開催日 | : | 平成21年5月15日(金)〜6月14日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで |
会場 | : | 特別展示室 |
渡辺崋山は、十代後期から最晩年まで自然観察と写生を基に多くの作品を残しています。崋山の弟子であり、友人でもあった椿椿山には、花鳥画を描くように指導しています。椿山の子、華谷・平井顕斎・福田半香・小田莆川も取り上げます。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
市文 | 花鳥帖十二図 | 渡辺崋山 | 天保2年(1831) | 館蔵名品選第2集11 |
画譜 | 渡辺崋山 | 天保年間 | ||
墨蘭図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | 館蔵名品選第2集36 | |
花画譜 | 椿椿山 | 天保13年(1842) | ||
客坐掌記 | 椿華谷 | 嘉永3年(1850) | ||
客座縮図 | 小田莆川 | 江戸時代後期 | ||
客座縮図 | 小田莆川 | 弘化3年(1846) | ||
一葉風枝 | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
威振八荒図 | 渡辺崋山 | 文政5年(1822) | ||
香祖図 | 渡辺崋山 | 天保年間 | 個人蔵 | |
黄雀窺蜘蛛図(複) | 渡辺崋山 | 天保年間 | 原本は個人蔵 | |
市文 | 花卉図屏風 | 椿椿山 | 嘉永4年(1851) | 館蔵名品選第2集59 |
紅葉小禽図 | 椿椿山 | 天保年間 | 館蔵名品選第1集66 | |
松芍薬ニ孔雀図屏風 | 平井顕斎 | 天保7年(1836) | 館蔵名品選第1集79 | |
富貴木蓮図 | 福田半香 | 江戸時代後期 | 館蔵名品選第1集73 | |
菊花湖石図 | 福田半香 | 安政2年(1855) | 館蔵名品選第1集68 | |
卯の花にカミキリ図 | 小田莆川 | 江戸時代後期 | 館蔵名品選第1集83 | |
四愛図 | 椿華谷 | 弘化3年(1846) | 個人蔵 | |
五穀豊穣之図 | 椿華谷 | 天保12年(1841) | 館蔵名品選第2集75 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜安政元年(1854)
名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵など号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙、にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救済に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜98)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
● 椿華谷 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)
椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜93)の日光祭礼奉行に随行したりして一人だちすると、華谷は椿山の画技を得るべき人物であったが、崋山の友人で番町の学者椿蓼村の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。
● 田原市指定文化財 花鳥帖十二図 渡辺崋山 天保2年(1832)
絵の中心に鳥を描き、周囲には花卉、樹木を配置する。各図には瓢形印の「登」印を捺している。最後の図に「辛卯五月寫於全楽堂中崋山登」とあり、天保2年5月の作であることが知られる。この作品を描く前月にローセルの『虫譜』を小関三英から借りているが、外国の書物の銅版画によるカラフルで、精緻な挿絵を見て、外国の博物学を学んでいる。この作品では、水墨のみで描かれ、従来の古画の摸写と思われるものであるが、鳥の立体感は充分に表現され、崋山の観察対象は古画作品にとどまっていないことがわかる。
● 墨蘭図 渡辺崋山 天保年間
詩に「倚石疎花痩 帯風細葉長 霊均情夢遠 遺珮満 湘」、落款は「随安敬」とあり、朱文亀甲印の「登」印を捺す。読みは「石に倚って疎花痩せ、風を帯て細葉長し。 霊均の情夢遠く、遺珮 湘に満つ」となる。霊均は戦国時代の楚の人で、屈原(前343頃〜前277頃)の字である。楚の王族に生まれ、王の側近として活躍したが、妬まれて失脚、 水のほとりで蘭を取って身に付け、汨羅(べきら)に投身した。その高潔な屈原のことを蘭に添えたものである。天保10年(1839)にやはりこの詩を添えた作品「蘭竹双清」がある。
● 香祖図 渡辺崋山 天保年間
「香祖」とは蘭のことを指す。中国では、蘭の香りが好まれ、「香祖」「天下第一香」と称された。
● 黄雀窺蜘蛛図(複製) 渡辺崋山 天保年間
竹の枝にとまる雀が蜘蛛を見すえる様子を描いている。ピーンと張った堅い描線の雀と蜘蛛がつくり出す緊張感にみちた空間。しかしその背後にある、やわらかい筆法の、淡い赤に花ひらいた朝顔の清涼感が観る者を安堵させる。
それぞれのモティーフの確かなデッサン力は日常の真摯な自然観照にもとづく写生力によっている。そしてその写生が本図の重要な芸術的要素であることはいうまでもない。しかし、のみならずそれらのモティーフを画面で構成することによって生じた緊張と安堵、この相反する二つの感情を不安定に呼応させてはいないだろうか。
● 紅葉小禽図 椿椿山 江戸時代後期
なんと近代的な作品であろうか。落款を隠せば近代の円山四条派の作品と見まごうばかりである。しかしつぶさに観察すると随所に椿山らしさが見られる。
ひとつひとつのモティーフを分解すると様々な要素があることに気づく。楓の色彩については琳派を意識し、三羽の文鳥の筆法、また機知的な配置はまさしく長崎派の影響を看取できる。没骨法による楓木の葉の曖昧な輪郭、及びたらしこみ風の質感表現、そして木肌の筆法は、椿山の得意とするもので「ヲ南田」の影響による。椿山の琳派への意識は、喜多川相説の粉本、また「七草図」などの実作品の存在から大いに窺われるが、花鳥画家としての多様性を示すものである。
近代を予感させる雰囲気は、荒削りだが天保年間の椿山の旺盛な創作意欲を感じ取れる。全体のモティーフバランスは右に寄っており、落款の位置も単体の作品としては不自然なことから、あるいは対幅の可能性も考えられる。
「弼」朱文瓢印は天保年間の作品の指標であり、署名の書体もかっちりとしており、すべてにおいて椿山のこの時期の基準作とできる秀作である。署名及び「寫」の書体から、天保10年から11年にかかる作品と考えられる。
● 松芍薬ニ孔雀図屏風 平井顕斎 天保7年(1836)
前年の天保6年、34歳の時に江戸へ上ったおり、福田半香(1804〜64)を介して渡辺崋山に入門したとされる。同年椿椿山(1801〜54)とも知り合ったとされる。孔雀部分の草稿と思われる資料が、昭和55年(1980)に常葉美術館で開催された「崋山の弟子―半香・顕斎・茜山」で紹介(出品番号35双孔雀図(草稿))された。この草稿は孔雀部分のみであるが、大きさから考えてもこの屏風を完成させる際の下書きと考えてもよいほどそっくりである。孔雀はほとんど淡墨で表現されているが、松上の足は細密で見事な出来栄えである。芍薬は崋山・椿山が目標としたヲ南田(1633〜90)風の没骨法で描かれ、花鳥画にも優れていたことがわかる。弘化年間(1844〜48)を中心にこの様式による花卉図を多く描いたが、椿山台頭後はあまり見られなくなる。他作品の一部を借り構成する「図取り」も多く見受けられる顕斎であり、この作品もそうでる。
● 富貴木蓮図 福田半香 江戸時代後期
牡丹と木蓮の図である。どちらも中国原産の観賞用の落葉低木である。富貴については、宋時代の周敦頤の『愛蓮説』の文中に、「牡丹、華之富貴者也。」と出てきており、牡丹の別名として富貴とも昔から言われていたようだ。中国では花王とも称されてもいる。
この作品は満開の牡丹を、輪郭線のない没骨によって描き、はなやかで豊艶な美しさをたたえている。これに対して木蓮は、白塗りの花弁が、清潔できわめて気品が高い。
● 菊花湖石図 福田半香 安政2年(1855)
半香五十二歳の時の作品である。半香は若い時期に花鳥画をよく勉強して描いていた。菊花はたらしこみの技法で花の中心部にいくほど濃くなり、その上から細い線で花弁が丁寧に描かれている。葉は没骨法で柔らかに、太湖石には点苔でアクセントが付けられ、全体としては観賞用の菊花と湖石がバランスよく構成されている。
半香がこの年、花鳥画を描こうと思いたったのは、崋山の弟子の椿椿山が安政元年(1854)に亡くなったことが要因になったと思われる。半香より3歳年上の椿山は花鳥画を得意とし、半香はその作品に感服して花鳥画を描くことをやめた、と言われている。椿山の死は、深い悲しみと共に若い頃の一緒に学んだ思い出の追憶として自然と絵筆を握ることとなったのではなかろうか。
● 四愛図 椿華谷 弘化3年(1846)
四愛とは、菊・蓮・梅・蘭のことで、中国の故事から愛情を表現している。