開催日 | : | 2008年7月11日(金)〜9月28日(日) |
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開館時間 | : | 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで) |
会場 | : | 田原市博物館:企画展示室2 |
企画展示室2 | ||
遺 跡 名 | 資 料 名 | 時 代 |
青津前田遺跡 | 縄文土器 | 縄文時代前期 |
伊川津貝塚 | 叉状研歯の頭骨(複製) | 縄文時代晩期 |
有髯土偶(複製) | ||
巨大石棒 | ||
吉胡貝塚 | 19号人骨(S26年調査) | 縄文時代晩期 |
椛 銅鐸 | 1号銅鐸 | 弥生時代後期 |
考古学者佐原真の色紙 | 昭和58年 | |
大本 貝塚 | 線刻画「魚類?」の高坏 | 弥生時代後期 |
小森 遺跡 | 石包丁 | 弥生時代後期 |
大本 貝塚 | 銅 鏃 | 弥生時代後期 |
加治出土 | 銅 鏃 | 弥生時代後期 |
畠 貝塚 | 製塩土器 | 古墳時代初 |
青山貝塚 | 製塩土器 | 古墳時代 |
土師器 高坏 | ||
土師器 坏 | ||
土師器 台付甕 | ||
土師器 甕 | ||
土師器 壺 | ||
須恵器 坏蓋 | ||
土製蓋 | ||
土 錘 | ||
鉄製鎌 | ||
骨角器 | ||
鹿角製刀子柄 | ||
山崎遺跡 | 木製容器 | 古墳時代後期〜 奈良時代 |
木製取手付容器 | ||
木製舞羽 | ||
栄巌1号墳 | 鉄製辻金具 | 古墳時代後期 |
鉄製馬形 | ||
白谷古墳 | 須恵器 高坏 | 古墳時代後期 |
須恵器 坏身 | ||
須恵器 坏蓋 | ||
須恵器 瓦泉(はそう) | ||
須恵器 長頸坩 | ||
須恵器 短頸坩 | ||
遺 跡 名 | 資 料 名 | 時 代 |
神明社古墳 | 馬 具 | 古墳時代後期 |
銀装大刀 | ||
大刀(鍔・つば) | ||
鉄 鏃 | ||
鉄製 鋏(はさみ) | ||
鉄製 鑿(のみ) | ||
刀子 | ||
伊良湖東大寺瓦窯跡 | 軒丸瓦 | 鎌倉時代初 |
軒平瓦 | ||
平瓦「東」刻印 | ||
丸瓦「大仏殿」刻印 | ||
石田茂作図案のれん | 昭和41年 | |
大アラコ古窯跡 | 藤原顕長銘入壺 | 平安時代末 |
「上」刻印甕片 | ||
紅葉文甕片 | ||
坪沢10号窯 | 蓮弁文壺 | 鎌倉時代初 |
小型壺 | ||
提子(ひさげ) | ||
蓋付注口鉢 | ||
片口鉢 | ||
惣作古窯 | ざれ歌の碗 | 鎌倉時代初 |
皿焼13号窯 | 陶製宝塔 | 平安時代末 |
陶製五輪塔 | ||
子持器台 | ||
片口碗 | ||
陶 錘 | ||
鴫森3号窯 | 小型壺 | 鎌倉時代 |
刻画文壺片 | 鎌倉時代 | |
田原城藤田曲輪跡 | 元様式染付瓶片 | 戦国時代 |
貿易陶磁破片(青花) | ||
貿易陶磁破片(青磁) | ||
貿易陶磁破片(白磁) |
「渥美半島 考古−発見の歴史」では、これまで渥美半島において発見された遺跡、遺物で、学会で注目を集めたもの、重要なもの、地域で注目されたものを集めました。大まかに渥美半島の地域性の特徴を現す遺跡として
@縄文貝塚 A渥美窯 B銅鐸の出土 C製塩遺跡 に集約されるでしょう。
時代的なエポックとして次が挙げられます。
明治から戦前・・京都大学の清野謙次による縄文貝塚の発掘 『渥美郡史』の編さん
戦後・・昭和26年の吉胡貝塚の国営発掘、野田史談会による地域の発掘調査
昭和30年代後半〜・・豊川用水の通水による渥美窯跡群の調査 黒い壺の発見 『田原町史』の発刊 大アラコ古窯跡、伊良湖東大寺瓦窯跡の国指定
昭和50年後半以降・・製塩遺跡の調査 伊川津貝塚の調査(国立歴史民俗博物館との合同調査)
平成時代〜・・研究の進展、再整理による評価(栄巌古墳、神明社古墳、田原城藤田曲輪) 宮西遺跡の調査 『渥美町史』の発刊
このほかに 椛銅鐸、山崎遺跡、鴫森古窯、歴史観を変えるような発見から、地域の歴史解明に重要な発見があります。遺跡の宝庫渥美半島では、今後も発掘調査による発見、資料整理による新しい事実の判明が期待されます。
水田から姿を現した縄文遺跡 青津前田遺跡(縄文時代前期)
神戸町の河川改修で偶然発見された縄文時代前期の遺跡です。遺物は爪と縄文、そして細い竹管を押し当てた文様の極端に薄い土器、磨製石斧、石錘、石鏃、石皿、磨石、シカ・イノシシの骨が見つかっています。また、一部の土器には赤い粘土や白い粘土で色をつけたものもあります。磨製石斧は蛇紋岩製で、また他の石器に使われた石材も晩期の吉胡貝塚と明らかに異なっています。縄文海進がおさまりつつある時期の遺跡で、標高4m低地に位置する立地は注目されます。
日本人のルーツ探しのフィールド 吉胡貝塚(よしごかいづか)(縄文時代後〜晩期)
吉胡貝塚は、大正時代から今日に至るまでの発掘により、358体の縄文時代人骨を出土したことで有名な貝塚です。平成13年度から、史跡整備に伴う調査を実施しています。その結果、地点貝塚4箇所をふくむ貝塚の面積は4500uにも及ぶことがわかりました。吉胡貝塚は、当時の埋葬方法、副葬品等の埋葬儀礼を知るうえでも重要な遺跡ですが、近年の調査からすべてが縄文時代の人骨ではなく、一部弥生時代前期のものが含まれることが確認されました。今後発掘調査の整理が進む中で、縄文から弥生にいたる時代の変化を知るうえでも重要な遺跡と評価されることでしょう。
日本の人種論の争点 伊川津貝塚(縄文時代後〜晩期)
伊川津町神明社境内を中心に、東西150m、南北50mもの規模を持つ渥美半島で最も大きい貝塚です。吉胡貝塚と同様に多くの縄文人骨が出土しています。大正11年以降の発掘で、191体の埋葬人骨が発掘されました。明治時代に日本人の人種論を巻き起こした有髯土偶、叉状研歯が施された人骨が出土しました。土偶に描かれている「ヒゲ」状の表現が、アイヌ民族の「ヒゲ」のそれを想定することから、日本人アイヌ説の有力な証拠となったものです。今思えば有効な根拠となるものではありませんが当時はそのようなことが盛んに議論されていました。
謎の弥生大集落 大本貝塚(弥生時代中・後期)
伊川津貝塚の南方の台地上に所在する、貝塚を含む弥生時代の遺跡です。ちょうど渥美半島の縄文時代の貝塚群の時期と交代するような状況で、遺跡が始まります。台地上一帯に小規模な貝塚群が21か所も確認されています。調査は昭和37年に行われています。弥生人骨が1体発見されています。さらに南に下った谷では銅鐸が多く見つかっていますので、この遺跡との関係が想像されます。調査も小規模で内容が不明な謎の遺跡と言えますが、渥美半島の随一の弥生集落であるのは間違いないでしょう。展示の品は、弥生時代後期の高坏の内側に「魚類?」が描かれています。その線から金属製の鋭い刃先で描いたと思われます。資料の整理中、偶然に発見された渥美半島初の出土品です。
壊されて埋められた弥生時代の宝器 椛(なぐさ)1号銅鐸(弥生時代後期)
昭和58年、農業基盤整備事業によってバラバラに壊れた状態の2個体の銅鐸が発見されました。渥美半島では西神戸町の堀山田、古い記録では、村松町、神戸町でも発見された銅鐸の発見が集中した場所です。ともに渦巻状の飾耳が特徴の近畿式銅鐸と呼ばれるものです。この銅鐸の特徴はバラバラに出土したことですが、工事中に壊れたのではなく、意図的にバラバラにして埋めた、破砕銅鐸と考えられています。つまり、銅鐸を壊すことを前提にした儀礼があったことを表します。当時の最高の技術で作られた宝器を壊すことによって得られたことはなんだったでしょう。
古墳時代の海浜集落 青山貝塚(古墳時代)
伊川津貝塚の北に位置し、三河湾に突き出した砂礫堆上に在します。昭和22〜28年に3度の調査が行われ、昭和41年には日本考古学協会の製塩部会が調査を行っています。貝塚3か所、住居跡2棟、製塩を行った炉の跡7基が見つかっています。製塩土器以外に、須恵器、土師器も豊富に出土し、5世紀後半から6世紀のにっ集落の最盛期を迎えたことがわかっています。近接には貝ノ浜貝塚が所在し、弥生時代終りから古墳時代を通じて、渥美半島における海浜集落でも重要な位置を占めていたと思われます。
古墳時代のくらしをしのぶ大量の木器が出土 山崎(やまさき)遺跡(古墳時代〜奈良時代)
芦ヶ池のサンテパルク付近の山の斜面から湖底にかけて所在する遺跡です。平成元年、3年に発掘調査が行われました。特に注目されるのは湖底部分の調査で、古代以降の築堤により水没した古墳時代の遺跡が出現したのです。古墳時代から奈良時代の須恵器、土師器をはじめ木製品が大量に出土しました。木製品には農耕具、祭祀具、紡織具、容器をはじめ当時の生活を生々しく伝えるもので、海に依存していたと考えられていた渥美半島の古墳時代のイメージを大きく変えるものばかりでした。出土の状況から、水辺の祭祀も行われていたようです。
渥美半島で最も古い製塩土器 畠貝塚(古墳時代初)
福江町の旧渥美町役場周辺、福江湾を臨む段丘上に位置する貝塚です。羽根貝塚(弥生時代)と近接しています。貝塚の様子は不明ですが、工事中に古墳時代はじめの土師器とともに製塩土器の破片が見つかりました。渥美半島の製塩の歴史を100年ほど一気に引き上げた発見となりました。
九州地方との関連を見出す 栄厳(えいがん)1号墳(古墳時代後期)
田原市立衣笠小学校の敷地内に所在します。かつて古墳3基が存在し「鎌田の三つ塚」と呼ばれていました。明治25年に調査が行われ、玉、辻金具等が見つかっています。昭和57年度に行われた調査で、須恵器、土師器 刀子、鉄鎌が見つかっています。6世紀末に作られたと考えられ、20m程度の円墳と考えられ、最近の研究では北部九州地方の特徴を備えた石室の構造が指摘されています。の古墳で注目されるのは鉄製馬形で、その特徴ある石室構造とともに渥美半島の古墳の中でも異彩を放っています。
東海地方でも珍しい銀装大刀 神明社古墳(古墳時代後期)
田原町、神明社の境内に所在します。約17mの円墳で畿内系横穴式石室を持ちます。6世紀後半に作られたと考えられます。昭和44年、田原町史の編さんにともない石室の調査と測量が行われました。調査では須恵器、馬具、大刀、短刀、鉄鏃、鋏、鑿、耳環が見つかっています。近年の資料調査により銀装の大刀が確認されました。特に、銀装の頭椎大刀は全国的にも類例が少ない資料です。渥美半島でもっとも古い横穴石室を持つ古墳であり、豊富な副葬品とともに、渥美半島の古墳時代を象徴する古墳です。
白谷(しろや)古墳(古墳時代後期)
白谷町に所在します。蔵王山の北側の山麓に位置し、『渥美郡史』に出土遺物の記録があります。大正時代の記録では、土師器、須恵器(高坏、坩、蓋など)が見られます。残念ながら古墳の構造、規模は不明です。近年まで石室に使用されていたと考えられる岩が現地に残っていたといいますが、現在は存在しません。6世紀末につくられたと考えられます。
東大寺の伽藍を飾った瓦 国史跡 伊東大寺(いらごとうだいじ)瓦窯跡(鎌倉時代初)
伊良湖町の豊川用水初立ダムの堤防に残されています。この窯は東大寺大仏殿の鎌倉再興にあたり、重源の勧進により、献進瓦を焼いたとされています。古くから東大寺瓦の出土が知られていたものの、渥美半島でなぜ見つかるのか不思議がられていました。昭和41年に調査され3基の窯が発見され、「東大寺大仏殿瓦」「大仏殿」「東」と刻された軒丸瓦・軒平瓦、・丸瓦・平瓦、瓦経・瓦塔の特殊な製品、山茶碗、小皿、甕、壷、鉢が出土しました。渥美窯の成立及び経営が、宗教的な立場な人々が関わっていることを証する重要な遺跡です。この重要性により昭和42年に国の指定史跡となりました。
都の風流と渥美窯のセンスとの融合 惣作古窯(そうさくこよう)跡(平安時代末〜鎌倉時代)
大草町に所在する平安時代末から鎌倉時代に至る、田原市を代表する古窯跡群です。現在確認されているのは21基ですが、さらに多く存在していたと思われます。過去に10基の調査が行なわれ渥美古窯研究の基礎的な資料を提供しました。この調査は地元の方が多く参加された、地域に根ざした調査でした。この窯跡で特筆すべきことは「ざれ歌と唐草文」が刻まれた碗が見つかったことです。これは、都で流行したざれ歌と大和絵的な唐草文を焼き物に表現した優れたものといえましょう。
まぼろしの黒い壷 坪沢10号窯(鎌倉時代初)
坪沢10号窯は、加治町に所在する、渥美半島最大の窯跡群、坪沢古窯のうちのひとつです。昭和39〜44年にかけて、計8基の窯が発掘されました。昭和30年代、焼き物の研究家の間で黒く、蓮弁文・袈裟襷文と呼ばれる文様、産地が不明であるという謎めいた焼き物を「黒い壺」と呼んでいました。『渥美郡史』に記載があった加治町の坪沢古窯の出土品に、同様の物があることがわかりました。昭和38年、加治農協の天井裏にしまってあった20数個の壺の中から「黒い壺」を発見したのでした。生産地が不明であった一連の「黒い壺」の産地が渥美半島だったと証明されたのと同時に、まぼろしの窯が、世に出た記念的な資料がこの坪沢10号窯の遺物でした。
祈りの道具 皿焼13号窯(平安時代末)
皿焼古窯は渥美総合運動公園地内に所在する、旧渥美町最大規模の窯跡群です。計13基発掘され、12号窯は見学施設と共に保存されています。13号窯は他の窯と異なり、五輪塔、宝塔をはじめとする宗教的なものが焼かれているのが特徴です。湖西窯で焼かれた五輪塔(重要文化財)は有名ですが、渥美窯の五輪塔は初めての発見でした。渥美窯の特殊性を示す窯と言えます。
渥美窯全盛期の甕・壺・鉢生産 鴫森古窯(しぎのもりこよう)跡(平安時代末〜鎌倉時代初)
田原町相川町に所在します。埋立処分場の建設に伴い7基の窯が発見され、発掘調査が行われました。この発掘では窯の床を掘りくぼめて甕を固定する方法が確認され、渥美窯の甕・壺類の大がかりな生産体制が明らかになりました。この窯で発見された絵画文が記された壺は、渥美窯の特徴といえるもので、その生産時期が意外に新しい時代まで下がることも確認されました。
三河湾・伊勢湾の覇者、戸田氏が愛蔵した宝物 田原城藤田曲輪(たはらじょうふじたくるわ)跡(戦国時代)
田原城は15世紀末(1480年頃)に戸田宗光が築城し、以来、戸田氏5代が三河湾を中心に隆盛を誇りましたが、天文17年(1547)今川義元に攻撃を受け落城しました。その後、城主の交代を経て戦国時代から幕末まで存続した稀有な城郭です。田原城で注目するのは田原城落城の際の戦火によってバラバラに壊された陶磁器類です。瀬戸美濃産の碗・皿・壺、常滑産の甕をはじめ、中国製の碗皿類が多量に見つかっています。中国製には元様式の青花の花瓶(元時代の染付)の破片が含まれ、全国的にも出土例がない、戦国武将のステイタスシンボルであった高級品です。この花瓶を持つことのできた戸田氏の勢力がわかります。
●以下の施設でも貴重な考古資料を展示しています。ぜひあわせてご覧下さい。
・赤羽根文化会館 文化ホール展示室(無料・0531-45-3939)・・渥美半島最古の石器と渥美窯資料
・渥美郷土資料館(無料・0531-33-1127)・・伊川津・保美貝塚 椛2号銅鐸 製塩土器資料
・吉胡貝塚資料館(有料・0531-22-8060)・・国史跡吉胡貝塚資料 まが玉づくり、火おこしなどの体験