開催日 | : | 平成21年11月14日(土)〜12月27日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 企画展示室 |
床の間は、客を迎える部屋に作られます。「床」とは、ものをのせたり、格の高い人が座る一段高い場所を指します。主人は客をもてなすためにさまざまなものを飾りました。壁には掛軸、その手前には花入を置きます。「もてなし」の空間をお楽しみください。
企画展示室 | ||||
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 | |
人物 | 小堀靹音 | 明治時代 | 三幅対 | |
小禽図 | 益頭峻南 | 明治44年(1911) | ||
人物 | 松本楓湖 | 明治時代 | ||
題自著通議後 | 頼山陽 | 天保年間 | ||
山水図 | 春木南湖 春木南溟 |
文化13年(1816) | ||
蝶々菊 | 春木南溟 | 明治時代 | ||
山水図 | 田能村直入 | 明治13年(1880) | ||
富士画賛 | 田能村直入 | 明治39年(1906) | ||
山邨萬靄 | 織田杏斎 | 明治16年(1883) | ||
墨蘭図 | 江稼圃ほか | 江戸時代後期 | ||
霜楓図 | 渡辺小華 | 明治時代初期 | ||
菊蘭図 | 渡辺小華 井村常山 蛇足散人 |
明治時代前期 | ||
鍬画賛 | 渡辺小華 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
芙蓉双鷺図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | ||
一行書 | 三宅了閑 | 江戸時代中期 | ||
月画画賛 | 三宅了閑 | 江戸時代中期 | ||
青緑山水図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
四君交結図 | 渡辺小華 | 慶応2年(1966) | ||
秋月荳圃之図 | 椿椿山 | 嘉永6年(1853) | 個人蔵、双幅 | |
福茶 | 三宅了閑 | 江戸時代中期 | ||
秋江魚楽図 | 帆足杏雨 | 天保13年(1842) | ||
桃林放牛図 | 立原杏所 | 江戸時代後期 | ||
花卉図 | 伝渡辺如山 | 天保3年(1832) | ||
俳句短冊 | 与謝蕪村 | 江戸時代中期 | ||
桜花之図 | 山下青厓 | 昭和14年(1939) | 個人蔵 | |
黒磁釉花入 | 亀井勝 | |||
鶴首花瓶 | 河村熹太郎 | 昭和時代 | ||
碧釉ラスター 彩花入 |
加藤卓男 | |||
青白磁輪花 花瓶 |
塚本快示 | 昭和時代 | ||
青磁花瓶 | 森野嘉光 | 昭和時代 | ||
灰釉筒花入 | 加藤舜陶 | |||
九谷釉彩之友 飾瓶 |
浅蔵五十吉 | |||
灰釉子付花生 | 鈴木紀文 | 平成7年(1995) | ||
虎班文花瓶 | 鈴木紀文 | 平成時代 | ||
卯耳長壺 | 鈴木紀文 | 平成10年(1998) | ||
鉄赤釉鶏冠壺 | 鈴木紀文 | 平成時代 | ||
亥花金花生 | 鈴木紀文 | 平成時代 | ||
蒼釉花入 | 加藤釥 | |||
志野花入 | 加藤春鼎 | |||
赤楽立鼓花入 | 中村道年 | 昭和時代 | ||
鼠志野花生 | 安藤日出武 | |||
志野花入 | 加藤孝造 | とっくり型 | ||
志野花入 | 加藤孝造 | 筒型 | ||
泥彩大目花入 | 柴田増三 | |||
青銅花瓶 | 高橋敬典 | |||
青白磁貼花文 花瓶 |
塚本快山 | |||
青磁花瓶 | 森野嘉光 | 昭和時代 | ||
青銅花瓶 | 松崎福三郎 | |||
大樋菓子鉢 鼎 |
大樋長楽 | 昭和時代 | ||
五彩草文鳥文 尊式花瓶 |
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釉裏紅環付竜 文花生 |
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釉裏紅耳付竜 文花生 |
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梅花文花瓶 | 13代 酒井田柿右 衛門 |
昭和時代 | 個人蔵 | |
色鍋島花器 | 12代今泉今右 衛門 |
個人蔵 | ||
松梅之図 | 渡辺小華 白井青淵 |
明治時代前期 昭和時代前期 |
個人蔵 | |
水指 公子図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | ||
花生 枯木竹石之図 |
渡辺小華 | 明治9年(1876) | ||
崋山、椿山、如山印譜並遺書添書 | 鏑木華国 | 昭和時代前期 | ||
雁・詩・夏草 之図 |
谷 文晁 中西研斎 佐竹永海 |
天保11年(1840) | 個人蔵 | |
風俗人物縮図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
俳画三井寺図 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
秋乃草華図 | 酒井抱一 | 江戸時代後期 | 双幅 | |
白濁釉徳利 | ||||
青濁釉徳利 | ||||
長頚花瓶 | 鈴木青々 | 昭和時代 | ||
花瓶 | ||||
短頚花瓶 | 鈴木青々 | 昭和時代 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 帆足杏雨 [ほあし きょうう] 文化7年(1810)年生まれ、明治17年(1884)に歿す。
名は遠、字は致大、別号は聴秋、半農などがある。豊後戸次に生まれる。田能村竹田、次いで浦上春琴に学ぶ。また詩文を帆足萬里、広瀬淡窓、頼山陽らに学び一家を成す。特に山水を得意とし、画風には竹田の影響を強く残している。
● 与謝蕪村 [よさ ぶそん] 享保元年(1716)生まれ、天明3年(1783)に歿す。
本名は谷口、のち、与謝と改める。名は信章又は寅、字は春星。別号は夜半亭、謝寅等がある。
俳人として知られる他、幼時より画を嗜んだらしいが特別な師についたという訳ではなくあくまで独学であったようである。画作を始めたのは二十歳頃で、さまざまな流派を学んでいるが画風が定まったのは壮年を過ぎてからと判断される。どちらかというと南宗画的な柔らかな線で、自然美豊かな清澄な画趣の作品をのこす。
池大雅とともに、日本文人画の大成者と呼ばれている。
● 題自著通議後 頼山陽
通議は山陽51歳の著書である。当時の政事の得失を指摘したもので、3巻、27篇から成る。
洪流日夜浅賀深を成すも。無欠の金甌は自ら古今。漢を策(むち)うち秦を過(とが)める同一の意。何人か賈生の心を窺い破る。 書自著通議後 山陽
時の流れは幾百万年の深きをなしたが、我が日本の国体は金甌無欠である。漢の賈生が漢を策ち秦を過めたのも、自分の心持ちと同一意である。何人か賈生と同じ自分のこの通義を著した心持を窺い識るか。
「賈生」は漢の賈誼(紀元前200〜紀元前168)。賈誼は洛陽の出身で、若くして文章が優れていたために郡中で賞賛されていた。当時、河南郡守であった呉公がその才能を見い出し、門下においた。文帝が即位し、賈誼のうわさを聞き、博士に抜擢した。賈誼は、当時の博士の中で最も年少ではあったが、詔令が下るたびに意見を具申することができたので、その年のうちに太中大夫に昇進した。文帝はさらに公卿にしようとしたが、讒言により左遷されてしまう。任地に赴く途中、屈原を弔った賦が『文選』にも収録されている「弔屈原文」である。文帝は賈誼のことを思い出し、長安に召して鬼神のことを問う。その答えが上意にかなうものだったため、再び信任され、文帝がかわいがっていた末子、梁の懐王の太傳となった。