開催日 | : | 平成21年3月27日(金)〜5月10日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで |
会場 | : | 企画展示室 |
田原市博物館では、渡辺崋山関連作家の収集をしています。郷土にかかわる近現代の作品・資料も収集しています。今回はそれらも取り上げます。
企画展示室1 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
山頭晧月・江上吹笛 | 池大雅 | 明和(1764〜1772)頃 | 高林富美子氏寄贈 | |
龍頭観音 | 独湛性瑩 | 貞享4年(1687) | 高林富美子氏寄贈 | |
洋船拓本幅(版) | 谷文晁画 松平定信賛 |
文政12年(1829) | ||
仙境十六羅漢之図 | 永村茜山 | 文久2年(1862) | ||
柳枝魚影之図 | 椿 椿山 | 弘化3年(1846) | ||
水墨牡丹図 | 山本琹谷 | 江戸時代後期 | ||
牡丹図 | 山本琹谷 | 江戸時代後期 | ||
物売り図 | 山本琹谷 | 江戸後期〜明治前期 | 中村登紀夫氏寄贈 | |
荘子蝶夢図 | 山本琹谷 | 江戸後期〜明治前期 | 中村登紀夫氏寄贈 | |
夏耕之図 | 山本琹谷 | 文久元年(1861) | ||
田植図 | 山本琹谷 | 文久3年(1863) | ||
崋山先生小照 | 鏑木華國 | 昭和時代前期 | 個人蔵 | |
水墨牡丹之図 | 奥原晴湖 | 明治44年(1911) | ||
芙蓉鴛鴦図 | 岡本秋暉 | 江戸時代後期 | ||
重美 | 山水図 | 岡田半江・岡田米山人賛 | 享和3年(1803) | |
浅絳山水図 | 岡田米山人 | 文化11年(1814) | 高林富美子氏寄贈 | |
南披楼雅集図 | 岡田半江・篠崎小竹 賛 |
江戸時代後期 | 高林富美子氏寄贈 | |
米顛之図 | 大倉笠山 | 江戸時代後期 | 高林富美子氏寄贈 | |
寒江獨釣之図 | 中林竹洞 | 江戸時代後期 | 高林富美子氏寄贈 | |
瀑布之図 | 今王路悠山 | 江戸時代後期 | 高林富美子氏寄贈 | |
浅絳山水并題詩 | 貫名海屋 | 嘉永5年(1852) | 高林富美子氏寄贈 | |
歳寒二友図 | 椿 椿山 | 嘉永6年(1853) | 高林富美子氏寄贈 | |
海棠小鳥 | 三宅紫山 | 天明3年(1783) | ||
水墨山水 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | ||
河豚図 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | ||
柳塘山水 | 渡辺小華 | 明治時代前期 | ||
松山瀑布図 | 田能村 直入 |
元治元年(1864) | 高林富美子氏寄贈 | |
蔬菜図 | 井上竹逸 | 慶応2年(1866) | ||
中部尋常高等小学校運動会 | 小澤耕一 | 昭和11年(1936) | ||
秋江魚楽図 | 帆足杏雨 | 天保13年(1842) | ||
秋汀鴛鴦 | 山本梅逸 | 江戸時代後期 | 高林富美子氏寄贈 | |
竹図 | 松尾芭蕉 | 江戸時代前期 | 高林富美子氏寄贈 | |
岡田虎二郎デスマスク | 北村正信 | 大正9年(1920) | 森田聡氏寄贈 | |
峡壁飛泉 | 白井烟嵓 | 昭和23年(1948) | 白井啓之氏寄贈 第4回日展入選 |
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室内之図 | 鵜飼節夫 | 昭和30年代 | 富田よね子氏寄贈 | |
胸中山 | 亀田鵬斎著 谷文晁ほか画 |
文化13年(1816) | 版本 | |
安政名家帖 | 井上竹逸ほか | 安政時代 | ||
鴨水十五景詩画冊 | 篠崎小竹・小田海僊・ 山本梅逸ほか |
弘化3年(1846) | 高林富美子氏寄贈 | |
日光八勝図 | 立原春沙 | 江戸時代後期 | ||
百子留芳図扇面 | 立原春沙 | 江戸時代後期 | ||
百石堂法帖 | 渡辺如山 | 天保2年(1831) | ||
習画帖 | 朝見香城 | 昭和時代 | 2冊 | |
船 | 白井烟嵓 | 昭和時代 | 色紙 | |
早稲と白鷺 | 白井烟嵓 | 昭和時代 | 色紙 | |
烏賊 | 白井烟嵓 | 昭和時代 | 色紙 | |
隷書七絶扇面 | 立原杏所 | 江戸時代後期 | 高林富美子氏寄贈 | |
春風万里図扇面 | 平井顕斎 | 江戸時代後期 | ||
駿遠過眼之景 | 藤懸静也 | 昭和13年(1938) | 中村登紀夫氏寄贈 | |
田原藩札 銭百文 | 江戸時代後期 | 犬飼正一氏寄贈 | ||
田原藩札 銭四十八文 | 江戸時代後期 | 犬飼正一氏寄贈 | ||
絵はがき | ||||
田原町全景 | 明治43年(1910)頃 | 宮本哲史氏寄贈 | ||
福江港内ノ景(東三名所) | 大正6年(1917) | 葛野孝庸氏寄贈 | ||
日清戦争日記 | 福井丈作 | 明治27年(1894) | 福井貞夫氏寄贈 | |
1 | 詠草 天保十四年卯のとし | 広中養安 | 天保14年(1843) | |
2 | 弘化巳年雑詠 | 広中養安 | 弘化2年(1845) | |
3 | 弘化二巳とし暑中御伺之節京都迄遺し候歌 | 広中養安 | 弘化2年(1845) | 冷泉家宛 |
4 | 弘化三午とし二の巻雑詠 | 広中養安 | 弘化3年(1846) | |
5 | 弘化三年霜月同四年初春詠入詠草かき | 広中養安 | 弘化3年(1846) | |
6 | 嘉永酉とし閏四月廿日あまり六日より此そうしをつくりておのかうたきかなへてんとおもひて青松庵 | 広中養安 | 嘉永2年(1849) | |
7 | 嘉永三戊とし春の友 | 広中養安 | 嘉永3年(1850) | |
8 | 嘉永三戊のとし詠草 | 広中養安 | 嘉永3年(1850) | |
9 | 嘉永四亥のとし組題春の部詠草 | 広中養安 | 嘉永4年(1851) | |
10 | 嘉永六丑とし組題夏の部詠草 | 広中養安 | 嘉永6年(1853) | |
11 | 嘉永六丑年組題秋之部詠草 | 広中養安 | 嘉永6年(1853) | |
12 | 嘉永五子のとし組題冬之部詠草 | 広中養安 | 嘉永5年(1852) | |
13 | 嘉永七寅年四季十首組同三十首組 | 広中養安 | 嘉永7年(1854) | |
14 | 嘉永寅年四季五十首組同百首組壱首題 | 広中養安 | 嘉永4年(1851) |
企画展示室2 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
秋山水図 | 井村常山 | 明治時代 | ||
山水之図 | 井村常山 | 明治時代 | ||
夏山書屋 | 森田緑雲 | 大正時代 | ||
竹に雀 | 小笠原華文 | 明治〜大正時代 | ||
双羊之図 | 大橋翠石 | 昭和時代前期 | 個人蔵 | |
虎之図 | 大橋翠石 | 昭和時代前期 | 伊奈久子氏寄贈 | |
竹梅双幅 | 安田老山 | 明治10年(1877) | 吉田一夫氏寄贈 | |
山雨将来 | 白井烟嵓 | 昭和36年(1961) | 白井啓之氏寄贈 | |
早春放牛 | 白井烟嵓 | 大正〜昭和時代 | ||
青緑蓬莱山水之図 | 白井烟嵓 | 昭和8年(1933) | ||
秋景山水図 | 白井烟嵓 | 昭和13年(1938) | ||
瓜下湯浴之図 | 太田美山 | 昭和時代 | 鈴木明氏寄贈 | |
太田美山日記 | 太田美山 | 昭和13年(1938) | 鈴木明氏寄贈 | |
15 | 嘉永四亥年詠草 | 広中養安 | 嘉永4年(1851) | |
16 | 嘉永五子年雑詠草 | 広中養安 | 嘉永5年(1852) | |
17 | 嘉永六丑のとし雑詠草 | 広中養安 | 嘉永6年(1853) | |
18 | 嘉永七寅雑詠草 | 広中養安 | 嘉永7年(1854) | |
19 | 安政元卯年雑詠草 | 広中養安 | 安政元年(1854) | |
20 | 安政三辰のとし詠草留 | 広中養安 | 安政3年(1856) | |
21 | 安政四のとし巳詠草留 | 広中養安 | 安政4年(1857) | |
22 | 詠草 | 広中養安 | 安政5年(1858) | |
23 | 文久酉とし紅葉の詠草 | 広中養安 | 文久元年(1861) | |
24 | 文久二年 詠草留 戌初春 | 広中養安 | 文久2年(1862) | |
伊良古崎の記 | 広中養安 | 安政6年(1859) | ||
嵐山吉野道之記 | 広中養安 | 安政7年(1860) | ||
古切手 | 森田聡氏寄贈 | |||
あぢさい | 大場厚 | 昭和時代 | 渡辺汎子氏寄贈 | |
陽恵み | 大場厚 | 昭和時代 | 大場正夫氏寄贈 | |
人間風景A | 仲谷孝夫 | 昭和36年(1961) | 仲谷ますゑ氏寄贈、 | |
山へ行く | 仲谷孝夫 | 昭和42年(1967) | 仲谷ますゑ氏寄贈 | |
明日ありて(生きる) | 仲谷孝夫 | 昭和60年(1985) | 仲谷ますゑ氏寄贈 | |
望郷 | 仲谷孝夫 | 昭和61年(1986) | 仲谷ますゑ氏寄贈 | |
道 | 仲谷孝夫 | 平成2年(1990) | 仲谷ますゑ氏寄贈 | |
駅 | 白井青淵 | 昭和20〜30年代 | 白井清夫寄贈 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 独湛性瑩 (1628〜1706)
中国の明から渡来した黄檗宗の僧。福建省出身。母の没後、16歳で、梧山・積雲寺の衣珠のもとで出家した。1649年、隠元の弟子であった承天寺の亘信行弥に入門した。その後2年ほどして、諸方を行脚し黄檗山に至り、隠元に参じた。1654年、隠元に従って来日し、その後、長崎興福寺から摂津国普門寺、山城国萬福寺と、師の隠元に随従した。寛文4年(1664)浜松に至り、新寺(宝林寺、初山)の造営に当たった。翌年、隠元を開山として招き、独湛が初代住持となり、以後十八年間にわたり、その任に当たった。天和元年(1681)黄檗山の第四代住持となる。元禄10年(1679)には、遠州の初山で一万人以上の信徒を集めて授戒会を催した。宝永3年(1706)1月26日、黄檗の獅子林院で没した。享年79歳。
● 永村茜山 文政3年(1820)〜文久2年(1862)
茜山は本姓を長谷川という。父親は幕府の右筆長谷川善次郎である。名は寛、字は済猛、幼名は寿三郎、通称は晋吉、号ははじめ寿山、20歳ごろ茜山と改号した。渡辺崋山の日記である『全楽堂日録』(愛知県指定文化財・個人蔵)によると、10歳頃から画の修業のために頻繁に崋山の画塾に通ったことがわかる。十代最後には崋山の推薦により天保9年(1838)3月、代官羽倉簡堂(1790〜1862)に画工として随行して、伊豆七島を巡視している。そして各地で見た風物をいくつかの作品として残している。29歳の時、永村家の養子となり、金谷宿の組頭職をつぎ、組頭の仕事に没頭して、絵画は余り描かなくなったようである。晩年の茜山は、再び画道に精進し、文久元年(1861)崋山の墓を詣で、岡崎の辺りまで画の修行に出たが、多くの作品を残さず文久2年(1862)10月3日、金谷宿にて没した。
● 椿椿山 享和元年(1801)〜嘉永7年(1854)
名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵などと号した。江戸小石川に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨画法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄で、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(かのう・号小華)の養育を果たした。門人には、渡辺小華(1835〜87)、野口幽谷(1827〜98)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
幕臣で、兵学、居合、槍なども修め、武士としての素養も申し分なかったが、天保(1830〜44)の末頃には、画家として身を立てていたようである。文政年間(1818〜30)と天保前半までの作品は中国の古画にならう作品が多く、天保後期の崋山の影響を受ける時期になると、写生を基調とした没骨画法の作品が増え、崋山没後は、それまでの丁寧で、謹直な線から軽やかさが見られる。嘉永年間(1848〜54)に入ると、さらに潤いのあるみずみずしい作品となる。また、顔貌表現に陰影を施し、衣線は伝統的な技法で表現する崋山の肖像画技法を継承した唯一の弟子である。
● 山本琹谷 文化8年(1811)〜明治6年(1873)
石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。
● 鏑木華国 明治元年(1868)〜昭和17年(1942)
華国は田原藩士鏑木轍の長男として生まれました。幼時より、渡辺崋山の息子、小華に就き、画を学びます。明治43年に崋山会が創立されると、常務理事となります。同年、渡辺崋山70年祭を記念して、遺墨展覧会が開催され、その監修をし、翌年『渡辺崋山遺墨帖』を発行し、また、昭和9年には田原城二ノ丸櫓跡に崋山文庫を建設し、崋山顕彰に努めました。昭和17年に東京の三男敬三宅で亡くなりました。
● 奥原晴湖 天保8年(1837)〜大正2年(1913)
下総国古河藩家老池田家の子に生まれ、同藩士の枚田水石に絵を学んだ。のち、中国画を研究し、鄭板橋・費晴湖に私淑し、慶応元年(1865)奥原家の養女となり、江戸へ出る。勤皇の志士などとも交流し、門弟を多く抱えたが、文人画衰退期となり、埼玉県熊谷へ隠棲した。ダイナミックな墨画山水や書に特徴があり、その風貌とともに男性的な画風であった。
● 岡田米山人 延享元年(1744)〜文政3年(1820)
江戸時代後期の大坂を代表する文人画家。名を国、字は士源、画号を米山人、米翁と称した。寒山寺裏長池(現大阪市北区曽根崎)で米屋を営んでいた。米臼をひきながら読書し、余技に書画をしたと言われ、中国文人画を中心に独学で画業を修得した。39歳の時、子 半江が生まれる。天明2年(1782)頃、伊勢国藤堂藩に仕え、藩の蔵屋敷内(現大阪市北区天満宮)に移った。家業の米屋も息子半江に引き継がせていた。蔵屋敷の居宅の一部を画室として「正帆」と命名し、ここで多くの文人墨客と交わった。65歳前後で職を辞し、70歳頃から飲酒と煎茶に親しんだ。75歳の時、妻を亡くし、それ以後、死を迎えるまで2年間に書画の創作活動はもっとも旺盛となった。
● 岡田半江 天明2年(1782)〜弘化3年(1846)
岡田米山人の子で、名を粛、字は子羽、画号をはじめ、小米、のちに半江、独松楼、寒山外史などと号した。通称は宇左衛門、父没後彦兵衛を襲名。画を父に習い、詩文にも長じていた。藤堂藩大坂蔵屋敷に仕えた。天保3年ごろ職を辞し、子の寸庵(彼も画人として活躍)に米穀商の家督を譲り、天満橋北に隠居所を構えたが、父米山人が残した膨大な量の書画や書籍が天保8年(1837年)に起きた大塩平八郎の乱の煽りで、焼けてしまった。半江が本格的に絵を描き始めたのは、この事件以降のことである。居を住吉に移し、父の知友であった篠崎小竹、田能村竹田など多くの文人と交流をした。弘化3年に65歳で没した。
● 山本梅逸 天明3年(1783)〜安政3年(1856)
名古屋天道町に生まれ、幼いころから画に秀で、神谷天遊のもとで、中林竹洞とともに教育を受けた。花鳥画の名手として知られ、京都へ出て竹洞とともに尾張南画の名を高めた。晩年、名古屋に戻り、多くの弟子を育てた。
● 白井烟嵓 明治27年(1894)〜昭和51年(1976)
愛知県豊橋市花田町に生まれ、本名を白井瀧司、字を龍と称します。16歳より、従兄の白井永川に南画を学びます。大正3年(1914)に上京、近衛連隊に入隊します。除隊後、大正6年に崋椿系の流れを受けた松林桂月(1876〜1963)に師事し、大正9年第2回帝展に初入選以後、帝展、新文展に出品しています。戦後は日展に出品し、第2回「雨後」第5回「雲行雨施」(特選)があり、翌年、無鑑査出品となります。以後、社団法人日展となってからも、昭和43年(1968)まで委嘱作家として活躍します。昭和35年、日本南画院創設に参加し、理事を務めます。昭和36年第1回南画院に出品した「秀孤松」は文部大臣賞を受けます。南画院、日本画会など多くの展覧会にも出品しました。
● 谷文晁 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)
字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人谷麓谷(1729〜1809)の子として江戸に生まれ、中山高陽(1717〜1780)の門人渡辺玄対(1749〜1822)に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身で寛政の改革を行う老中松平定信(1758〜1829)付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、『石山寺縁起絵巻』の補作、また定信の御用絵師を勤めた。
明清画を中心に中国・日本・西洋などのあらゆる画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p(1796〜1843)、立原杏所(1785〜1840)がいる。
● 亀田鵬斎 宝暦2年(1752)〜文政9年(1826)
江戸神田に日本橋馬喰町鼈甲商長問屋の通い番頭の子として生まれ、名は長興、字は図南・稺竜、通称文左衛門、鵬斎、善身堂などと号した。折衷学派の井上金蛾(1732〜84)に師事し、古文辞学を排撃した。同門の山本北山(1752〜1812)と親しく、江戸学界の五鬼に数えられた。寛政異学の禁で弾圧を受け、晩年は酒にひたった。門下からは巻菱湖・館柳湾ら優れた人材が多く出た。晩年下谷金杉に移り住み、酒井抱一・谷文晁・太田南畝ら多くの文人達と交友した。
● 立原春沙 文政元年(1818)〜安政5年(1858)
立原杏所(1785〜1840)の長女として江戸小石川邸内で生まれた。名は春子、字を沙々。幼時から父に絵を学び、のち14、5歳で崋山に師事したと伝えられる。天保14年から17年間、金沢藩十二代藩主前田斉泰(1811〜84)の夫人溶姫に仕えた。生涯独身を通した。月琴にも長じ、精密で写実的な絵を描いた。崋山と父杏所の影響を受け、気品を備えた作品が見受けられる。
● 渡辺如山 文化13年(1816)〜天保8年(1837)
如山は崋山の8人兄弟の末弟、渡辺家の五男として江戸麹町の田原藩邸に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。
14歳から椿椿山(1801〜54)の画塾琢華堂に入門したことが『琢華堂門籍人名』(田原市指定文化財・田原市博物館蔵)に記載されている。花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年(1836)刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、「画如山、定固崋山弟同居、渡辺五郎」と崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)、崋山29歳のときのスケッチ帳『辛巳画稿』(重要美術品・個人蔵)の6歳の「五郎像」は名高い。兄崋山と共に田原藩主三宅康直の日光御祭礼奉行に同行し、また、兄同様に古画の摸写や観察眼の鋭いスケッチ帳を残し、崋山の長男で、如山の甥である「立」を描いたものなどもある。没後は江戸の渡辺家の菩提寺である小石川善雄寺に葬られた。法号は「一如院定説季保信士」とした。
● 平井顕斎 享和2年(1802)〜安政3年(1856)
遠江国榛原郡に豪農、平井治六の家に生まれた。幼名は元次郎、名は忱、字は欽夫、号は顕斎、40歳頃より三谷・三谷山樵と称した。文化10年(1813)12歳の頃からは、文晁門下で掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)に入門した。兄政次郎の没後、家督を継いだが、文政10年(1827)26歳で江戸に出て、谷文晁の門に入る。文晁門を辞し、武州・常陸・安房・上房・信濃・上野・下毛の諸国を遊歴し、帰郷した。下野の画人高久靄p(1796〜1843)とも交流している。天保6年(1835)6月に再び江戸に出て、福田半香に崋山を紹介してもらい、同九年、文晁より「画山写水楼」の号を授かった。渡辺崋山がこの年に描いた『芸妓図』(重要文化財・静嘉堂文庫美術館蔵)は、顕斎に贈られたものである。崋山没後は、郷里を中心に活動し、師崋山の作品を丹念に摸写し、山水画を最も得意としたが、花鳥画・人物画の分野においても画才を発揮した。また、師であった崋山の霊を供養するために『十六羅漢図』(静岡県指定文化財・静岡県楱原町円成寺蔵)を作成している。
● 藤懸静也 明治27年(1881)〜昭和51年(1958)
茨城県に生まれ、東京帝国大学史学科を卒業し、美術史研究室副手、大正13年(1924)史料編纂掛に勤め、國学院大学教授、昭和2年(1927)帝室博物館学芸委員を兼ね、欧米各国で浮世絵を収集した。翌年文部省国宝鑑査官をとなる。昭和4年東京帝国大学講師、同9年文学博士となり、教授に就任した。昭和20年国華社主幹、同25年文化財審議会専門委員となった。
● 広中養安 文久3年(1863)〜元治元年(1864)
田原藩の御用商人をつとめた広中家第十一代当主にあたる。幡豆郡荻原村長糟谷縫右衛門の子で、17歳の時、広中家の養子となった。4年後に家督を継ぎ、家業を盛り立て、嘉永2年(1849)に隠居した。茶事・歌道を好んだ風流人であった。冷泉為則に和歌を学んだ。法号は、「天巌全證居士」。養安の詠草は二十四綴残っており、総歌数は七千三百首以上である。紀行文もあり、これらの資料は昭和44年に『広中養安集』と題して、豊川市御油町の熊谷武至により刊行された。
● 小澤耕一 明治43年(1910)〜平成20年(2008)
昭和4年(1929)に愛知県岡崎師範学校を卒業後、県内の小学校に教員として勤めるかたわら田原画会の会員として田原における初期の洋画壇で作品を発表した。昭和38年からは田原町文化財保護審議会委員、同40年からは田原町史編纂委員も務め、田原藩資料・渡辺崋山の書画などの研究者でもある。
● 太田美山 明治30年(1897)〜?
渥美郡赤羽根町の農業太田佐兵衛の子で、大正2年(1913)東京で諸家の画を学ぶ。のち、京都の細田画塾、東京で伊東深水に師事し、人物・花鳥を得意とした。公募展には出品せず、無所属であった。昭和47年頃までの名鑑には名が見られる。
● 大場厚 明治41年(1908)〜平成9年(1997)
渥美郡田原町大久保(現田原市大久保町)に生まれた大場厚は、昭和5年(1930)岡崎師範学校専攻科を卒業し、昭和15年二科展に初入選します。同年正宗徳三郎・向井潤吉に師事。昭和20年より成章中学美術教諭となり、同21年、向井潤吉の誘いを受けて、行動美術協会結成に参加、会友となります。翌年、東海行動美術協会を結成。昭和30年、行動美術協会会員となり、以後審査員。昭和34年、向井潤吉・田中阿喜良とともに渡仏。昭和37年に教職を退き、パリス工芸株式会社を設立し、行動美術展を中心に活躍するかたわら、東三在野美術協会などのグループに参加。平成18年、行動展出品作品を中心とする作品の多くを田原市博物館に寄贈されました。
● 仲谷孝夫 大正7年(1918)〜平成18年(2006)
京都市立絵画専門学校で日本画を学んだ後、戦後、洋画へ転向し、郷里の田原中学校・成章高等学校で教員をつとめながら、昭和26年(1951)に行動美術展に初入選します。作品の主題は緑豊かな自然とともに生きる人々の姿であり、半ば抽象化された画面の中に自然が破壊される不安な世相を反映させながら、描き出しています。2001年には豊橋市美術博物館にて展覧会が開催され、平成20年に行動展出品作品を中心とする作品の多くを田原市博物館に寄贈されました。
● 白井青淵 明治42年(1909)〜平成18年(2006)
豊橋市西羽田町に白井永川の長男として生まれ、名は義美、青淵と号した。県立豊橋中学校(現県立時習館高等学校)を卒業後、牟呂八幡宮の社司であった父の白井永川について、神職を志すとともに南画の指導を受けるようになった。昭和4年(1929)に20歳で牟呂八幡社、次いで、羽田八幡宮の宮司に就任した。昭和18年には、京都の水田竹圃に師事し、南画を学ぶ。昭和23年には豊橋市出身で、前年に日展初入選を果たした中村正義に連れられて上京し、当時、日本芸術院会員として日展で審査員や理事をつとめていた中村岳陵に師事し、蒼野社(そうやしゃ)に入門した。昭和25年、40歳で第6回日展に「駅構内」(豊橋市美術博物館蔵)が初入選を果たした。以後、第7回「驛附近」、第8回「給油所」など同展に4回入選する。
昭和33年に中村岳陵塾である蒼野社を退き、活躍の場を豊橋へ置き、宗墨会創始者である高橋清紡没後、顧問として南画を教える。昭和35年に51歳で、中部日本南画院を創立し、以後毎年2回の展覧会を続け、父永川と同様に、後進を育成し、南画の興隆に努めている。昭和55年に中国桂林への写生旅行を実施したのを皮切りに、つい最近まで毎年のように中国・韓国・日本各地を訪ね、写生を行い、作品を発表し続けていた。昭和61年には豊橋市美術博物館で白井青淵展を開催した。平成元年(1989)には、豊橋文化賞を受賞し、羽田八幡宮境内に中部日本南画院により筆塚が建立された。同年、愛知県知事より文化功労褒状を受けた。平成7年からは中部日本南画院の主宰に就任した。
● 胸中山
亀田鵬斎(1752〜1826)が65歳で刊行した。見返しに「鵬斎先生画譜/胸中山/屑麦書房蔵」とあり、酒井抱一・谷文晁が挿絵を提供した。「胸中山」とは、胸中の山水の意味である。
● 篠崎小竹・小田海僊・山本梅逸ほか 鴨水十五景詩画冊
弘化3年(1846)の篠崎小竹(1781〜1851)の題字に始まり、小田海僊(1785〜1862)、中林竹洞(1776〜1853)、山本梅逸(1783〜1856)、浦上春琴(1779〜1846)らの絵に小竹の絵を添えるという画帖である。鴨水は鴨川のことで、十景描かれていたものに五景を加えて完成させたようである。
● 渡辺如山 百石堂法帖
表紙に椿椿山の所蔵印が捺される。最初の文に「洛神十三行」と題される。「洛神十三行」は、王献之(344〜386)の書で、次には文人画の祖とされる董其昌の名が見られる。何人かの中国の書を代表する字を写し取ったものである。最後のページに「天保辛卯春三月朔七日暮於全楽堂南窓下 如山外史定固」と書かれている。
● 永村茜山 仙境十六羅漢之図
十六羅漢とは、仏陀の命を受け、この世で人々を救済する役割を持った16人の阿羅漢。元は、尊敬されるべき修行者を阿羅漢と呼んだ。絵画としては、16幅で1組とした作品もある。
● 今王路悠山 瀑布之図・中林竹洞 寒江獨釣之図・大倉笠山 米顛之図
悠山・笠山は竹洞に学んだ弟子である。
■以下は、広中養安の著■
● 嘉永七寅年四季十首組同三十首組
「四季十首組同三十首組」とあるが、実際はもっと多い。四季十首は「早春霞」から始まり、次に「四季十二首」「四季弐十首組」「四季三十首」と続く。
● 嘉永寅年四季五十首組同百首組壱首題
「初春」から五十首が始まる。次に「歳内立春」から百首、次に「雑三十首」、「七夕七首」「九月十三夜十三首」が続く。
● 伊良古崎の記
養安60歳の時の紀行文である。 糟谷磯丸と往来があった。片面10行罫紙で、7丁からなる。吉田の岩上登波子の評と添削がある。