渡辺崋山と田原藩主

開催日 2008年8月29日(金)〜9月28日(日)
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
会場 田原市博物館:特別展示室

崋山は田原藩三宅家に仕えた田原藩士です。田原藩主10代の康明・11代の康直・12代の康保と崋山の蘭学のパートナーでもあった三宅友信らの資料を中心に展示します。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作 品 名 作者名 年 代   備   考
  三宅友信侯宛答問(みやけとものぶこうあてとうもん) 渡辺崋山 天保9年(1838)  
市文 千字文(せんじもん) 三宅康保 江戸時代後期 御納戸406
  七字書(しちじしょ) 三宅康明 江戸時代  
  三宅家家紋入御膳(みやけけかもんいりごぜん)   江戸時代  
  十字書(じゅうじしょ) 三宅康明 江戸時代 個人蔵
  呉竹之図(はちくのず) 渡辺崋山 天保年間  
  韓信忍耐之図(かんしんにんたいのず) 渡辺崋山 天保8年(1837)  
  姫島馬図(ひめしまうまず) 三宅康明 文政年間  
  ヒポクラテス像(ぞう) 渡辺小華三宅友信 安 政6年(1859)  
  花鳥図(かちょうず) 三宅友信 文政9年(1826)  
  三宅家家紋入料紙箱(みやけけかもんいりりょうしばこ)   江戸時代  
  竹之図(たけのず) 三宅友信 文政10年(1827)  
  三宅康直宛書簡(みやけやすなおあてしょかん) 渡辺崋山 天保8年(1837)  
  墨竹之図(ぼくちくのず) 渡辺崋山 文政年間  
  松風有清音(しょうふうゆうせいおん) 三宅康直 江戸時代後期〜明治時代  
  三宅家家紋入硯箱(みやけけかもんいりすずりばこ)   江戸時代  
  七言絶句(しちごんぜっく) 三宅康直 天保2年(1831)  
  ゑびす國の船志るし(くにふねし)   昭和13年(1938)復刻 渡辺崋山原画は天保8年(1837)
  和無寡(わむか) 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
  七言絶句(しちごんぜっく) 三宅康直 明治年間 個人蔵
  七言絶句(しちごんぜっく) 三宅康直 明治24年(1891) 個人蔵
  五字書(ごじしょ) 三宅康保 江戸時代後期〜明治時代  
  三宅家家紋入柄杓(みやけけかもんいりひしゃく)   江戸時代  
  五言詩(ごごんし) 三宅康保 嘉永2年(1849) 個人蔵

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山[わたなべ かざん]寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

 三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静(さだやす)、のち登(のぼり)と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。8歳より藩の世子御伽役(おとぎやく)を勤め、藩士としては天保3年(1832)40歳で年寄役となる。13歳で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋(なんぴん)画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山(つばきちんざん)、福田半香(ふくだはんこう)、平井顕斎(ひらいけんさい)などがいる。蘭学にも精通したが、天保10年(1839)47歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入(あがりやい)りとなり、翌年1月より田原に蟄居となった。門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保12年、49歳で自刃した。

  藩主氏名 生没年 藩主在位
十 代 三宅備前守康明 1800〜1827 1823〜1827
十一代 三宅土佐守康直 1811〜1893 1827〜1850
十二代 三宅備後守康保 1831〜1895 1850〜1869

三宅康明[みやけ やすてる]

 八代藩主康友の三男で、兄は九代藩主康和。江戸にて28歳で亡くなった。

三宅康直[みやけ やすなお]

 姫路藩主酒井雅楽頭忠実(さかいうたのかみただみつ)の六男で、幼名を稲若と言う。文政10年に三宅家へ養子に入り、三宅家11代藩主となった。八代藩主康友の側室が産んだ友信がいたが、田原藩では病弱を理由に跡継ぎとして不適当とされ、稲若を養子とした。嘉永3年(1850)友信の長男であった康保を養子とし、家督を譲り、隠居した。

三宅康保[みやけ やすよし]

 八代藩主康友の側室が産んだ友信の長男。天保3年6月に、その年3月に産まれたばかりの康直の娘於C(おけい)との婚約の願書が幕府に提出され、2日後に認可された。一時、康直夫人の願により、跡継ぎを外される恐れもあったが、用人真木定前の命を賭した願い入れにより、その難を免れた。明治2年(1869)の版籍奉還後には、田原藩知事に任命された。崋山が書の手本として「忠孝」を書いている。

三宅友信[みやけ とものぶ]

 三宅友信は田原藩第8代藩主康友(1764〜1809)の子として生まれ、9代康和・10代康明は異母兄にあたる。兄康明が文政10年(1827)に亡くなると、友信が藩主となるはずだったが、藩財政が厳しく、病弱を理由に跡継ぎとして不適当とされ、姫路藩から持参金付きの稲若(のちの康直)が養子として迎えられる。翌年、友信は藩主の座に就いていないものの家督を譲って引退した隠居として扱われ、渡辺崋山が友信の側仕えを兼ねるようになる。友信は崋山の勧めにより蘭学研究をするようになり、友信が隠居していた巣鴨の田原藩下屋敷には蘭書が山のように積まれていた。安政3年(1856)には語学力を高く評価され、蕃所調所へ推薦され、翌年に入所している。維新後は田原に居住していたが、晩年は東京巣鴨に移り、明治19年8月8日逝去、東京都豊島区雑司ケ谷の本浄寺に葬られた。昭和10年(1935)には従四位を贈られた。


作品の見どころ

三宅家家紋について

 三宅家の家紋は、仏教法具の輪宝を図案化したもので、江戸時代の大名では、三宅氏の他に加納氏が替紋として用いていた。輪の中央と外輪との間を放射状に支える輻(や)と、剣の数により区別され、三宅家の輪宝は、八剣である。三宅家の祖は、『太平記』にも登場する鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した南朝の忠臣、児島高徳(生没年不詳)とされ、料紙箱・硯箱には、三宅家の輪宝と児島の「児」の紋が施される。

千字文 三宅康保

 中国六朝の梁(502〜557)の時代に作られた韻文で、四字一句、250句千字で成り立つ。学問の学び始めの教科書、または習字の手本として広く知れわたっている。

姫島馬図 三宅康明

 田原藩では、異国船が近接した際、海岸へ出張する人数を決めていた。主だった者は騎馬にて出張するが、馬は三匹しか手持ちがないため、不足分は町馬を借用することとしている。田原城内には、馬小屋はあるが、城中に十匹以上の馬が飼育された記録はない。田原藩では、領内の姫島で、馬の放牧を行っていた記録がある。正徳元年(1711)に7匹と享保9年(1724)に一度廃止し、同13年に姫島牧場を試みたが、失敗に終わっている。

ゑびす国の船じるし

 ロシアとイギリスの船に付けられる旗を、天保8年(1837)に版木で印刷し、浜方代官から藩内沿岸の村へ分け与えたものである。重要文化財『渡辺家年譜』に、「亜西亜欧羅巴の船形を画き、又和蘭英咭魯西亜等の軍艦商船の帆幟を図して、海辺の役所に張置き…」とあり、当時国交のあったオランダ船の図もあったようであるが、その図は無い。昭和時代に復刻したもの。

ヒポクラテス像 渡辺小華・三宅友信賛

 崋山作品の模写である。崋山の図には「天保二年六月 以洋本寫之登」とある。田原蟄居中の日記『守困日歴』天保11年10月の18日に「為完晁作加羅哲欺」、19日には「一、作加羅哲作斯」と記され、年代を遡及している。完晁とは吉田藩の医師浅井完晁のことである。崋山には画稿も存在するが、この小華作品は線描が強く、崋山・椿山と続く肖像画技法は、残念ながら小華には伝わらなかったようである。図上のヒポクラテスを称える賛文は、崋山の蘭学研究のパートナーであった三宅友信(1798〜1886)による。

花鳥図 三宅友信

 毅斎と款している。「丙戌」は文政9年にあたり、友信22歳であった。文政2年から6年9月頃まで、田原城の藤田郭に居住し、6年10月に田原藩江戸屋敷に帰り、19歳頃から崋山の指導により、蘭学研究を始めたとされ、画・書も崋山の薫陶を得たものと考えられる。この作品を描いた翌年、文政10年7月10日に藩主の兄、康明が28歳で没したが、藩では、姫路から康直を養子に迎え、友信を隠居格とした。

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