企画展 同時開催 崋山の肖像画と重要文化財 孔門十哲像

開催日 2008年10月4日(土)〜11月9日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 田原市博物館:特別展示室/常設展示室

 孔子像は中国唐時代の呉道元(?〜792)の筆と伝えられる孔子像を基にしたものと思われます。画面の右隅には、「三宅友信薫沐拝写」と記されていますが、実際には渡辺崋山が描いたものです。これは、釈奠(孔子を祀る典礼)の時に、この像が藩主をはじめ家中の礼拝する対象となるため、藩主の血筋を引く友信(1798〜1886)の名前を使用したと伝えられています。
 孔子などの儒学の先哲を先聖、先師として祀る祭典は、江戸時代の各地の藩校で行われ、釈奠(せきてん)と釈菜の二種類があります。釈奠は、牛や羊、豚のいけにえなどを供える大典であり、釈菜はその略式です。田原藩では、二月と八月に、肉は供えず、野菜を供物とした釈菜の形式がとられました。
 当日は孔子像を中心に、成章館掛りが司祭となって藩主・家中の士一同が礼拝しました。
 徳行・言語・政事・文学の各分野に通じている門人10人を挙げ、「十哲」と呼んでいます。この孔子像は、十人の孔子門下の十哲像とともに、田原藩成章館において春秋二回の釈奠の際に掲げられ、明治時代以降は、田原城本丸に建つ巴江神社に宝物として保管されていました。孔門十哲像には、文化13年(1816)から嘉永元年(1848)の年紀が記され、現存するものの一部は、この孔子像より早くに完成されています。この孔子像完成以前は、他の者の筆にかかる孔子像か、石碑を墨摺りした拓本のいずれかが存在したと思われ、この作品完成後も拓本の孔子像を使用していたとの古老の伝承もあります。孔門十哲は、孔子が重視したそれぞれの分野に通じている門人を言います。徳行は顔淵・閔損(びんそん)【子騫(しけん)】・冉耕(ぜんこう)【伯牛(はくぎゅう)】・冉雍(ぜんよう)【仲弓(ちゅうきゅう)】、言語は宰予(さいよ)【子我(しが)】・端木(たんぼく)【子貢(しこう)】、政事は冉求(ぜんきゅう)【子有(しゆう)】・季路(きろ)【子由(しゆう)】、文学は言偃(げんえん)【子游(しゆう)】・卜商(ぼくしょう)【子夏(しか)】が挙げられています。
 この孔子像と孔門十哲像は、昭和32年2月9日に渡辺崋山関係資料の一部として重要文化財に追加指定され、昭和53年3月24日には歴史資料に指定替されました。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作 品 名 作者名 年 代   備   考
  西王母図(複製) 渡辺崋山 文化13年(1816) 原本常葉美術館蔵
重美 客坐掌記 渡辺崋山 天保9年(1838) 6月〜
  竹中元真像 渡辺崋山 天保年間 個人蔵
市文 御玄関留帳   文化7年(1810) 田 原藩日記206
稽古所出来候
市文 御祐筆部屋日記   文化7年(1810) 田 原藩日記205
稽古所御普請出来
市文 御玄関留帳   文化10年(1813) 田 原藩日記214
八朔之日成章館
市文 御祐筆部屋日記   文化14年(1817) 田 原藩日記227
成章館聖像江御参詣
市文 御玄関留帳   文化15年(1818) 田 原藩日記230
今日就釈菜ニ付
市文 御用方日記   文政12年(1829) 田 原藩日記264
成章館就釈九時
市文 御用方日記   文政13年(1830) 田 原藩日記266
成章館掛之儀
市文 御用方日記   天保6年(1835) 田 原藩日記273
成章館釈奠ニ付
市文 御用方日記   天保10年(1839) 田 原藩日記281
明日釈菜…聖像
市文 御用人方日記   安政6年(1859) 田 原藩日記381
今日釈菜
  林大学頭述斎肖像
稿本
渡辺崋山 天保年間  
国宝 鷹見泉石像 (複製) 渡辺崋山 天保8年(1837) 原本東京国立博物館蔵
重文 孔門十哲像 卜商(子夏) 依田竹谷  文化13年(1816) 糸井榕斎賛 
重文 孔門十哲像 言偃(子游) 文供 文化13年(1816) 菊池五山賛
重文 孔門十哲像 端木(子貢)  林半水 文化14年(1817) 亀田鵬斎賛
重文 孔門十哲像 宰予(子我) 文水 文化13年(1816) 竹村悔斎賛
重文 孔門十哲像 季路(子由) 山本文承 江戸時代後期   冢田大峯賛
重文 孔子像(複製) 渡辺崋山 天保9年(1838)  
重文 孔門十哲像 顔回(子淵)  喜多武清 文化13年(1816) 佐藤一斎賛
重文 孔門十哲像 閔損(子騫) 浅尾大岳 江戸時代後期    三谷東奥賛
重文 孔門十哲像 冉耕(伯牛) 小田_斎 江戸時代後期 松平定常賛
重文 孔門十哲像 冉雍(仲弓) 椿椿山 嘉永元年(1848) 筒井政憲賛
重文 孔門十哲像 冉求(子有) 後藤光信 文化13年(1816) 大窪詩佛賛
  成章館行事 井上華陵 大正〜昭和時代 個人蔵

常設展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
市文 大学章句 佐藤一斎覆詳 文政8年(1825)  御納戸書籍20
市文 中庸章句   江戸時代後期  御納戸書籍20
市文 論語集註   江戸時代後期  御納戸書籍20
市文 孟子集註   江戸時代後期  御納戸書籍20

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

 崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれました。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な陰影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えました。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいましたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となりました。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしますが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃しました。

椿 椿山 享和元年(1801)〜安政元年(1854)

 椿山は享和元年6月4日、江戸に生まれました。幕府の槍組同心として勤務するかたわら、崋山と同様に絵を金子金陵に学び、金陵の死後、谷文晁にも学びましたが、後に崋山を慕い、師事するようになります。人物山水も描きますが、特に南田風の花鳥画にすぐれ、崋山の画風を発展させ、崋椿画系と呼ばれるひとつの画系を築くことになります。また、蛮社の獄の際には、椿山は崋山救済運動の中心となり、崋山没後は二男の諧(小華)を養育し、花鳥画の技法を指導しています。

喜多武清 安永五年(1776)〜安政3年(1856)

 江戸に生まれ、名は武清、通称は栄之助、字は子慎、号は可庵、別に五清堂・一柳斎・鶴翁という。谷文晁の門人で、江戸八丁堀に住み、渡辺崋山とは二十歳代からの親友である。文化13年(1816)の渡辺崋山、24歳の日記『崋山先生謾録』にも名が記されている。狩野探幽(1602〜1674)を慕い、花鳥画、人物画を得意とし、古画の摸本を多く所蔵していた。文政12年(1829)江戸大火の時、崋山は武清宅に駆けつけ、彼の摸本類を避難させたが、上北八丁堀の桑名侯邸裏で火に囲まれ、九死に一生を得たと曲亭馬琴(1767〜1848)宛の手紙(田原市博物館蔵)に書いている。
 大坂城落城の際の事実談を記録した『おあん物語』『おきく物語』には、それぞれ喜多武清と渡辺崋山が挿絵を提供している。山本北山(1752〜1812)の門人で、江戸で塾を開いていた儒学者朝川善庵(1781〜1849)が天保8年(1837)に跋文を書き、個別に版行され、後に合装された。読本の挿絵や美人画なども描き、古画の鑑定や摸写もすぐれ、作品としては、重要文化財である渡辺崋山関係資料の中に、田原藩校成章館に伝わった『孔門十哲像』の内、『顔回像』(文化13年)がある。この作品には佐藤一斎の賛が添えられている。また、無落款であるが、『山本北山画像』(東京国立博物館蔵)が知られる。鏝絵の名工として評価される入江長八(1815〜1889)が漆喰に絵画技法を取り入れるために学んだ師でもある。挿絵を提供した本に『萍の跡』『優曇華物語』『絵本勲功草』『可庵画叢』『近世奇跡考』などがある。

依田竹谷 寛政2年(1790)〜天保14年(1843)

 江戸に生まれ、谷文晁に学び、名は瑾、字は子長、叔年、別号に凌寒斎・三谷庵・盈科斎。碁・画・書、詩の順によくすると伝えられる。江戸四谷塩町長全寺に葬る。


※孔門十哲像の各作品解説は『崋山会報』に掲載されています。
 バックナンバーを希望される方は田原市博物館または崋山会館までお申し出ください。

・顔淵 第6号
・閔損子騫 第9号
・冉耕伯牛 第10号
・冉雍仲弓 第11号
・宰予子我 第12号
・端木子貢 第13号
・冉求子有 第14号
・卜商子夏 第15号
・季路子由 第16号
・言偃子游 第17号

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