平常展 渡辺崋山と遠州の弟子たち

開催日 平成22年2月19日(金)〜3月22日(月・祝)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山の画弟子は、主に江戸で学んだ人たちである。天保年間に江戸へ出て、崋山に絵を習い弟子となった人もいる。遠州出身の画人である福田半香・平井顕斎と江戸で学んだ後に金谷に移った永村茜山の作品を展示します。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  蓮塘集 梁川星巌
福田半香
天保11年(1840)  
  興到筆随帖 福田半香
萩原秋巌書
天保13年(1842)  
  山水図 平井顕斎 嘉永5年(1852)  
  福田半香宛書簡 渡辺崋山 天保12年(1841)  
重文 獄中書簡 渡辺崋山 天保10年(1839)  
  翡翠扇面図 渡辺崋山 天保8年(1837)  
  旭日浴波図 渡辺崋山 天保8年(1837)  
  山水雪霽清話図 平井顕斎 弘化4年(1847)  
  千山万水図 平井顕斎 嘉永3年(1850)  
  山水図屏風 平井顕斎
福田半香
弘化2年(1845)
弘化3年(1846)
 
  海辺宿船之図 福田半香 江戸時代後期  
  渓谷山水図 福田半香 弘化3年(1846)  
  夏堂聴雨図 福田半香 弘化年間  
  双鶴山水図 福田半香 江戸時代後期 個人蔵
  于公高門図 永村茜山 江戸時代後期  
  七夕図 永村茜山 江戸時代後期  
  游子之図
花卉之図
山水之図 合装
渡辺崋山
椿椿山 
福田半香
江戸時代後期  
  花見之図 永村茜山 江戸時代後期 個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

平井顕斎 享和2年(1802)〜安政3年(1856)

遠江国榛原郡川崎に豪農の家に生まれた。幼名は元次郎、名は忱、字は欽夫、号は顕斎、四十歳頃より三谷・三谷山樵と称した。文晁門下で掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)に入門した。兄政次郎の没後、家督を継いだが、26歳で江戸に出て、谷文晁の門に入る。文晁より「画山写水楼」の号を授かった。帰郷後、天保6年(1835)再び江戸に出て崋山に入門した。師崋山の作品を丹念に摸写し、山水画を最も得意とした。渡辺崋山が描いた『芸妓図』(重要文化財・静嘉堂文庫蔵)は顕斎に贈られたものである。

福田半香 文化元年(1804)〜元治元年(1864)

名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見付(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1771〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。

永村茜山 文政3年(1820)〜文久2年(1862)

永村茜山は幕府の祐筆長谷川善次郎の三男として江戸赤坂に生まれた。幼名寿三郎、通称は晋吉、名は寛、字は済猛、号は寿山、のちに茜山と称した。茜山は崋山の日記『全楽堂日録』(愛知県指定文化財、個人蔵)の文政13年11月6日の項に初めて登場する。この時、11歳になる。この頃の崋山は毎月一と六のつく日に画塾を開いていて、その画塾に茜山は通ってきていた。天保9年(1838)19歳の時、代官羽倉外記(1790〜1862)の伊豆七島巡視に参加し、正確な地図と美しい写生図を描いている。崋山が蛮社の獄で捕えられると、茜山は江戸を去り、諸国を旅する。二十歳代の中国人物画も多く知られているが、永村を名乗るのは、嘉永元年(1848)29歳で金谷宿の組頭職永村家の婿養子に入ってからのことである。以来、組頭の仕事を盛り立て、筆を置いたが、後年、琹谷の名声を聞き、画業を志すが、評判が低く失意の晩年を過ごした。若くして師である崋山に画技を認められながら、充分に発揮できずに生涯を終えた。

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作品紹介

蓮塘集

梁川星巌(1789〜1858)は美濃国安八郡曽根村出身の漢詩人。文化5年(1808)に江戸へ出て、山本北山に弟子入りした。その後全国を回り、江戸へ戻ると玉池吟社を結成した。江戸詩壇の中心となり、優秀な詩人を輩出したが、居を京都に移した。崋山とも交流があったといわれる。大槻盤渓(1801〜1878)の序がある。

興到筆隋帖

書と画が五枚ずつ描かれた画帖は山水画を福田半香、漢詩の書を萩原秋巌(はぎわらしゅうがん・1803〜1877)の作品である。秋巌は江戸時代後期の書家で、宋の徽宗皇帝の痩金書を好んだ。半香は崋山の門下生で、天保4年(1833)に崋山と出会っている。そして翌年、江戸へ行き、崋山門の扉を叩いた。崋山に入門した後、椿椿山(1801〜1854)の花鳥画のすばらしさに目を見張り、自分は山水画に専念しようと決意をした。その中で半香は崋山を救うために開いた絵画会で逆に崋山を苦しめる事となってしまった。
崋山は天保12年(1841)、自害した。半香は失意のなか、自分を責めながらも、崋山や倪元璐、費漢源など明清画人の作品から基本を学んだ。この画帖は、崋山自害の翌年1月に描かれている。悲しみの後の静かな透明感に満ちた気持ちからか、柔らかで優しく、またおおらかさも感じさせる作品である。この画帖は半香の門人、小栗松靄(おぐりしょうあい・1814〜1894)のために描かれたものである。松靄の一家は文墨の士が多く、多くの文人墨客が旅の途次に小栗家を訪ねており、遠州で松靄を訪れずに過ぎることはなかったと言われている。この桃源郷の風景を描いたと思われる画帖を眺めながら、半香も10歳年下の松靄と楽しく心温まるひとときを過ごしたのではないだろうか。

四州真景図(複製) 渡辺崋山

文政8年(1825)6月29日から7月上旬にわたり、33歳の崋山が武蔵・下総・常陸・上総の4か国を旅した時のスケッチで、全4巻から成る。1巻は行程記録、2巻は行徳・釜原など10図、3巻は潮来・銚子など11図が載せられている。天保11年(1840)、田原蟄居中に着色を施したことが日記に記入される。

福田半香宛書簡 渡辺崋山

高書拝讀古/言之候状審/文府安和奉慰候。/
一 絵本 廿五枚画/宝一帙返上、御かけ/にて大楽ミ也。又々御引/かへ奉願候。
一 私事慎ミ候上にも/慎ミ、他人ニハ一切逢/不申、画も決而人の求ニハ/應し不申候。此間の絵も/扇も、先年認候/(も)のニて御坐候間、其御思召/にて御出可被下候。岩様/へも其通被仰可被下候。/
一 御草稿またまた大雑に/筆を入差上候。一體ハ/大きに御上り見え申候。いくらも/
存寄可申上候。今夕/いそき早々如此候。/
七月十八日
半香様 渡邉登

獄中書簡(椿椿山宛) 渡辺崋山筆

崋山が北町奉行所より自分の救済に奔走している弟子の椿椿山に宛てたもの。椿山の救済運動に対して厚い温情を示し、投獄の原因について真相究明の諸状況をまとめたものである。

毎書感涙ニ不堪、其所言ヲ不知候。尊兄ハ
情実ヲ以テ御極、藩人ハ義理ヲ以護
持致、必竟スル処皆御愛憐之外無之、
感謝無量ニ候。扨尊兄ノ言ハ小生之
実事ニて、藩人之言ハ小生之虚称に御座候。
必竟此度ノ災ハ虚称ニ生シ候ニて、唯
時運の会計にハ無之、謹而兄ノ言ヲ
読候処、一々実際に入、小生ノ平日ヲ見ル如クニ
御座候。是ハ兄骨肉の交リ故、小生肺
腑ニ入候如ク、一も虚設無之候。唯江印
交一両年来也。御存之通、忠胆無二
寛永已上ノ人物也。一体御近所川印より
噂ナトにて相合候ニテ、此江印抑杞憂
アリテ海岸隷スル所ノ地多、ソレ故地理
承リ度、何卒入門ヲ願なと御頼ナレトモ、
御存之通人ニ咄候程之事モ出来不申、
況教ナト思ひもよらぬ事ニ御座候。然ルニ
右令ハ直裁ナル御人故、一字にても師ハ則
師なリナト被申、迎送も御丁寧ニテ御座候。
これ以一時之戯同様ナル事ニハ御座候得共、
御直情ハ右之通ニ御座候。然処当春
御用旅中、私所持之目かね測量
器等途中より御借用被成度とて、度々
往復之御手書有之、御帰府後ハ
御用多にて左程御目にかゝらず候。右之
通往復書と申、且上田喜作と申藩人
師内田弥太郎ニ随ひ測量手伝致候事
ニ付、多分ソレラヨリ此禍起リ候事ト被
察候。果テ一同右風評有之ニ及候。
一 外夷之事ハ当路御掛リ方ヘハ度々
御話ニ及候事も有之、已書物も差出候
事も有之、昨十月頃申上候事も有之、
此節ニ及、少シハ内扶も有之哉。此義ヲ
一々申上候得は、私実情ハ忽相分リ
候得共、御名前ヲ申上ル恐入慎ミ候事
故、椽下ニ力ニ相成候。
一 尊兄書、尤私性質ヲ尽し事実
モ審ニ御座候。御存之通リキミタル事ハ
好候様ナレトモ、性実ハ山林之質ニテ
柏手ニナリ、有為者之如ク致居候也。これと
申も胸中種々不得止義有之、
此度奇禍ヲ蒙リ候程ナル事も、年来
之工夫あやまりにて御座候。乍去外異の
憂タル事ヲ思過シ候得は、又絵事も止メニ
致可申哉なと、心かワリ候事も有之候。
一 尊兄私之気ヲかね其御実情之止ム
ヘカラザルヨリ此書御計ヒ被下処、真兄
弟ニ勝リ涙のミ袖ヲ湿シ候。乍去又
御今未ノ御請方慷慨ヲ虚張致、
ツマラヌ所ヘ廉立候而ハ御計も無益
なと、ソレヨリソレへ御配慮之事ト奉察、
依之此推察ヲ申上、已後ハ今未之節
決テ客気虚張ハ不仕、被仰下候趣ニ
御受可申候。
一 二十一日御今未、申上候通ニて猶御考可被下候。私
事軽ク候テ在所行永蟄居ナルヘシ。唯差
当リノ不孝ニ迷ひ候のミ、外ハ破鞋ヲ舎ル
如クニ御座候。
一 可笑事ハ一夕認候ツマラヌ書物ニて、
其書中何ヲ認候哉覚不申、此度願候而
写本ヲ匆々一二枚読候処、此間申上候通
其意も不尽もの、これハ残念無限候。
必竟御存之通、浮躁疎大之性、
此奇禍ヲかもし申候間、依之四月已来
東坡カ言ヲ以罪ヲ得候より、稽叔夜之養
生論ヲ認候事ヲ思ひ出、節録致貼壁仕
候処、則それカ先兆と相成候。私心事
ノ蹉跎タル事御察シ可被下候。頓首
六月二十七日 花
弓丙兄下         

夏堂聴雨図 福田半香

山間より流れ落ちる滝、激しく斜めに降り注ぐ雨、流れてくる渓流の中、一人使いの者であろうか、庵に向かって傘をさし橋を渡ってくる者がいる。その先の庵にはこの家の主人が横たわりこの急に降り出した水音を心地よく聴いている。涼しさも感じ始めたのであろう、従者も団扇を止め主人の様子を窺っている。この図をみていると、見ている側も滝、雨、川のそれぞれが醸し出す水音と木々の豊かな葉々に、自然とすがすがしい気分になってゆくのではなかろうか。この作品は、明代後期の呉派の文人画家である銭叔宝(1508〜1572)の図を摸したものである。

山水図屏風 平井顕斎・福田半香

半香と顕斎は、崋山の弟子で、その二人が技法を凝らし色彩を楽しんで描いた屏風である。
半香の鍾山図は南京城外の紫金山とも崑崙山とも考えられる。高山の麓に雲煙がたちこめ流れている。その中に高閣楼が姿を見せ、神秘的な雰囲気を醸し出している。
顕斎の嵩岳は潤いのある墨で豊かに描かれている。山水画を最も得意とした顕斎の技がさえる作品ではなかろうか。嵩岳は五岳の中岳、河南省登封県の北にある名山である。
顕斎の燕磯は燕子磯ともいい、江蘇省江寧県北の観音山にある。山上に石があり、其の形が飛燕のようであるからこの名がついた。観光地であるのか、崖の上の平地に柵が施してある。
半香の蛾眉積雪の蛾眉山とは、中国四川省にある古来より普賢菩薩示現の霊場とされている山である。北宋の頃から山中に寺院の建立が行われた地である。その修験者の道場である山の険しさ、雪深さに画を見た人は厳かな心持ちがするであろう。

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