期間 平成21年2月14日(土)〜平成21年3月15日(日)
この地方で、ひな祭りにひな人形を飾る習慣が一般化したのは江戸時代後半であり、江戸・明治年間を通じて、一般的には「土人形」(泥人形)がひな祭りの主役でありました。そして明治の中頃から、男びなと女びなが一対の「内裏びな」が普及し始め、大正の末頃から、この内裏びなも御殿を中心にひな人形を飾る「御殿飾りびな」に交代していきました。以降、昭和30年代までは途中、戦争、敗戦、戦後復興の激動の時代を経ながらも、この「御殿飾りびな」は人々に支持されてきました。
しかし、昭和30年代に入ると次第に人形は大きくなり、御殿に代わり屏風を置く「屏風段飾りびな」が普及し、今日までその流れは続いています。
資 料 名 | 制 作 年 | 展 示 場 所 | 備 考 | |
1 | 立ちびな | 寛政年間(1789〜1801) | 企画展示室 | 寄託資料 |
2 | 内裏ひな人形 | 企画展示室 | ||
3 | 内裏ひな人形 | 大正14年(1925) | 企画展示室 | |
4 | 内裏ひな人形 | 企画展示室 | ||
5 | 天神飾り | 昭和2年(1927) | 企画展示室 | |
6 | 天神飾り | 企画展示室 | ||
7 | 御殿飾りひな人形 | 企画展示室 | ||
8 | 御殿飾りひな人形 | 昭和5〜6年(1930〜1931) | 企画展示室 | |
9 | 御殿飾りひな人形 | 昭和29年(1954) | 企画展示室 | |
10 | 御殿飾りひな人形 | 昭和33年(1958) | 企画展示室 | |
11 | 御殿飾りひな人形(天神) | 昭和7〜8年(1932〜1933) | 企画展示室 | |
12 | 御殿飾りひな人形 | 昭和37年(1962) | 企画展示室 | |
13 | 御殿飾りひな人形 | 企画展示室 | ||
14 | 屏風段飾りひな人形 | 昭和37年(1962) | 企画展示室 | 7段 |
15 | 屏風段飾りひな人形 | 昭和44年(1969) | 企画展示室 | 7段 |
16 | 屏風段飾りひな人形 | 昭和52年頃(1977) | 企画展示室 | 7段 |
17 | 屏風段飾りひな人形 | 昭和50年代 | 企画展示室 | 7段 |
18 | 親王飾りひな人形 | 企画展示室 | ||
19 | 土人形 | 企画展示室 | ||
20 | 御雛軸 | 企画展示室 | ||
21 | 御天神軸 | 企画展示室 | ||
22 | つるし飾りひな人形 | 企画展示室 | 花まりの会 | |
23 | 段飾りひな人形 | 2階ロビー | 3段 | |
24 | 天神飾り | 昭和60年(1985) | 2階ロビー | |
25 | 親王飾りひな人形 | 1階ロビー | ||
26 | 親王飾りひな人形 | 1階ロビー | ||
27 | 屏風段飾りひな人形 | 1階ロビー | 7段 | |
28 | ケース入三月人形 藤娘 | 1階ロビー | ||
29 | ケース入三月人形 東山 | 1階ロビー | ||
30 | ケース入三月人形 | 1階ロビー |
※本年は、市内のつるし雛制作グループ「花まりの会」の皆さんのご協力により、会場内に 「つるし飾りひな人形」を展示させていただきました。
当市の旧家に伝わった江戸時代寛政年間(1789〜1801)の立ちびなです。このような扁平の立ち姿の人形は、平安時代の「ひひな」の面影を伝え、小袖を着た姿は、室町時代頃の風俗を反映したものと言われています。
男びなは両手を広げた小袖袴(こそでばかま)、女びなは円筒形の簡略な作りで、小袖に細帯をしめた姿を表しています。袖の部分に一部布が使われているものの、衣装は紙で作られています。頭は京都の人形師、雛屋次郎左衛門(ひなやじろうざえもん)が扱ったもので、丸い頭に一線の目、小さな鼻とおちょぼ口が特色の典雅な趣がある逸品で、日本のひな人形の歴史の中でも、古い形式を伝えているものです。
土人形は、粘土を型取りし、素焼きをした後、にかわを混ぜた泥絵具で表面を塗った人形で、伝説や歴史上の英雄、歌舞伎の名場面の役者、武者等が色とりどりの特色や個性をもっています。
三河地方における主な生産地は、現在の碧南市一帯です。この地域は三州瓦の産地として栄えたところで、良質な瓦粘土を産出し、それを生かした瓦作りの技術や職人の存在により土人形の産地となりえたのです。この他に、西尾・岡崎(鴨田・矢作)・豊川(国府)・豊橋・田原などでも土人形が作られました。このうち田原土人形は、江戸時代後期に渡辺崋山に招へいされた大蔵永常が指導にあたったものです。
この地方の一般の人々のひな祭りの中心として一世を風びした土人形は、明治の中頃から徐々に「内裏ひな人形」に主役を交代していきました。そして大正に入り、ラジオや映画等の娯楽の多様化と芝居熱の低下、また生活レベルの向上などもこの動きに拍車をかけ、この地方から姿を消していきました。
明治の中頃から大正年間を中心として、「内裏ひな人形」がひな人形の主流になってきます。男びな、女びなの一対の人形に台座がつき、うしろを屏風で飾ることを原則とします。今日、「親王飾り」といわれている形式でもあります。人形は成りも大きく、風格を帯びています。
土びな人形に代わり、これら内裏ひな人形が受け入れられていった背景として、明治維新後の生活レベルの向上にともない、人々のひな人形に対する関心が、土人形に比べ色彩が艶やかで、形が大きい衣装びなに移ったことなどが考えられますが、維新後の明治22年(1889)には大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されるなど、近代国家の確立とともに、天皇が庶民の生活レベルで意識しはじめられたこととも無関係ではありえないでしょう。
「御殿飾りひな人形」とは、特に定まった名称ではなく、一般的には御殿を中心に飾るひな人形をさしています。形式的には既に江戸時代に定まり、御殿を中心に御殿内外に親王、三人官女、左・右大臣、三体の仕丁等の人形を飾り桜や橘、雪洞(ぼんぼり)を配しています。この地方で、御殿飾りが普及しはじめるのは、昭和に入ってからです。
当初は、比較的簡素な落ち着きのある白木作りの御殿やひな人形でしたが、次第に装飾されていきます。
とくに「御殿」は、もともと神殿造りの御所や、神明造りの寺社を模して作られていますが、年代とともに大きく移り変わっています。昭和10年代には、屋根の上に金鯱が飾られはじめ、昭和20年代後半には、御殿全体がまばゆいほどに光り輝いています。衣装や道具も同様に、今日の感覚から見れば異様と思われるほどです。
御殿のような家に住みたいその御殿とは、これらその時代時代の御殿でありました。
御殿を最大限に装飾し豪華絢爛の様を競った御殿飾りのひな人形も、御殿に代わり屏風を置き、人形を全体に大きくした屏風段飾りひな人形が受け入れられるようになります。
その年々の出来事や、ヒーロー、ヒロインに合わせた変わりびなも登場してきますが、様式としてはこの屏風段飾りであり、平成の時代の今日でも最も多く家庭に飾られているひな人形であります。
本展は、昭和62年2月の開催以来、今年で23回目を迎えることとなりました。この間に寄せられました皆様のご支援、ご協力に心より感謝申し上げます。
当館では、ひな人形やひな祭り、男の子の節句に関する資料、またそれ以外の古い資料を収集しています。なにか資料がございましたらご一報ください。
〒441-3695 田原市古田町岡ノ越6番地4 TEL:0531-33-1127 URL:http://www.taharamuseum.gr.jp |