開催日 | : | 2009年1月6日(火)〜2月15日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 田原市博物館:企画展示室2 |
田原藩は、幕末に、蘭学研究を推進し、西洋流砲術をいち早く採用した。その中心となったのは、家老村上範致であった。
企画展示室2 | ||||
指定 | 作 品 名 | 作者名 | 年 代 | 備 考 |
市文 | 漂民聞書 (ひょうみんききがき) |
渡辺小華 (わたなべしょうか) ほか挿図 |
安政2年(1855) | 5冊 |
漢詩冊 (かんしさつ) |
高島秋帆 (たかしましゅうはん) |
安政6年(1859) | ||
兵学書 (へいがくしょ) |
高島秋帆 (たかしましゅうはん) |
安政元年(1854) | 個人蔵 | |
墨竹図(ぼくちくず) 村上定平宛書簡 (むらかみさだへいあてしょかん) |
渡辺崋山 | 天保12年(1841) | 個人蔵 | |
高島流砲術傳書 (たかしまりゅうほうじゅつでんしょ) |
江戸時代後期 | 写本、3冊 | ||
高島流起證盟文 (たかしまりゅうきしょうめいぶん) |
天保14年(1843) 〜嘉永6年(1853) |
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高島流火術初位傳授 (たかしまりゅうかじゅつしょいでんじゅ) |
村上範致 | 嘉永5年(1852) | 竹本泰一氏寄贈 | |
砲術聞取書 (ほうじゅつききとりしょ) |
村上範致 | 江戸時代後期 | ||
安政乙卯聞見雑録二 (あんせいきのとうぶんけんざつろく) |
村上範致 | 安政2年(1855) | ||
掌記 (しょうき) |
村上範致 | 安政〜元治年間 | ||
村上家由緒(むらかみけゆいしょ) (村上理右衛門(むらかみりえもん)〜 村上財右衛門(むらかみざいえもん)) |
村上照員 (むらかみてるかず) |
文政2年(1819) | ||
御家中系譜惣控 (ごかちゅうけいふそうひかえ) 五巻 |
江戸時代後期 | 藩関係文書544 | ||
江川坦庵像 (えがわたんあんぞう)(複) |
原本は江川文庫蔵 | |||
藤田東湖先生忠節之詩文 (ふじたとうこせいちゅうせつのしぶん) |
藤田東湖 (ふじたとうこ) |
江戸時代後期 | ||
市文 | 海防備論 (かいぼうびろん) |
江戸時代後期 | 写本、
著者は藤森弘庵、
御納戸書籍168、2冊、 |
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順応丸材料片 (じゅんのうまるざいりょうへん) |
井上親 (いのうえちかし) |
江戸時代 | 田原藩使用軍船 | |
弾薬箱 (だんやくばこ) |
江戸時代後期 | 田原藩使用 | ||
市文 蘭10 |
Atlas van XL Paten behoor-ende bij de Handleiding tot de Kennis van den Vestingbouw. (築城教範(ちくじょうきょうはん)の 附図(ふず)40よりなる図帖(ずちょう)) |
BREDA | 1846年 | |
市文 蘭13 |
砲術全書図式 (ほうじゅつぜんしょずしき) |
天保年間 | 原書は Calten.J.A:Leiddraadbij het onderrigtein de Zeeartillerie.Delft.1832 |
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ゲベール銃(じゅう) | 常設展示室にも展示 | |||
市文 蘭20 |
外藩旗譜 (がいはんきふ) |
天保年間 | 写本 | |
砲弾鋳型 (ほうだんいがた) |
江戸時代後期 | 常設展示室にも展示 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
● 渡辺崋山 [わたなべ かざん] 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静(さだやす)、のち登(のぼり)と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。8歳より藩の世子御伽役(おとぎやく)を勤め、藩士としては天保3年(1832)40歳で年寄役となる。13歳で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋(なんぴん)画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山(つばきちんざん)、福田半香(ふくだはんこう)、平井顕斎(ひらいけんさい)などがいる。蘭学にも精通したが、天保10年(1839)47歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入(あがりやい)りとなり、翌年1月より田原に蟄居となった。門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保12年、49歳で自刃した。
● 村上範致 [むらかみ のりむね] 文化5年(1808)〜明治5年(1808)
江戸時代末期の砲術家で、田原藩家老である。田原に生まれ、通称は定平(さだへい)のち財右衛門、号は清谷(せいこく)。高島秋帆に洋式砲術を学び、各地の藩士に指導を行って日本における洋式砲術の普及に貢献した。また、田原藩の重役として海防事業や産業振興に従事した。村上家はもと三河国加茂郡挙母(現豊田市)の出身で医師をしており、のち田原藩領内赤羽根(現在の田原市赤羽根町域)に移住、正徳年間(1711年〜1715年)に田原藩に仕えたと伝えられる。範致の生まれた頃の家は代官職17俵二人扶持と出身身分は低かったが、範致の卓越した武芸と意志の強さが評価され、藩隠居三宅友信の近習となった。江戸家老であった渡辺崋山の目に留まり、彼の薫陶と引き立てを受けるようになる。その際に崋山の影響を受けて蘭癖であった友信の膨大な蘭学書を読む機会があり、範致は銃砲術に強い関心を抱くようになった。また、江戸在府中に幕臣の江川英龍や下曽根金三郎の知遇を受け、ともに砲術の研究をするようになった。その中で優れた西洋流砲術家として高島秋帆の存在を知ることとなった。また、一方では斎藤弥九郎から神道無念流を学び、免許皆伝を得た後、田原に戻って同流を広めた。天保年間、範致は江川らとともに高島秋帆に入門、西洋流砲術を学び、同12年5月に行われた徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区)で行われた演習に参加している。これに先立って崋山は蛮社の獄のため、田原に蟄居していたが、範致の入門を心から喜んでいる旨の書簡が残っている。この時は数ヶ月教授を受けて田原に戻ったが、翌天保13年(1842)夏には長崎にあった高島秋帆を訪ねて再び師事している。同年冬に帰国して田原で鉄身の大砲と砲弾を鋳造、翌年正月には藩主三宅康直の前で高島流砲術を披露し、その後田原藩の砲術に高島流を導入していくとともに、藩校成章館で多くの藩士を教育した。またこの間、師の高島秋帆が幕府江戸町奉行鳥居耀蔵の起こした疑獄事件により蟄居の身となったこともあり、範致の砲術を知った諸藩の藩士が田原の範致邸を訪れ、彼に師事した。大垣藩など、これが大きな理由となって幕末に武備を充実させた藩も多い。さらに嘉永3年(1850)には田原藩軍制を西洋式に変更、農兵部隊を組織した。安政3年(1856)には西洋式帆船順応丸の建造に着手し、江川英敏(英龍の子)や先行して建造していた長州藩などの協力の下、翌々年に竣工させた。文久2年(1862)には幕府から講武所の高島流砲術の世話役に請われて就任し、江戸に出て幕臣や各藩の藩士に砲術を指南した。安政5年(1858)、範致は田原藩の家老に就任、イリコ・淡菜などの海産物の生産を奨励し、これを西国に輸送することで収入を得ようとした。まもなく幕末騒乱期となり、明治維新となるが、範致は要職にあって藩をよく支えた。明治2年(1869)、新政府から藩大参事を任命され、続けて藩政に当たった。3年後に病死し、墓は田原市の蔵王霊園にある。また、明治30年(1897)、勝海舟題額・細川潤次郎撰文による碑が田原城跡三ノ丸に建立された。
■田原藩の砲術を学びに来藩した各藩士の人数
上田藩(信濃国)1・宇和島藩1・大垣藩16・岡崎藩2・掛川藩4・刈谷藩2・金沢藩2・志波(常陸国旗本領)1・西条藩(伊予国)1・仙台藩1・西ノ郡(旗本領)3・姫路藩1・水戸藩2・守山藩(陸奥国)2・吉田藩8
● 高島秋帆 [たかしま しゅうはん] 寛政10年(1798)〜慶応2年(1866)
江戸時代後期の砲術家。諱は茂敦、字は舜臣、通称は四郎太夫、秋帆はその号である。寛政10年(1798)長崎町年寄高四郎兵衛の三男として長崎に生まれる。父のあとをつぎ、のち長崎会所調役頭取となった。長崎港の防備を担当した関係で、はじめ荻野流砲術を学んだが、のち出島の蘭人から西洋砲術を学び、これを高島流砲術とよんだ。西洋近代砲術を最初に紹介したものといえる。伝存する『高島流砲術秘伝書』は、オランダの砲術入門書の翻訳である。天保11年(1840)9月、秋帆は幕府に上書して、アヘン戦争の戦況を伝え、清国側の敗北を砲術の未熟に帰して、西洋砲術の採用による武備の強化を進言した。翌年幕命により出府し、徳丸ヶ原で秋帆所持の輸入砲四挺の実射と歩騎兵の演練を行なった。そのため名声がおおいに挙がり、幕府は高島流砲術を採用することとして、前記の輸入砲をすべて買い上げ、あわせて代官江川英龍(太郎左衛門)に砲術の伝授を命じた。すでにこれ以前に佐賀藩および薩摩藩が高島流砲術を採用しているが、幕府についで諸藩がひろく高島流砲術を採用するのは、これ以来である。秋帆の在府中にかなりの門人があり、ほぼ確認できる数をあげると、幕臣(陪臣を含む)は11人、諸藩士は13藩にわたり、30人である。さらに長州藩では、秋帆の帰国後、藩士を派遣して入門させているが、他藩でも同様の例がみられる。しかし、他方、高島流砲術の隆盛は、幕府内部の守旧派の忌むところとなり、当時町奉行の鳥居耀蔵(甲斐守忠耀)が長崎奉行伊沢政義と組んで秋帆を罪におとしいれようとした。そのため天保13年10月に秋帆は逮捕されて江戸に送られ、町奉行鳥居の手で取調べをうけ、のち評定所で再吟味が行なわれ、弘化3年(1846)7月に中追放の判決をうけて、武州岡部藩に預けられた。嘉永6年(1853)ペリー艦隊の来航に伴い、江川英龍の進言により赦免されて、通称を喜平と改め、江川のもとで鋳砲に従事し、のち講武所砲術師範にあげられて、幕府の軍事の近代化に寄与した。
● 江川坦庵 [えがわ たんあん] 享和元年(1801)〜安政2年(1855)
江川英毅(1770〜1834)の子として生まれ、天保6年(1835)、父の死後、伊豆韮山代官職と36代太郎左衛門を継ぐ。字は九淵、号を坦庵と称す。所領は武蔵・相模・伊豆・駿河、のちに甲斐の幕領も加わった。優秀な人材を登用し、民政を施し、「世直し大明神」と呼ばれた。種痘奨励、パンの製造でも知られる。
渡辺崋山と交遊し、海防のため高島秋帆(1798〜1866)に砲術を学び、佐久間象山(1811〜1864)、木戸孝允(1833〜1877)らに教授した。嘉永6年(1853)のペリー来航の時、勘定吟味役格となり、品川沖に砲台の台場を築造、また、韮山に砲身鋳造のための反射炉(国指定史跡)建造に着手したが、完成(1857)を見ずに没した。
● 藤田東湖 [ふじた とうこ] 文化3年(1806)〜安政2年(1855)
水戸藩の学者、徳川斉昭の腹心、彰考館総裁代役も勤め、水戸学の大家。名は彪(たけき)、字を斌卿(ひんけい)と言い、虎之助、虎之介、誠之進の通称を持つ。父は藤田幽谷、嘉永6年(1853) ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として斉昭を補佐し、安政元年(1854)には側用人となった。安政の大地震で落下してきた梁(鴨居)から母を守ろうと、自らの肩で受け止め、圧死した。著作に『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』などがある。
● 漂民聞書
三河国渥美郡江比間村伊藤与市持船の廻船であった永久丸のアメリカなどへの漂流の様子について、詳細に記録された漂流記である。田原藩主三宅康保が安政2(1855)年に藩士の村上範致、萱生景福、稲熊元長に命じて、田原に帰った漂流民作蔵、勇次郎から漂流の顛末を書き取らせたものである。全12巻により構成され、美濃本5冊にまとめられている。安政3年正月完成。安政2年10月28日の部分に「江戸にて渡辺舜治(小華のこと)
アメリカ漂流人持帰りの品物写生を命ぜられる(諸事留)」とあり、また、「一 渡邉舜治へ亜米利加漂流人持帰り之品物写物今日より申付候以上」とある。また、数日後の十一月三日には「一 渡邉舜治罷出写物致候事」とあり、渡辺小華が巻十二の衣服器械図を描いたということになる。藩に提出したものもあろうが、村上範致の家に控として伝来した資料である。
内容は、「巻之一」に、嘉永4(1851)年の漂流開始から嘉永5年3月、アメリカの捕鯨船に助けられ、その船とともにベーリング海峡から北極海に入り捕鯨をしたことが記される。「巻之ニ」では、ベーリング海峡から北太平洋を経て、嘉永5年9月下旬にサンドイッチ諸島にあるハワイ島に到着し、その隣のオアフ島で三月程過ごし、岩吉たちと別れたことが記される。「巻之三」には、嘉永6年1月にオアフ島を出発し、1月ほどでギルバート諸島オーシャン島に着き、食料を購入して、又1月でマリアナ諸島グァム島に着き、そこで1月程逗留して、4月中旬グァム島を出発、再び北太平洋よりベーリング海峡を越えて、ロシアの北辺にて捕鯨をしたことが記される。「巻之四」では、嘉永6年8月にロシアの北辺を出発し、ベーリング海を越えて、マウイ島に着岸し、燃料食料を積み、針路をさらに南東にとって約二ヶ月半ほどの嘉永7年正月中旬に南アメリカのパイタ、ピラウ付近に着岸し、さらに南に進み、同年2月中旬南アメリカ最南端にあるホーン岬を廻って、4月下旬にアメリカ共和国の東にある「ニューベッドフォード」に入港するまでのことが記される。「巻之五」では、ニューベッドフォードに1月あまり逗留した後の嘉永7年5月下旬、旅館を出発して、ボストンに至るまでのことが記される。「巻之六」は、ボストンからニューヨークに行き、再びボストンに戻るまでのことが記される。「巻之七」は、ボストンを6月中旬に出発し、赤道を越え、ホーン岬を廻り、南アメリカのバルパライソに着岸し、再び赤道を越えて、嘉永7年8月下旬にアメリカ西海岸のカリフォルニアに至るまでのことが記される。「巻之八」は、カリフォルニアを嘉永7年9月初旬に出発し、約40日で香港に11月中旬、到着し、いよいよ香港を11月17日に出発して、12月12日に下田港に到着し、その後、田原藩へ引き渡しが完了するまでのことが記される。「巻之九」は、雑事として、巻一〜八までの紀行文中に記述できなかった諸々の事項について記される。気候・産物・人物・動物・食物・乗物・建物・風俗習慣・生活様式・捕鯨・船・軍備・都市の様子などが箇条書きで紹介されている。「巻之十」は、共和国言語として、アメリカの言語(英語)が、天文・地理・時令・人倫・身体・疫病・宮・会話等々の日本語に分類され、その下に英語(作蔵口述)をカタカナで、さらに綴りのわかる範囲で英文文字が記される。日本語で35分類された語彙は、総数で929語、内英文文字が付載去れたものは559語に及ぶ。「巻之十一」は、諸国の物産として、鉱物・食物・植物・調味料・鳥類・動物・魚類・鯨などについて絵が添えられ解説されている。「巻之十二」は、衣服器械図として漂流民作蔵、勇次郎がアメリカより田原藩に持ち帰った洋服・シャツ・ズボンなどの衣類や・櫛・歯ブラシ・ナイフ・フォークなどの生活用品が絵で記される。
● 漢詩冊
高島秋帆から村上範致に贈呈された書帖である。秋帆は長崎の来舶清人施南金から書を学び、唐様書家としても名高かった。安政年間から秋帆が亡くなる慶応2年正月までの書画類は多いが、伝来のわかる資料としても貴重である。
● 墨竹図・村上定平宛書簡
村上は天保12年5月9日に徳丸原で催された洋式銃隊操練に参加していた。崋山が村上に対して、西洋流銃陣の先駆者として激励している。定平の履歴書に5月12日に「男子出生有之候」とある。この翌年6月に、長崎の高島秋帆を訪ね、西洋流砲術を伝授され、田原藩の西洋流砲術の指導者となっていく。
● 高島流砲術傳書
田原市指定文化財となっている「高島流傳書」は抜き書きであるが、この本は3巻3冊本であり、蘭書の原本であるファン・デル・ミュエレン著『砲術便覧』(1807年)を翻訳、編集したもので本来の高島流砲術傳書の形態である。所蔵由来は不明であるが、旧田原藩士族の家に伝わったもので、貴重な新発見資料と言える。元はオランダ海軍兵学校士官候補生用の教授テキストとして配られたものである。抄写本「高島流傳書」に比べ、朱書があまり見られず、本来の伝写本と考えられる。
● 高島流起請盟文
この起請盟文が書かれる天保14年1月には、高島流砲術を田原藩主に見せるまでに会得している。同年には、高島流銃陣法を図示した『銃陣初学抄』も著した。95名の署名が記録されている。
年 | 日 付 | 所 属 | 身 分 | 田原藩の可能性あり | |
天保14年 | 7月29日 | 河邉磯吉清民 | 三河国田原藩 | 三宅友信近侍 | |
天保14年 | 宮本佐一郎宗英 | 常陸国水戸藩 | 藩士 | ||
9月19日 | 佐藤四郎左衛門信當 | 三河国田原藩 | |||
真木重郎兵衛定前 | 三河国田原藩 | ||||
9月20日 | 村松志津馬定孝 | 三河国田原藩 | |||
平井平兵衛将禮 | |||||
二村二三二雅珍 | 三河国田原藩 | 給人 | |||
井上忠兵衛定親 | 三河国田原藩 | ||||
生田孫市則博 | ○ | ||||
村上孫兵衛義珍 | 三河国田原藩 | 中小姓順席山浜代官 | |||
光用彌五左衛門堯義 | 三河国田原藩 | ||||
伴和助充福 | 三河国田原藩 | 供中小姓 | |||
日高三左衛門親厚 | 三河国田原藩 | 連紙格代官 | |||
小山庄助堅瑾 | ○ | ||||
岡田輿次右衛門良春 | 三河国田原藩 | ||||
松坂安兵衛義融 | 三河国田原藩 | ||||
中村三八郎一義 | 三河国田原藩 | 小屋頭 | |||
大羽杢左衛門喜治 | 三河国田原藩 | ||||
加藤只助義信 | 三河国田原藩 | 鉄炮組雇 | |||
杉山常吉實□ | ○ | ||||
松坂武吉 | 三河国田原藩 | ||||
中村祐吉欠 | ○ | ||||
浅野屋之助 | |||||
小川蔵蔵通助 | 三河国田原藩 | ||||
渡邊立 | 三河国田原藩 | 登の長男 | |||
天野安之□ | ○ | ||||
本多儀八郎義年 | 三河国田原藩 | ||||
田中兵助長喜 | ○ | ||||
二村□平 | ○ | ||||
村上周助寧靜 | ○ | ||||
以下つづく | 小川為助宜孝 |
● 村上家由緒
村上家の先祖からの略歴を藩に届けたもの。村上理右衛門〜村上柳元〜村上財右衛門照寿〜村上財右衛門照尚〜村上財右衛門照乗〜村上財右衛門照員の次が範致であった。
祖、理右衛門は三河挙母梅カ坪出身。その子柳元は田原藩領内赤羽根村で医師を営む。柳元の子、照寿が三宅康雄侯に田原仕えて藩士となった。
● 砲術聞取書
孤松軒範致と号のある西洋流砲術の記録帳である。江川坦庵・佐久間象山の名やゲベール銃の手入れ、銃隊訓練のこと、大砲の情報などが記述され、多岐にわたる。
● 安政乙卯聞見雑録二
「聞見雑録」とあるように、村上範致によるメモ書きの冊子である。村上家には、安政2年(1855)の「安政乙卯聞見雑録二」から「文久元庚申聞見雑録八」までの7冊が現存した。大きさもほぼ一定で、この冊子では、寛永11年(1634)の三代将軍徳川家光の寛永御前仕合から始まり、浦賀へ来航したアメリカ船、ロシアのプチャーチン、ジョン万次郎のことや嘉永7年3月3日の日米和親条約の写しなども記録されている。
● 御家中系譜惣控
田原藩士の履歴簿で、いろは順でまとめられているが、現存するのは、五巻と六巻のみである。村上家は範致の父、村上財右衛門照員から範致の略歴が書かれている。
● 砲弾鋳型
田原藩で製作した砲弾(ガラナード弾等)の鋳型で、瓦器質の焼き物である。
● ゲベール銃
「ゲベール」とはオランダ語で「小銃」のことで、火縄銃と違い、銃剣を装備できるため、幕末期に西洋軍制を導入した幕府や藩は相次いでゲベール銃を購入した。日本では高島秋帆がオランダから輸入したものが始まりとされる。薩摩・長州はゲベール銃よりも命中率・射程距離等、性能の高いミニエー銃やスナイドル銃に使用し、武装がゲベール銃の段階に留まっていた旧幕府側の藩は新政府軍に苦戦することとなった。