開催日 | : | 2008年8月29日(金)〜9月28日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 田原市博物館:企画展示室1 |
屏風は部屋を仕切り、「風を屏(ふさ)ぐ」ために発達したものです。屏風には、二曲・四曲、六曲などがあり、紙背(おぜ)でつなぎ合わせてあります。現代では使用されなくなってきましたが、大画面の迫力をお楽しみください。
企画展示室1 | ||||
指定 | 作 品 名 | 作者名 | 年 代 | 備 考 |
漁村図屏風(ぎょそんずびょうぶ) | 山本琹谷 | 江戸時代後期〜明治時代 | 四曲一双 | |
四季草花図屏風(しきくさばなずびょうぶ) | 渡辺小華 | 明治17年(1884) | 個人蔵、六曲一双 | |
双雁図屏風(そうがんずびょうぶ) | 野口幽谷 | 明治時代前期 | 個人蔵、二曲一隻 | |
四季花鳥図屏風(しきかちょうずびょうぶ) | 長尾華陽 | 明治34年(1901) | 個人蔵、六曲一隻 | |
幽山孤村図屏風(ゆうざんこそんずびょうぶ) | 松林桂月 | 大正13年(1924) | 六曲一双 | |
花鳥図屏風(かちょうずびょうぶ) | 沈南蘋 | 江戸時代中期 | 四曲一隻 | |
花鳥図屏風(かちょうずびょうぶ) | 松井春泉 | 大正4年(1915) | 六曲一隻 | |
参考 | 収納袋(しゅうのうぶくろ) | |||
参考 | 収納箱(しゅうのうばこ) | |||
参考 | 屏風立(びょうぶたて) | |||
山水図屏風(さんすいずびょうぶ) | 松林桂月 | 大正〜昭和時代前期 | 館蔵名品選第2集80 二曲一隻 |
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扇面貼込六曲屏風(せんめんはりこみろっきょくびょうぶ) | 谷文晁ほか | 江戸時代後期〜明治時代 | 六曲一隻 | |
相説十二屏風(そうせつじゅうにびょうぶ) | 椿椿山 | 文政8年(1825) | 粉本、小川30 |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
山本琹谷[やまもと きんこく]文化8年(1811)生まれ、明治6年(1873)に没す。
石見国(島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図』は好評を得た。弟子として荒木寛友(1850〜1920)・高森砕巌(1847〜1917)等がいる。
渡辺小華[わたなべ しょうか]天保6年(1835)生まれ、明治20年(1887)に没す。
渡辺崋山の二男として江戸麹町(現在の東京都千代田区隼町)田原藩邸に生まれた。崋山が田原池ノ原の地で亡くなった時にはわずかに7歳だった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。嘉永7年(1854)、絵の師椿山が亡くなると、独学で絵を勉強、安政3年(1856)、江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、22歳の小華は渡辺家の家督を相続し、30歳で田原藩の家老職、廃藩後は参事の要職を勤めた。明治維新後、田原藩務が一段落すると、田原・豊橋で画家としての地歩を築き上げた。第1回内国勧業博覧会(明治10年)、第1回内国絵画共進会(同15年)に出品受賞し、明治15年(1882)上京し、中央画壇での地位を確立した。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。
野口幽谷[のぐち ゆうこく]文政10年(1827)生まれ、明治31年(1898)に没す。
江戸神田町に大工の子として生まれた。名は続、通称巳之助、画室を和楽堂と号した。幼時期の天然痘のため、生家の大工の仕事より宮大工神田小柳町の宮大工鉄砲弥八に入門し、製図を学んだ。嘉永3年(1850)3月に、椿椿山に入門した。椿山が没した後、安政年間からは画事に専念し、師の画塾であった琢華堂を盛り立てた。明治5年(1872)湯島の聖堂絵画展覧会に『威振八荒図』を出品し、優等となり、ウィーン万国博覧会にも出品し、画名を知られるようになった。明治10年、第一回内国勧業博覧会で褒状を受け、明治15・17年の内国絵画共進会では審査員に選ばれ、かつ出品。第二回では銀賞を受賞した。明治21年に発足した日本美術協会展で審査員に選ばれ、以降同協会の指導的役割を担った。明治19年に皇居造営のため、杉戸絵を揮毫し、同26年に、帝室技芸員の制度ができると、橋本雅邦(1835〜1908)らと共に任ぜられた。椿山の画風を伝え、清貧を通し、謹直な筆法で、生涯を丁髷で通した。門人に益頭峻南(1851〜1916)・松林桂月(1876〜1963)らがいる。
長尾華陽[ながお かよう]文政7年(1824)生まれ、大正2年(1913)に没す。
浜名郡篠原村馬群に代官藤田権十郎の三男として生まれ、名を正名、字を拙庵、華陽・不休庵と号した。江戸に出て漢学を大橋訥庵に、書を巻菱湖に、画を弘化元年(1844)から椿椿山画塾琢華堂で学ぶ。実兄は代官勤務をしながら、画もし、松湖と号した。江戸から戻り、吉田(現豊橋市)の呉服商奈良屋の長尾家をつぎ、作兵衛を襲名した。廃藩時は士族に列せられ、明治維新後、家業を子に譲り、茶道・画道を主とした生活であった。明治17年(1884)の第二回内国絵画共進会に出品、明治30年頃、神官となり、湊町神明社には20年間奉仕した。
松林桂月[まつばやし けいげつ]明治9年(1876)生まれ、昭和38年(1963)に没す。
山口県萩市に伊藤篤一の次男として生まれた。名は篤。明治27年(1894)に上京、野口幽谷に師事した。同31年に幽谷門下の松林雪貞と結婚し、松林姓を名乗るようになる。明治41年第二回文展から出品し、第五回から第八回まで連続三等賞を受賞する。昭和8年(1933)帝国美術院会員、同19年帝室技芸員となり、同33年文化勲章を受章。近代日本南画界を代表する作家である。
沈南蘋[しん なんぴん]生没年不詳(1682〜?)。
清の画家。浙江省呉興出身で、名は銓、字は衡斎。色彩鮮やかな写実的花鳥画で人気を博した。享保16年(1731)12月から同18年9月まで長崎に滞在し、約2年間の間に日本人の熊斐(ゆうひ、1712〜72)に画を教え、彼から多くの孫弟子が育成され、長崎派と呼ばれる画派が生まれた。
松井春泉[まつい しゅんせん]天保14年(1843)生まれ、大正10年(1921)に没す。
兵庫県明石市に生まれ、医学を修め、のちに軍医となる。明治17年(1884)豊橋で歩兵十八聯隊の病院長になる。退官後、明治21年に豊橋慈善病院初代院長となる。豊橋在住の白井永川(1884〜1942)・烟(1894〜1976)にも影響を与えた。
谷文晁[たに ぶんちょう]宝暦13年(1763)生まれ、天保11年(1840)に没す。
字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人谷麓谷(1729〜1809)の子として江戸に生まれ、中山高陽(1717〜1780)の門人渡辺玄対(1749〜1822)に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身で寛政の改革を行う老中松平定信(1758〜1829)付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、『石山寺縁起絵巻』の補作、また定信の御用絵師を勤めた。
明清画を中心に中国・日本・西洋などのあらゆる画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p(1796〜1843)、立原杏所(1785〜1840)がいる。
福田半香[ふくだ はんこう]文化元年(1804)生まれ、元治元年(1864)に没す。
名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見附(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。
椿椿山[つばき ちんざん]享和元年(1801)生まれ、嘉永7年(1854)に没す。
名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵などと号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(1827〜98)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。
喜多川相説[きたがわ そうせつ]生没年不詳。
江戸時代前期の画家。俵屋宗達と同じ「伊年」印を用い、宗達の後継者と伝えられる。号は宗説とも書く。代表作に『四季草花図屏風』(根津美術館蔵)。
四季草花図屏風 渡辺小華
落款に「時甲申夏日也」とあり、明治17年(1884)の作であるが、全12図を見てみると、「小華」の字体は、2種類に区分される。印は「有声」、「無声」(明治14年に篆刻)と「皆知己」ばかりで、同一年に制作された可能性が高い。同時に作成し、落款の使用字体を使い分けていることがわかる作品の例である。
山水図屏風 松林桂月
賛に「粉抹丹塗三十年、此心秘欲僦前晩、興来枉把一枝筆、呑吐胸中立塑煙 桂月山人并題」とある。松林桂月は明治27年(1894)、19歳で、野口幽谷の画塾和楽に入門した。「塗三十年」を、絵を描き始めてから30年と考えれば、大正時代の終わり頃か。
相説十二屏風
「乙酉春二月模成 相説十二屏風」とあり、「琢華堂記」・「椿山摸印」が捺される。初期琳派作家の喜多川相説作品を摸写している。