平常展 ひな人形展

展示期間 平成21年2月19日(木)〜平成21年3月22日(日)

 「ひな」とは、女児などの玩具とする小さい人形のことで、紙または土を原料として作り、多くはこれに着物を着せます。平安時代に立ち雛(紙雛)が生まれ、室町時代に座り雛(人形雛)となり、江戸中期以後に今日の雛人形となり、雛祭に飾られるようになりました。 ひな人形の飾られ方や顔や大きさは時代の流行などで変化していきます。また、ひな人形の男びなと女びなの並び方には、特に決まりはありません。一般的には向かって左に男びな、右に女びなを飾ります。

展示作品リスト

企画展示室2
作品名 年代
土人形 平敦盛(つちにんぎょう たいらのあつもり)  
土人形 荒獅子男之助(つちにんぎょう あらじしおのすけ)  
土人形 太閤と三法師(つちにんぎょう たいこうとさんほうし)  
土人形 花魁(つちにんぎょう おいらん)  
土人形 弁慶(つちにんぎょう べんけい)  
土人形 福禄寿(つちにんぎょう ふくろくじゅ)  
土人形 行燈持ち花魁(つちにんぎょう あんどんもちおいらん)  
江戸時代のひな人形(えどじだいのひなにんぎょう) 天保6年(1835)
明治時代のひな人形(めいじじだいのひなにんぎょう) 明治22年(1889)
大正時代のひな人形(たいしょうじだいのひなにんぎょう) 大正6年(1917)
ひな人形 御殿飾り(ひなにんぎょう ごてんかざり) 昭和38年(1963)
ひな人形 御殿飾り(ひなにんぎょう ごてんかざり) 昭和3年(1928)
土人形 天神(つちにんぎょう てんじん)  

※ 期間中、展示を変更する場合がございます。
※また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

土人形メモ

平敦盛… 平安末期の武将(1169〜1184)。「無官の太夫」と称された笛の名手。一ノ谷の戦いで熊谷直実に討たれた。
花魁… 遊女。禿(かむろ)や新造(しんぞ)などが「おいらの姉さん」を略して「おいらの」といったことから花魁(おいらん)となった。
行燈… 昔の照明器具。四角または円形の木や竹などの枠に紙を張り、中に油皿を置いて火をともす。
福禄寿… 七福神の一つ。昔、中国で道家の説から起こり、南極星の精と考えられていたものが日本に伝わって仙人の姿となった。福と禄と寿命の徳を備えている。

土人形

 土人形は、粘土を型取りし、素焼きをした後、にかわを混ぜた泥絵具で表面を塗った人形で、伝説や歴史上の英雄、歌舞伎の名場面の役者、武者等が色とりどりの特色や個性をもっています。
 三河地方における主な生産地は、現在の碧南市一帯です。この地域は三州瓦の産地として栄えたところで、良質な瓦粘土を産出し、それを生かした瓦作りの技術や職人の存在により土人形の産地となりえたのです。この他に、西尾・岡崎(鴨田・矢作)・豊川(国府)・豊橋・田原などでも土人形が作られました。このうち田原土人形は、江戸時代後期に渡辺崋山に招へいされた大蔵永常が指導にあたったものです。
 この地方の一般の人々のひな祭りの中心として一世を風びした土人形は、明治の中頃から徐々に「内裏ひな人形」に主役を交代していきました。そして大正に入り、ラジオや映画等の娯楽の多様化と芝居熱の低下、また生活レベルの向上などもこの動きに拍車をかけ、この地方から姿を消していきました。

土人形から内裏ひな人形へ

 明治の中頃から大正年間を中心として、「内裏ひな人形」がひな人形の主流になってきます。男びな、女びなの一対の人形に台座がつき、うしろを屏風で飾ることを原則とします。今日、「親王飾り」といわれている形式でもあります。人形は成りも大きく、風格を帯びています。
 土びな人形に代わり、これら内裏ひな人形が受け入れられていった背景として、明治維新後の生活レベルの向上にともない、人々のひな人形に対する関心が、土人形に比べ色彩が艶やかで、形が大きい衣装びなに移ったことなどが考えられますが、維新後の明治22年(1889)には大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されるなど、近代国家の確立とともに、天皇が庶民の生活レベルで意識しはじめられたこととも無関係ではありえないでしょう。

この地方で、ひな祭りにひな人形を飾る習慣が一般化したのは江戸時代後半であり、江戸・明治年間を通じて、一般的には「土人形」(泥人形)がひな祭りの主役でありました。そして明治の中頃から、男びなと女びなが一対の「内裏びな」が普及し始め、大正の末頃から、この内裏びなも御殿を中心にひな人形を飾る「御殿飾りびな」に交代していきました。以降、昭和30年代までは途中、戦争、敗戦、戦後復興の激動の時代を経ながらも、この「御殿飾りびな」は人々に支持されてきました。
 明治の中頃から大正年間を中心として、「内裏ひな人形」がひな人形の主流になってきます。男びな、女びなの一対の人形に台座がつき、うしろを屏風で飾ることを原則とします。今日、「親王飾り」といわれている形式でもあります。人形は成りも大きく、風格を帯びています。  土びな人形に代わり、これら内裏ひな人形が受け入れられていった背景として、明治維新後の生活レベルの向上にともない、人々のひな人形に対する関心が、土人形に比べ色彩が艶やかで、形が大きい衣装びなに移ったことなどが考えられますが、維新後の明治22年(1889)には大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されるなど、近代国家の確立とともに、天皇が庶民の生活レベルで意識しはじめられたこととも無関係ではありえないでしょう。

この地方で、ひな祭りにひな人形を飾る習慣が一般化したのは江戸時代後半であり、江戸・明治年間を通じて、一般的には「土人形」(泥人形)がひな祭りの主役でありました。そして明治の中頃から、男びなと女びなが一対の「内裏びな」が普及し始め、大正の末頃から、この内裏びなも御殿を中心にひな人形を飾る「御殿飾りびな」に交代していきました。以降、昭和30年代までは途中、戦争、敗戦、戦後復興の激動の時代を経ながらも、この「御殿飾りびな」は人々に支持されてきました。