開催日 | : | 平成21年6月20日(土)〜8月16日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 特別展示室 |
渡辺崋山は、画家でもあるが、学者として書も学んでいる。蔵書には中国の書論・書評も多い。文人画精神を表した書の作品や自筆資料を展示します。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
重文 | 自筆遊相記稿 | 渡辺崋山 | 文政4年(1821) | |
重文 | 退役願書稿 | 渡辺崋山 | 天保10年(1839) | |
鄭老蘭詩 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
重文 | 渡辺崋山印 | 渡辺崋山愛蔵 | ||
習字手本 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
田原御三人様宛書簡(和蘭風説書) | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | 個人蔵 | |
西銘屏風 | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | ||
東銘屏風 | 渡辺崋山 | 天保年間 | ||
東銘稿本 | 渡辺崋山 | 天保年間 | 個人蔵 | |
白衣大士并写経 | 渡辺崋山 | 文政5年(1822) | ||
重文 | 自筆手本(忠孝) | 渡辺崋山 | 天保年間 | |
耐煩二大字額 | 渡辺崋山 | 天保9年(1838) | ||
崋山先生数字書 | 渡辺崋山 | 天保年間 | ||
真木定前宛書簡 | 渡辺崋山 | 天保11年(1840) | ||
川村家宛書簡 | 渡辺崋山 | 天保11年(1840) | ||
中秋歩月五言律詩 | 渡辺崋山 | 文政2年(1819) | ||
重文 | 自筆扁額(報民倉) | 天保7年(1836) | 常設展示室に展示 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 自筆遊相記稿
文政4年6月28日から相模の鎌倉・金沢・江ノ島などへ出かけた時の記録である。表紙には、当初「趨相日記」と記述した後に、「趨」を「遊」と朱で訂正し、「日」の文字を消している。文章は漢文で、朱の訂正、書込み、読点も崋山が記している。『使相録』(厚木市教育委員会蔵)も知られ、こちらは罫紙に筆記されたものであるが、未定稿と考えられる。崋山と当時の藩主康和の弟橘三郎のお付きの村上作左衛門久信、鈴木五郎兵衛正幹、戸塚宿から萱生玄順を従えて、橘三郎に藩主の跡継ぎとしての自覚を持たせる旅として企画されたもののようである。
● 退役願書稿
天保10年4月、崋山は病気を理由に藩の年寄役を辞し、蘭学研究や絵画に専心したいと考えるようになり、16丁からなる退役願いを藩に提出した。内容は崋山の生い立ちから家庭状況、画業、学問の経過、藩政に対する見解などから成り、崋山の伝記を検討する際の基準となる底本となった。「立志」や「板橋の別れ」などのエピソードや「見よや春大地も亨す地虫さへ」という句もこの本の中に記載されている。『崋山会報』第5号から第9号まで口語紹介されている。
● 鄭老蘭詩
「鄭老畫蘭不畫土 有為者必有不為 酔来寫竹似蘆葉 不作鴎葉無節枝 畫竹 崋山登稿」と書す。元が宋に侵攻してくると、趙子エ(鴎葉)は宋の一族でありながら元に仕えた。それに対し、宋の臣、鄭所南は野に下り、最期は「大宋不忠不孝鄭思肖」と自らの碑を書かせた。鄭所南は蘭を描くことを好んだが、皆根を露出した蘭で、元の国土となった土は描かなかった。また、趙子エのような節操のない枝は描かなかった。崋山はこの故事を知り、節操を高く持つことの重要さを武士としての心得と考えていたようである。
● 渡辺崋山印
渡辺崋山の使用した印で、総数は22ある。両面使用できるものも2個あり、印面の数としては24ある。印材は江戸時代に一般的に使用されていたもので、刻者の判明しているものもあり、当時、白文のてん刻にすぐれた細川林谷(ほそかわりんこく)(1782〜1842)、後に江戸のてん刻界の二大流派となる精緻で優美な作風の浄碧居派と称される益田勤斎(ますだきんさい)(1764〜1833)、その他毛鳳(もうほう)、佐藤晋斎(さとうしんさい)、蓬堂(ほうどう)(渋谷か?)によるものがある。また、印をおす時に、位置を決め、印影のゆがまないように用いる曲尺形(かねじゃくがた)の定規である印矩(いんく)3個と印が収められる箱が付属する。
● 田原御三人様宛書簡(和蘭風説書)
資料名である御三人様とは、田原藩を対象とした檄文であることから崋山が信頼していた藩士に宛てた書簡と考えられる。また、藩主へも極秘に申し上げよとあるから上級武士である。家老の佐藤半助・給人の松岡次郎、用人の真木定前と思われる。「西ノ方銀の橋」「西ノ棟上の餅ヲ焼テ」と書かれ、江戸城西丸焼失の後と考えられることから天保9年10月頃である。書き下し文(/は改行)は以下のとおりである。
六月和蘭陀風説書/上り、追届左之通、文言ハ/未審。
一、イキリス国ニ於て、日本/漂流人東海上ニ於而相/救候ニ付、長崎表へ本/国使節ヲ以相送/侯旨、此節評議/有之よし、右船ハ啇(商)/船ニて人数何不と有之、/依之御用心可被遊侯。/
右之通申上り侯。右イキリス/国之義、日本交易ヲ乞ヒ侯/事ハ必定ニ御座候得共、日本ニて/交易ヲ御断ニ相成候事も/必定之段ハ、彼国ニ於而も/兼々承知ニ御座候。然ルニ/物入ヲかけ参り候事、一通ニてハ/相済不申、ロシヤ一件も委細ニ/心得参リ候事、其上此方ニ/て御断ニ相成候時ハ、其段ハ承/知致、扨又貴国ニ於而我/商船漂流之時、サツマ宝/嶌之一件其外海外ニて/兵器ヲ備、我船の難義ヲ/救ひ不被申、同く天ヲ載キ/同敷地ヲ踏、同シ人間にて/一国の故ヲ以天下の害ヲ/被成候節、天下の為ニ無拠/兵器ヲ相用可申、此御答/承リ申度と申候時、如何/御答有之哉、甚大変ニ/及可申候。/
一、当時朝庭(廷)ニてハ一向ニ物ノ/数とも被致不申、ますます西ノ方/銀の橋なと出来、又此間/狐ヲ殺シ候もの有之、其もの/楓山の鎮火狐ヲ殺候故ヲ/以窂舎也。其夜狐ヲ/中山へ十七人の人数ニ御送/事一向ニ耳ニも入不申候。古/風説もひしかくしにて/御座候。/
一、中ニ一役人申候。かくの如き/事あらハ、和蘭取拵ひ被/仰付候様良策ヲ奉リたリ
一、右イキリスニ生シ候時ハ、/急ハリユス国ニ有之候。/右之通の世の中故、田原/
ハ武ヲ搆シ徳ヲ敷キ、天/地の間ニ獨立致、掌大の/地ヲ百世ニ存候様、御工夫/第一也。何テモ徳ニ無之テハ/危シ。/
一、岡崎矦持出シ十万石/の願ヒアリ津軽徳山ノ例然ルニ極貧/にて勤リ不申処柳原の隠/居御スイキウものニテ、井伊・本多/・酒井・榊原四天王の家なれハいカに/も気毒也。左様候ハゝ一万俵ツゝ/年々助力可致、依之讃岐ニて/弐万俵、井伊にて一万俵と内々/相談きまり申、依之岡崎矦/権門必死也。岡崎も岡崎、右/三家も三家、とても永続の/はなしニハ無之、かくの如き/大馬鹿大名はかり有之、/さてさてこまり入候もの也。家/来も家来也。/右之通ニ風説申上候。/上へも御心得のため、早々極/秘ニ被仰上春山へも御話/可被下候。則此書附にて宣/敷御座候。六日
田原
御三人様 登
● 東銘屏風・西銘屏風 渡辺崋山
宋の学者張載(1020〜77)が書いた戒めの言葉。書斎の東窓に東銘、西窓に西銘を掲げていた。東銘は人間の言動をつつしむべきことを述べ、西銘は人間の仁動の原理を明らかにしたものである。
● 中秋歩月五言律詩 渡辺崋山
「俗吏難與意。孤行却自憐。松林黒于墨。江水白於天。樓遠唯看燭。城高半帯雲。不知今夜月。偏照綺羅莚。 中秋歩月 于時在和田倉官舎 登」とある。読みは、「俗吏意を與にし難く。孤行却って自ら憐れむ。松林は黒より墨く。江水は天よりも白し。樓は遠く唯燭を看る。城は高く半ば雲を帯ぶ。知らず今夜の月。偏に綺羅の莚を照らすを。 中秋の月に歩む 時に和田倉官舎に在り 登」である。
文政2年(1819)田原藩に江戸城和田倉門(現在の東京駅丸の内口から皇居へ向かってまっすぐ行った位置にあります)の改築加役が命ぜられた。中秋の名月、当時は十一代将軍家斉の時世で、江戸城では夜には宴を催し、ろうそくの光が夜空を染めていた。崋山は和田倉門改築の監督を六月から勤め、八月に官舎で読んだものである。工事は文政6年まで続けられ、田原藩でも改築費用捻出のため、借金と藩士の引米をしていた。意味は、「眼前の仕事に汲々としている官吏たちは天下国家のことを思うことはむずかしい。自分は下級武士としてのこの身のあわれさを思う。中秋の名月が照る下で、江戸城の周りをめぐる堀端の松林は墨よりも黒々としている。堀の水が月の光を映して天空の色よりも明るく輝いている。遠くに望み見る江戸城の高楼には、長夜の宴のための明るく耀く燈火が見え、城は半ば雲を帯びたように高くそびえ、将軍は藩の下級武士の苦労や悩みなどは知らぬように、遠く高くかけ離れた雲の上の存在である、耀く今夜の月がただ綺羅を尽くした高楼の宴席だけを明るく照らしていることを将軍やその宴席にいる者たちは知ってはいない」と表現をぼかしてはいるが、幕藩体制への憤りを詠み込んだものである。
● 報民倉
崋山は、気候不順が続いた天保年間前半に、諸国の様子を参考に飢饉を見通して、領民救済に備える備蓄倉庫の建設を藩主に願い出て、この許しが出たことから、天保6年(1835年)田原城の東南外濠沿いに建設が行われた。『報民倉』という名は建てる以前からつけられていて、領民達は自らを救う穀倉であるということに感激して、奉仕を願い出る者が連日後を絶たなかったと言われる。建設に際しては、身分・年齢・性別に関係なく領民の勤労奉仕によって進められ、官民一体となって取り組んだ飢饉対策事業となった。総日数66日、4,534人工で2棟60坪の建物が完成した。田原藩は、この報民倉により、天保の飢饉(天保7・8年)において一人の餓死者、流亡者(りゅうぼうしゃ:故郷を離れて方々をさまよう人)を出すことなく、幕府から全国で唯一表彰を受けた。建物は後に2棟が建ち、4棟となった。明治末年頃まで建物が現存し、取り壊された際に、扁額のみが保存された。