19 算法側圓詳解 村田佐十郎
恒光
  2冊、天保4年(1833)序
20 側圓術 川澄徳次 写    
21 算法側圓解 川澄徳次 写    
22 矩合 適等正三角図解法 全一百二十八問題 川澄徳次 写 明治10年(1877)7月19日  
23 算法行度 川澄徳次 写    
24 算法雑題問 川澄徳次 写   2冊
25・26 算法演段大成 一、二 川澄徳次 写    
27 秘書 日月食求ル解 天正象図解 川澄徳次 写    
28 九章問答叢題 川澄徳次 写   10冊
29 算法浅問抄 全 御粥猪之助
安本 編
  天保11年(1840)初版
30 維乘 全 川澄徳次 写    
31 諸等表 全 川澄徳次    
32 算法通書 下 川澄徳次 写   駿河古谷定吉道生編
33 開化雑題 両用算法 田中菊蔵
広瀬祐貞 編
   
34 由精算學例問   明治10年(1877)7月27日 広瀬祐貞著
35 改正 洋算例題答解 広瀬祐貞 編 明治10年(1877)11月  
36 洋算例題答解 広瀬祐貞 編    
37 洋算例題 佐々木綱親 明治4年(1871)  
38 洋算例題答解      
39 改正洋算例題答式代数学之部 賀屋洋介    
40 筆算通書入門 靜庵花井先生
明治8年(1875)  
41 対数表用法 鹿沐靜枝 著 明治8年(1875)1月  
42 洋算早見知 三輪文輔 編 明治8年(1875)4月  
43 幾何必携 罫画新書 全 藤井最證 著 明治9年(1876)10月  
46 幾何必携 罫画新書 藤井最證著 明治13年(1880)12月  
44 筆算問題集 小林正方 著 明治10年(1877)8月  
45 筆算題_ 巻十四 田沢昌永 編 明治12年(1879)12月  
47 増補数学三千題解式 尾関正求 著 明治18年(1885)6月  
48 比例 川澄徳次 写 明治7年(1874)  
49 算法術記 川澄徳次 写 明治7年(1874)  
50 第一算盤之図 全 川澄徳次 写 明治9年(1876)10月23日  
51 幾何學 川澄徳次 写 明治10年(1877)12月6日  
52 幾何学 川澄徳次 写 明治10年(1877)5月  
53 差分術(練習帳) 川澄徳次 写    
54 祝題雑問 集録算法 川澄徳次 写    
55・56 珠算通書入門 川澄徳次 写 明治10年(1877)6月  
57 算書 写 川澄徳次 写   原題不明
58 算術手引草 川澄徳次 写    
59 代数教科書 巻二解式 川澄徳次 写    
60 代数教科書答式 川澄徳次 写    
61 代数幾何答解 川澄徳次 写    
  飯田事件      
2月2日 奇怪哉 川澄徳次 明治16年(1941)4月1日から 飯田事件前の紀行日記
  写真 桜井平吉      
4 勾引状 飯田警察署 明治17年(1884) 12月3日  
5 勾留状 飯田警察署 明治17年(1884) 12月4日  
6 送達書 長野軽罪
裁判所松本支廰
明治18年(1885)9月9日  
8 重罪裁判所ニ移スノ言渡   明治18年(1885)9月8日  
7 送達書 長野重罪
裁判所
明治18年(1885)9月25日  
9 公訴状 長野重罪裁判所 明治18年(1885)9月25日  
10 弁護人選定についての川澄徳次宛書簡 白井菊也
湊宿太郎
明治18年(1885)9月25日から  
11月1日 大赦通知 東京集治監典獄 明治21年(1888)2月14日  
11月2日 大赦通知 東京軽罪裁判所 明治21年(1888)2月15日  
  飯田事件後      
12 政府予算案に対する反対貫徹を訴える文書 川澄徳次他
96名
明治24年(1891)1月  
  教育勅語   明治23年(1890)制定  
市文 雑書日記   明治40年(1907) 7月20日
  鈴木才三宛書簡 村松愛蔵 明治42年(1909)12月25日  
  鈴木才三宛書簡 村松愛蔵 明治43年(1910)1月1日  
  愛用の聖書   大正15年(1926) 高津高次へ贈ったもの
  近藤博宛書簡 村松愛蔵 大正9年(1920)4月5日  
  近藤博宛ハガキ 村松愛蔵 大正12年(1923)6月11日  
  近藤博宛ハガキ 村松愛蔵 大正12年(1923)6月20日  
  近藤博宛ハガキ 村松愛蔵 大正12年(1923)6月22日  
  近藤博宛ハガキ 村松愛蔵 大正12年(1923)11月  
  近藤博宛ハガキ 村松愛蔵 大正12年(1923)6月22日  
  写真 鈴木清節先生禁酒大講演会記念撮影   昭和6年(1931)1月18日 田原町町会議事堂にて禁酒大講演会後
  写真 救世軍京都小隊長河合光治大尉・奥様御来田記念撮影   昭和時代 田原城跡崋山記念碑前にて
  写真 東京救世軍杉並中隊前の写真館にて   昭和10年(1935)  
  「鈴木春山九十年法要展墓会参集の人々」写真     鈴木春山兵学全集 上巻 口絵写真
最前列に村松愛蔵
  参考文献      
  たはら文化 第27号〜46号コピー 田原町文化
協会
昭和53年(1978)〜58年(1983)〜  
  田原史 太田ぜん太郎 昭和10年(1935) ぜん=金偏に善
  三河憲政資料 鈴木清節 編 昭和16年(1941)  
  愛知大学綜合郷土研究所紀要第24輯 愛知大学 昭和54年(1979)  
  愛知大学綜合郷土研究所紀要第25輯 愛知大学 昭和55年(1980)  
  三河民権史料 信濃毎日新聞所載飯田事件裁判記事 愛知大学
文学部史学科田崎ゼミ
昭和56年(1981)  
  回天の志士 村松愛蔵 小澤耕一 昭和61年(1986)  
  自由民権 村松愛蔵とその予告 柴田良保 昭和59年(1984)  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

村松愛蔵 安政4年(1857)〜昭和14年(1939)

村松愛蔵は田原藩家老の家に生まれ、藩校成章館(せいしょうかん)や豊橋の穂積清軒塾(ほづみせいけんじゅく)で儒学・英語などを学んだ。1873年(明治6)、16歳で上京し、東京外国語学校(現東京外国語大学)ロシア語学科に入学する。彼はそのころ盛んになりつつあった自由民権運動に関心をもち、田原に帰郷後、同士を集めて恒心社(こうしんしゃ)という政治結社をつくり、国会開設の運動を盛り上げ、「日本憲法草案」を起草し、発表した。しかし、1884年(明治17)に長野県飯田の自由党員たちと挙兵暴動計画を立てたが、事前に発覚し、処罰され、北海道の監獄に送られた(飯田事件)。
その後、明治22年、憲法発布の大赦(たいしゃ)により釈放された彼は、名古屋の扶桑新聞社の主筆となり、1894年(明治27)衆議院議員選挙に二度出馬したが、落選。1898年(明治31)第5回衆院選で初当選、立憲政友会に属して政界で活躍する。1909年(明治42)日糖疑獄事件で政界を去り、晩年はキリスト教救世軍に転向し、宗教人として生涯を終えた。没後、田原中部小学校で行われた納骨式には数百人の町民が参列した。
(村松家)五郎左衛門尉定政―清左衛門定次―清左衛門定良―清兵衛定世―清左衛門定賢−清兵衛定繁−六郎左衛門定克−五郎左衛門定彜―(父)清兵衛定孝(志津馬)−(長男)愛蔵

川澄徳次 安政6年(1859)〜明治44年(1911)

川澄徳次は田原藩士川澄与五右衛門の四男として生まれ、藩校成章館で伊藤鳳山や萱生郁蔵らに学んだ。少年期に豊橋で関流数学を学び、16歳で小学教師となり、19歳で新城の広瀬祐貞塾でさらに関流数学を学び、塾頭となった。徳次は2年先輩の村松愛蔵の影響を受け、民権運動に加わった。恒心社に参加し、まもなく自由党に入党、明治16年4月から約10ヶ月かけて、愛知・長野・山梨・東京・神奈川・静岡の6県を視察と遊説のため、徒歩で無銭旅行をした。飯田方面において8ヶ月間、現地の小学校に教員として勤務した。この飯田在住が飯田事件で桜井平吉らの信州グループと村松愛蔵らの田原グループを結びつける契機となった。飯田事件で逮捕された徳次は北海道の監獄に入獄した後、明治22年、憲法発布の大赦(たいしゃ)により釈放された。しばらくは愛蔵らと政治活動に従事したが、明治25年、保安条例により東京退去を命ぜられたのを、機に当時流行した南進論に共鳴し、27年に、スペイン領トラック群島に到着し、原産物の交易に従事した。日本の南洋貿易に尽力したが、2年で帰国した。その後、台湾やプラタス島で新たな貿易に取り組んだが、失敗に終わった。東京で、餅菓子や稲荷ずしを取り扱う店を営んだが、病没し、蔵王山麓の墓地に葬られた。辞世の歌に「生れたは 何の為かは 知らねども 死んで行くのは 更にわからず」。
(父)与五右衛門−(四男)徳次

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村松・川澄周辺の関係人物

伊藤鳳山 (1806〜1870)

酒田出身、田原藩校成章館で儒学を教える

萱生郁蔵 (1819〜1868) 

田原藩医萱生玄順の養子。名古屋の浅井医塾の塾頭、洋学を学び、のち二代目玄順を襲名した。藩の大型帆船建造調査のため、長州へ旅した

鈴木才三 (1848〜1910) 

田原藩蘭法医鈴木春山の孫、成章館で英語を学ぶ。廃藩後、開成学校・大学南校・慶応義塾で学ぶも、いずれも学資欠乏と病気のため中退、のち「愛岐日報」編集長・扶桑新聞社主

村上照武 (1850〜?) 

田原藩家老で、兵学者村上範致の息子、成章館で英語を学ぶ

三宅康寧 (1857〜1918) 

江戸時代最後の田原藩主三宅家の若君、明治16年家督相続、翌年子爵拝命、巴江神社祠官・津島神社社司をつとめた

穂積清軒 (1836〜1874) 

吉田藩士、明治維新後、英語塾好問社を開設

広瀬祐貞 (?〜?) 

新城の関流数学者。由精堂という和算の私塾を開いていた

板垣退助 (1837〜1919) 

土佐藩出身。1874年から自由民権運動に乗り出した。1881年から自由党初代総理。100円札紙幣に肖像が使用された

鈴木孝之介 (1854〜1945) 

田原藩出身。村松愛蔵らとともに田原での自由民権運動を行ない、政社「恒心社」を結成した。東京医学校に進み、愛知県立医学校教師となる。軍医として活躍、海軍軍医総監に任命された

広中鹿次郎 (1855〜1898) 

田原本町で、藩御用達商人だった広中家の第13代当主。鹿治郎とも称す。明治4年に家督相続

山本健 (?〜1911) 

田原藩士、明治18年3月から22年9月まで田原村戸長。同22年10月より30年9月まで田原村長及び田原町長をつとめた

永瀬誉 (?〜?) 

田原藩士、権大参事、旧姓名を鈴木左司馬と言う。東京在府議員。子に京都帝国大学工学士狂三がいる

前田又平 (1848〜1916) 

赤羽根の農漁業中村家の二男、伊藤鳳山・渡辺小華に学び、藩物産係になり、明治以降海産物貿易を経験し、田原町会議員となり、横浜魚油株式会社の支配人になった

八木重治 (1862〜1911) 

田原藩士、飯田事件で村松とともに逮捕。後に実業界へ転じ、愛知電灯株式会社の創立に参加

白井菊也 (1861〜1897) 

田原藩出身。渥美郡高塚学校教員をした後、名古屋の自由党系扶桑新聞社記者となり、のちに新聞広告取次店を開業。隣に八木重治が住んでいた。妻こうは菊也没後、私立女学校として岡崎裁縫女学校を開いた

太田金善太郎 (1863〜1942) 

田原藩出身。田原小学校訓導。明治30年から実業家となった。昭和10年に『田原史』を編纂した

桜井平吉 (1853〜?) 

飯田の愛国正理社社主

山室軍平 (1872〜1940) 

キリスト教救世軍(プロテスタントの一教派)日本初代司令官

鈴木清節 (1869〜1952) 

吉田藩士の二男で、明治9年に元田原藩士の家へ養子に入り、田原学校で学ぶ。若見小学校代用教員となり、18歳で巴江義塾に入り、学ぶ。のち名古屋で新愛知新聞社の記者となる。田原の八木重治が新愛知新聞の主筆となった。のち、渥美郡会議員・田原町長をつとめた。村松の斡旋で、扶桑新聞社に入った。東三河自由党の党務を担当。マスコミ人として活躍し、『三河憲政史料』を著した。名古屋禁酒会創立

高津高次 (1910〜1980) 

明治43年生まれ、救世軍時代の村松夫妻を訪ねた。村松愛蔵から愛用の聖書を贈られた。昭和55年2月16日逝去。

近藤博 (?〜1982) 

田原藩御用達商人近藤伝十の家の二男。尋常小学校教員。一炊園の西田天香に心酔し、救世軍の村松愛蔵を慕っていた。昭和57年逝去。
(参考 山本健文書より)
恒心社/明治十三年三月大阪ニテ国会/期成同盟会ヲ組織/当田原デハ恒心社ヲ組織シ、/村松愛蔵・鈴木孝之助/廣中鹿次郎・永瀬誉/尾頭徳義・児島彦七/児島徳・ト山本健等/盛ンニ政論ヲ鼓舞シ、西三/内藤魯一・太田松次郎等ト/図リ、政治運動ノ振作ニ努メル。

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作品紹介

数学教科書 村上照武旧蔵

表紙裏に「Z.P.MARUYA&CO.」のシールが貼られている。住所には東京日本橋通三丁目14・15とあり、現在の丸善のことで、創業当時は「球屋商社」の名であった。明治13年(1880)から「丸善」を名乗るようになる。

高島流起請盟文

天保14年から嘉永6年にかけての起請文。村上範致は天保12年3月、江戸へ出て徳丸原洋式砲術訓練に参加し、砲術修行をした。翌年、さらに長崎へも留学し、帰藩後、田原藩でも高島流銃陣砲術を採用した。村松・川澄らの父も高島流を学んだことがわかる。

自由党東三支部之印・自由党選挙事務所印

明治23年(1890)、板垣退助が立憲自由党(翌年に自由党と改名)を結党すると、村松愛蔵らはすぐに入党し、活動を始めた。1898年に憲政党の結成に伴い、解党。

康保日記

田原藩が明治4年に廃藩置県で無くなると、それ以降、藩主であった三宅家では私日記を大正時代初めまで録している。明治5年の日記、4月6日のところに「村松愛蔵、今度為修行出府ニ付、為伺罷出、菓子一折持参之、逢有之」とあり、上京して東京駿河台のギリシャ正教会大主教ニコライにロシア語を学ぶ前に、康保に面会に来たことが記録されている。

江湖新報

明治13年(1880)11月に創刊された。新聞記者で、後に小金井村長となる大久保常吉編集で、服部誠一が社務綜理。明治15年10月には、『内外政党事情』と改題。東京京橋区にあった四通社発行。毎月10回発行。「小」「川」「神」などは回覧済のサインであろう。

自由新聞株式券状

自由新聞は自由党の日刊機関紙。立憲改進党と立憲帝政党を支持する新聞社しか無かったため、同士から資金を募って日刊新聞を出すことにした。社長は板垣が就任。定価は1部3銭で推定発行部数3000部。資本金が目標の2割程度しか集まらなかった。

卒業證書

明治の学制頒布により、6年10月から田原町にも小学校が設立された。義務教育ではあったが、生徒から月謝が徴収された。当初は上等が10歳から13歳、下等は6歳から9歳に区分されていた。

教科書類

江戸時代の和算塾では、個人教授で、問題を各人に出題し、回答できれば、次の問題を出す。江戸時代に関孝和(1640?〜1708)が考案した和算は、関流和算と呼ばれた。加減から方円求積までの課目を八つに分け、規矩[きく]術(建築部材の実形を幾何学的に割り出し、材木に墨付けをする技術)、四線表量地術(山野海陸の距離を測量する技術)などの実務的で高度な算術の課程がとられていた。学校整備が不十分な明治時代初期には公立教育を受けられない人の受け皿になった。

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あとがき

今回の展示では、明治時代前半に起きた自由民権運動で活躍した地元の人を取り上げました。江戸時代末期に田原藩士族の家に生まれ、明治維新という大きな時代の変革期に武士から政治活動へと身を投じます。学問にも一生懸命ですが、明治14年(1881)に変わり行く日本を心配し、「日本憲法草案」を起草し、新聞に発表しています。国会議員の選挙権に満18歳以上の男子や婦人戸主に認めた画期的なもので、「日本国民ハ其族籍位階ノ別ヲ問ハズ、法律ニ対シ同等ノ権利タルベシ」「日本国民ハ結社集会演説討論出版職業信教ノ自由ヲ有ス」とあり、議会制民主主義の原則が貫かれています。明治17年に起きた秩父事件(秩父郡の農民が政府に対して起こした武装蜂起事件)に刺激を受けた村松愛蔵・川澄徳次らは飯田の桜井平吉らと藩閥政府打倒を計画し、準備を進めました。愛知・長野で約三千人が取調を受けました。田原は検挙者の数が最もかったが、世評にのぼることを避けたかった政府は、裁判を名古屋でなく、松本で行った。村松愛蔵は軽禁獄7年、川澄徳次は同6年の判決を受け、北海道の監獄に送られた。明治22年の憲法発布大赦により出獄。翌23年、板垣退助らが立憲自由党を結成すると、村松愛蔵は入党し、評議員をつとめ、また、名古屋の扶桑新聞社で、主筆として時事評論を書いた。明治27年に2回行われた衆議院議員選挙では落選したが、明治31年、第5回衆議院議員選挙に当選すると、以後3回再選を果たした。明治42年に23人の代議士が検挙された日糖疑獄事件に連座し、衆議院議員を辞職した。獄中で、妻から差し入れされた聖書で回心し、宗教人となった。川澄徳次は出獄当初、村松らと自由党系の政治活動に従事したが、国会議員達への直接的な政治批判が目立ち、明治25年に第2回保安条例により、東京退去を命ぜられた。これを契機に政治と決別し、当時流行した南進論に傾倒した。人口増加と領土狭小に悩む日本の打開策として、南洋探検と拓殖移民の必要性を感じていた。明治27年には、知多半田の東海航業会社の南洋貿易帆船東海丸に横浜港から乗船した。

次回展示、平成22年3月27日(土)〜5月9日(日)の期間は、川澄徳次が保管していた図書のうち、歴史・地理関係図書とトラック群島などの南洋諸島関係の資料を展示します。航海費計算簿・南洋行きのための義捐金とりまとめ簿などを展示します。

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