平常展 文人画の世界展

開催日 平成21年11月14日(土)〜12月27日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 特別展示室

渡辺崋山が生きた時代は、江戸時代後期。江戸時代には、鎖国体制下の日本で、中国へのあこがれもあり、文人画が流行してきます。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  牧童之図 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  菜根之図 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  墨蘭図画冊 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
  人物画粉本 高久隆古 江戸時代後期  
  花卉画巻 田能村
竹田
文化12年(1815)  
重美 目黒詣図(複) 渡辺崋山 大正12年(1923) 原本は文政12年(1829)
  寒江独釣図 釧雲泉 文化5年(1808)  
  秋渓覓句図 釧雲泉 文化5年(1808)  
  夏山聴雨図 釧雲泉 文化5年(1808)  
  春景逸思図 釧雲泉 文化5年(1808)  
  江山夕照図 彭城百川 延享3年(1746)  
  子路負米図 中山高陽 江戸時代中期  
  寿老人之図 柳里恭 江戸時代中期  
  夏山騎馬図 谷文晁 文化5年(1808)  
  桜花雉子図(複製) 酒井抱一 文政6年(1823) 原本は宮内庁蔵
  燕子花水鶏図(複製) 酒井抱一 文政6年(1823) 原本は宮内庁蔵
  牡丹胡蝶図(複製) 酒井抱一 文政6年(1823) 原本は宮内庁蔵
  秋草螽_図(複製) 酒井抱一 文政6年(1823) 原本は宮内庁蔵
  菊花小禽図 (複製) 酒井抱一 文政6年(1823) 原本は宮内庁蔵
  月下過雁之図 高久隆古 天保年間  
  溪山楼閣図 春木南湖 江戸時代後期  
  滝山水図 亀田鵬斎 文化14年(1817)  
  石竹図 渡辺崋山 天保9年(1838)  
重美 牡丹図(複製) 渡辺崋山 天保12年(1841)  
  一品當朝図 鈴木鵞湖 安政5年(1858)  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

↑ページTOPへ

作者の略歴

渡辺崋山 [わたなべ かざん] 寛政5年(1793)生まれ、天保12年(1841)に歿す。

三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静、のち登と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。8歳より藩の世子御伽役を勤め、藩士としては天保3年(1832)40歳で年寄役に至っている。13歳で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山、福田半香、平井顕斎などがいる。蘭学にも精通したが、天保10年(1839)47歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入りとなり、翌年1月より田原に蟄居となった。しかし門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保12年、49歳で自刃した。

田能村竹田 [たのむら ちくでん] 安永6年(1777)生まれ、天保6(1835)年に歿す。

名は孝憲、字は君彜、俗称は行蔵、別号は九畳外史 田舎児等多数ある。豊後国竹田村(現在大分県竹田市)岡藩の藩医の次男として生まれ、藩に仕えたが、37歳で致仕する。儒学や詩文を学び、画は主に中国明時代の南宗画を研究し、竹田独自の様式をつくりあげた。その画風は温和で真摯で、竹田の誠実な人柄が映し出されているようである。画家としての他、彼は塡詞、茶道等にもくわしく、頼山陽、篠崎小竹、小石元端、雲華上人等と交友し、また論画家としても知られ、『山中人饒舌』、『竹田荘師友画録』等の著作も多い。日本の文人画家の中にあっては、詩書画三絶の典型的な文人としてきこえ、風雅に満ちた品格ある精緻な作品は類を見ず魅力的である。

谷文晁 [たに ぶんちょう] 宝暦13年(1763)生まれ、天保11年(1840)に歿す。

字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。
田安家の家臣で当時著名な漢詩人谷麓谷の子として江戸に生まれ、中山高陽の門人渡辺玄対に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身の老中松平定信付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、「石山寺縁起絵巻」の補作、また定信の個人的な画事などを勤めた。
明清画を中心に中国・日本・西洋の画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄がい、立原杏所がいる。

釧雲泉 [くしろ うんぜん] 宝暦9年(1759)生まれ、文化8年(1811)に歿す。

備前島原(長崎)に生まれ、幼い頃、父と長崎へ行き、中国語と画を学ぶ。名は就、通称は文平。山水画を得意とした。寛政年間(1789〜1801)には備中・備前(岡山県)を中心に中国・四国地方を遊歴した。大坂の木村蒹葭堂を訪ねることもあった。その後、江戸に移り、亀田鵬斎(1752〜1826)・大窪詩佛(1767〜1837)などと交流。文化3年以降越後(新潟県)をたびたび訪ね、越後出雲崎で客死。

彭城百川 [さかき ひゃくせん] 元禄10年(1697)生まれ、宝暦2年(1752)に歿す。

名は真淵、号を蓬洲、八僊堂と称す。名古屋の薬種商の八僊堂に生まれたとも、婿養子に入ったとも伝えらる。はじめ、俳句を志し、各務支考(1665〜1731)に師事するが、やがて支考と離れ、京都を拠点として北陸や長崎に遊び、48歳頃から絵を職業として元文年間(1736〜41)には法橋位を得た。作風は元明の画を倣ったものや、南宗画と北宗画を折衷したもの、俳画風のものまであり、与謝蕪村(1716〜1783)に影響を与え、南画の先駆者のひとりに数えられる。

鈴木鵞湖 [すずき がこ] 文化13年(1816)生まれ、明治3年(1870)に歿す。

下総金堀村(現千葉県)の農家に生まれた。名は雄、字は雄飛。はじめ一鶯、晩年にと称した。天保7・8年頃、江戸に出て初め松月の門で画を学び、のち晩年の谷文晁(1763〜1840)に師事した。嘉永年間以降は日光・妙義山・京都・北越などを旅行しながら写生、画幅の縮写に努めた。故事人物画を得意とした。日本画家石井鼎湖(1848〜97)は彼の次男、洋画家石井柏亭(1882〜1958)・彫刻家鶴三(188〜1973)兄弟は鼎湖の子にあたる。

作品紹介

釧雲泉 春景逸思図・夏山聴雨図・秋渓覓句図・寒江独釣図 文化5年(1808)

島原の出身で、幼くして長崎で元・明の画を来舶清人に学んだといわれている雲泉得意の山水画である。父を亡くした後、多くの文人たちと交わりながら京阪や東海道各地の諸国をめぐった。「座に俗客あれば、即ち睨視して言を接せず。」「画人を以てこれを呼べば、白眼視して答えず」と言ったと伝えられ、文人としての意識が非常に強かったらしい。作画にあたっては構想を綿密に練り、作品の中の雲煙は今にも動き出さんばかりである。この四幅対は春夏秋冬を描くが、「夏山聴雨図」は雲煙の飛動が殊に感じられる作品で、遠山にかかる霞、山間から流れ落ちる滝、連なる家屋、点在する樹木そのいずれもが画面構成に欠かせないモティーフとなっている。若き日からの旅の日々が限りない郷愁として絵に込められているからこそ、雲泉の山水画家としての評価はゆるぎないものとなる。

彭城百川 江山夕照図 延享3年(1746)

日本南宗画の創生期に活躍した百川の代表作である。百川の生家である名古屋の薬種商八僊堂は、中国からの帰化人と伝えられる。絵画学習は舶載されてきた中国画や画譜類を学びながら習得したと言われるが、元文年間(1736〜41)には法橋位を得て、48歳頃から絵を職業としており、その時期の作品である。その作風は「春秋江山図屏風」(東京国立博物館蔵)に代表される元明画風のものや北宗画と南宗画を折衷したものから俳画など様々なスタイルを見せる。
夕焼け雲が薄らいで、暮の靄(もや)が射し始めている。画幅のサイズも影響しているが、その遠近感の雄大さは特筆される。百川も自信のある作品であったと思われ、大阪の木村蒹葭堂(1736〜1802)に贈ったもののようで、図中に「蒹葭堂」の所蔵印が捺されている。また、掛軸の裏面には明治時代初期の篆刻家で、煎茶界の重鎮であった山本竹雲(1826〜94)が「此の彭蓬州山水画幅は、もと浪速蒹葭堂遜斎翁の収蔵なり。近時流転して伊谷老人の愛玩と為る。此の如き佳品多く獲難し、蔵者の子々孫々萬年長く保存すべし。」と伝来を記している。

谷文晁 夏山騎馬図 文化5年(1808)

落款は「戊辰杪冬寫 文晁」と読める。薄書時代と称された文化年間前半の作品である。淡墨・中墨を主体にし、墨調、筆線の調和をはかろうとした折衷のような作品群が存在しており、これを文晁の薄書時代と称している。墨と筆線を混和させるために墨を薄め、筆線を弱め、情緒的雰囲気の中で一定の融和状態を表出したが、あまり長い期間には及ばなかった。筆線を重視しないため、「薄書き」と言われるように、むしろ弱々しく感じられてしまった。現代においては、そのふんわりとした温かみが心地よく感じられる。

重要美術品 渡辺崋山 牡丹図 天保12年(1841)

蛮社の獄後、在所蟄居の判決を受けた崋山は、田原の地で幽囚の日々を送る身となった。崋山の画弟子福田半香(1804〜64)らは、江戸で崋山の絵を売り、その収入によって恩師の生計を救おうと考えた。この図は、その半香の義会の求めに応じて描いたもので、天保12年に描かれ、評判となり、「罪人身を慎まず」との世評を呼び、田原藩主三宅康直に災いが及ぶことを畏れた崋山はついに死を決意することになり、後に「腹切り牡丹」と称されたものである。
陰影や遠近感を表現した西洋画の技法を取り入れた文人画家として評価される崋山であるが、この図は、輪郭線(骨法)を描かずに、水墨または彩色で対象を描き表す没骨法で描かれており、東洋画の技法もよく研究している様子が窺われる。鎖国下の江戸時代で、情報的に最も豊富に受容できるのは、武士の教養としての儒学はもちろん、絵画として唐・宋・元・明の間に著された中国の画論・画史の書を入手して、研究を重ねていた。賛に「牡丹は墨を以てし難し、墨を用い以て浅きは難し、淡々たる 胭脂を著し、聊か以て俗眼に媚びる」とある。この意味は、「牡丹は水墨で描くのは難しい、墨を用いて浅く牡丹の濃艶な趣きを描くことは難しい、淡々としたべに色を用い、いささか俗人の眼に入るような牡丹を描いた」というところか。残念ながら、崋山が描いた当時の色はあせてしまっているが、当時の評判が色鮮やかな牡丹を見る者に想像させる。

↑ページTOPへ