平成20年夏の企画展 田原市博物館開館15周年 渡辺崋山と関係画家 田原市博物館館蔵名品選

開催日 2008年7月11日(金)〜8月24日(日)
(前期)7月11日(金)〜8月3日(日)まで/(後期)8月5日(火)〜8月24日(日)まで
開館時間 午前9時〜午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日 7月22日(火)・28日(月)・8月4日(月)・11日(月)・18日(月)
観覧料 一般300円(240円) 小・中学生は無料 ※()内は20名以上の団体割引料金です。
会場 田原市博物館

崋山作品と関係画家の作品収集は、田原市博物館の重要な責務です。今回、新たに加わった作品も展示いたします。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  寓画堂随筆(縮図)(ぐうがどうずいひつ) 渡辺崋山 文化年間 館蔵名品選第2集1
  脱壁(縮図)(だっぺき) 渡辺崋山 文政7年(1824) 館蔵名品選第1集7
重美 客坐掌記(きゃくざしょうき) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  客坐掌記(縮図)(きゃくざしょうき) 渡辺崋山 天保4年(1833) 館蔵名品選第2集16
  游鯉(画道名巻)(ゆうり がどうめいかん) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  曳牛(画道名巻)(えいぎゅう がどうめいかん) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  杜若蜻蛉(画道名巻)(とじゃくせいれい がどうめいかん) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  野菊・女郎花に双蜂扇面図(のぎく・おみなえしそうほうせんめんず) 岡本秋暉 江戸時代後期 初公開
  関帝像(かんていぞう) 渡辺崋山 文化11年(1814)  
  夏山欲雨図(かさんよくうず) 渡辺崋山 文政3年(1820) 館蔵名品選第1集4
  鍾馗図(しょうきず) 渡辺崋山 文政年間  
  卓文君図(たくぶんくんず) 渡辺崋山 天保5年(1834) 館蔵名品選第1集22
  漁夫図(ぎょふず) 渡辺崋山 天保年間 個人蔵
  痩馬図(やせうまず) 渡辺崋山 天保9年(1838) 個人蔵
  秋景游賞図(しゅうけいゆうしょうず) 渡辺崋山 江戸時代後期 井上竹逸旧蔵
  豊干禅師騎虎図(ぶかんぜんじきこず) 渡辺崋山 天保年間  
  ジャンヌダーク像 渡辺崋山 天保年間  
市文 千山萬水図稿(せんざんばんすいずこう) 渡辺崋山 天保年間 館蔵名品選第1集32
  西王母図(せいおうぼず) 谷文晁 文化9年(1812) 館蔵名品選第2集47
重文 渡辺崋山像(複製)(わたなべかざんぞう) 椿椿山 嘉永6年(1853)  
市文 福田半香肖像画稿(複製)(ふくだはんこうしょうぞうがこう) 椿椿山 嘉永4年(1851)  
  松竹梅山水図(しょうちくばいさんすいず) 福田半香 嘉永2年(1849)  
  西園雅集図(せいえんがしゅうず) 山本_谷 文久元年(1861) 個人蔵
  秋景山水図(しゅうけいさんすいず) 井上竹逸 元治元年(1864) 館蔵名品選第1集87
  野菊図(のぎくず) 立原春沙 江戸時代後期 館蔵名品選第1集91
  紅梅鴛鴦図(こうばいえんおうず) 小田_川 江戸時代後期 初公開
  人物図(じんぶつず) 渡辺如山 天保年間 初公開
  楊柳海棠双雀之図(ようりゅうかいどうそうじゃくのず) 椿華谷 嘉永元年(1848) 初公開

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

↑ページTOPへ

作者の略歴

渡辺崋山 [わたなべ かざん] 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

 三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静(さだやす)、のち登(のぼり)と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。8歳より藩の世子御伽役(おとぎやく)を勤め、藩士としては天保3年(1832)40歳で年寄役となる。13歳で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋(なんぴん)画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山(つばきちんざん)、福田半香(ふくだはんこう)、平井顕斎(ひらいけんさい)などがいる。蘭学にも精通したが、天保10年(1839)47歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入(あがりやい)りとなり、翌年1月より田原に蟄居となった。門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保12年、49歳で自刃した。

谷 文晁 [たに ぶんちょう] 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)

 字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人谷麓谷(1729〜1809)の子として江戸に生まれ、中山高陽(1717〜1780)の門人渡辺玄対(1749〜1822)に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身で寛政の改革を行う老中松平定信(1758〜1829)付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、『石山寺縁起絵巻」の補作、また定信の御用絵師を勤めた。
 明清画を中心に中国・日本・西洋などのあらゆる画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄厓(1796〜1843)、立原杏所がいる。

椿 椿山 [つばき ちんざん] 享和元年(1801)〜安政元年(1854)

 椿山は享和元年6月4日、江戸に生まれた。幕府の槍組同心として勤務するかたわら、崋山と同様に絵を金子金陵に学び、金陵の死後、谷文晁にも学びましたが、後に崋山を慕い、師事するようになる。人物山水も描くが、特に南田風の花鳥画にすぐれ、崋山の画風を発展させ、崋椿画系と呼ばれるひとつの画系を築くことになります。また、蛮社の獄の際には、椿山は崋山救済運動の中心となり、崋山没後は二男の諧(小華)を養育し、花鳥画の技法を指導している。

福田半香 [ふくだ はんこう] 文化元年(1804)〜元治元年(1864)

 名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見附(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。

山本琹谷 [やまもと きんこく] 文化8年(1811)〜元治6年(1873)

 石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。

立原春沙 [たちはら しゅんさ] 文政元年(1818)〜安政5年(1858)

 立原杏所(1875〜1840)の長女として江戸小石川の水戸藩邸内で生まれた。名は春子、字を沙々。幼時から父に絵を学び、のち14、5歳で崋山に師事したと伝えられる。天保14年から17年間、金沢藩12代藩主前田斉泰(1811〜84)の夫人溶姫に仕えた。生涯独身を通した。月琴にも長じ、精密で写実的な絵を描いた。崋山と父杏所の影響を受け、気品を備えた作品が見受けられる。

小田莆川 [おだ ほせん] 文化2年(1805)〜弘化2年(1846)

 旗本戸川氏の家臣で江戸牛込若宮新坂に住み、名は重暉、字は士顕、拙修亭とも号し、通称を清右衛門と称した。画を崋山に学び、椿山と同様に、山水花鳥を得意としたが、現存作品が少ない。崋山が蛮社の獄で捕われると、椿椿山(1801〜54)と共に救済活動に奔走した。書簡等の記録から山本琹谷(1811〜73)と共に、椿山が信頼を置いた友人のひとりである。弘化3年7月5日、旅先の武蔵国熊谷宿で病没した。
 近年、莆川に関わる情報が2件あった。田原市博物館に手控画冊10冊が小川義仁氏からまとめて寄贈された(田原市博物館年報第8号に一部紹介)。また、愛知県内半田乙川地区にある山車に莆川原画と思われる水引幕があることがわかった。

渡辺如山 [わたなべ じょざん] 文化13年(1816)〜天保8年(1837)

 崋山の末弟として江戸麹町に生まれた。名は定固(さだもと)、字は季保、通称は五郎、如山または華亭と号す。兄崋山の期待に応え、学問も書画もすぐれ、将来を期待されたが、22歳で早世した。文政12年(1829)、14歳から椿椿山の画塾琢華堂に入門し、花鳥画には崋山・椿山二人からの影響が見られる。天保7年刊行の『江戸現在広益諸家人名録』には、崋山と並んで掲載され、画人として名を成していたことが窺われる。文政4年(1821)崋山に十九歳の時のスケッチ帳『辛巳画稿』には6歳の幼な顔の「五郎像」として有名である。

椿華谷 [つばき かこく] 文政8年(1825)〜嘉永3年(1850)

 江戸小石川で椿山の長男として生まれ、名を恒吉といった。椿山の『琢華堂日録』によれば、椿山が崋山の弟如山を弟子にしていたように、天保4年10月11日に幼くして華谷は崋山に入門した。華谷という号は15歳で与えられたと言われている。如山が崋山と共に田原藩主三宅康直(1811〜1893)の日光祭礼奉行に随行したりして一人立ちすると、華谷は椿山の画技を得るべき人物であった。崋山の友人で番町の学者椿(つばき)蓼(りょう)村(そん)の娘を妻に迎え、一女をもうけた。残念ながら、椿山に先立ち、26歳で亡くなった。かつては、「椿恒」「椿章」と称され、無い物ねだりの筆頭に上げられた時代もあった。

↑ページTOPへ

作品紹介

渡辺崋山 客坐掌記 天保3年(1832)

 「勧進能舞台図 二月二十六日」と書かれた勧進能の舞台を囲む群集をスケッチした場面から始まる十二図がある。能の「安宅」「小鍛冶」「野守」「山姥」と狂言の「入間川」の一場面を描く。図中に「催馬楽むしろ田、中川侯羽田野蘆谷名重輝」とあり、琴を奏でる人物の姿が描かれる。また、洋書挿絵の写しと考えられる西洋人物の肖像もあり、「エジュアルド ブリグト EDUARD BRIGHT」とある。

渡辺崋山 関帝像 文化9年(1812)

 『三国志』で有名な関羽を描いたもので、彩色の留書に「金、コン、ロク、白グン」「雲筋書細クコマカニ」と注記される。模写にありがちなぎこちない線描と異なり、ひとつの作品として認められる、完成した力強いものとなっている。図中に「壬申秋日華山寫 文一先生之圖」とある。「文一先生」とは谷文晁の養嫡子谷文一(1777〜1818)のことで、将来を期待されたが、31歳で早世した。滝澤琴嶺が描いた同構図の関羽図(父の馬琴が賛)もあった。

渡辺崋山 漁父 天保年間 個人蔵

 賛詩に「数口妻児托一竿 夫須襏襫老沙灘 笑他世上軽肥客 更以犧牛得飽安」とある。「数口の妻児を一竿に托し、夫須(蓑のこと)襏襫(太織の雨衣)沙灘に老ゆ。さもあらばあれ世上軽肥の客。更に以たり犧牛の飽安を得るに」と読む。墨の太い線で、文人の憧れであった漁師を描いたもの。

渡辺崋山 秋景游賞図

「白雲紅樹模秋相携二三老叟林間立杖鳥鳴石上卜居煖酒」
 「白雲紅樹秋を模(うつ)し、相携えて、二三の老叟林間に杖を立て、鳥鳴く石上に卜居して酒を煖(あたた)む」

渡辺崋山 豊干禅師騎虎図 天保年間 田原市博物館蔵

 「下総匝瑳郡椿海大川氏の意に法る 登戯墨」とある。大川椿海は安永三年、六十二歳で没した。禅僧の豊干を描く。たっぷりと墨を含ませた筆を大胆に使い、豊干と虎の立体感を表現している。

渡辺崋山 ジャンヌダーク像 天保年間

 銅版画の模写と考えられる。「油畫製油法」には、崋山が油彩画の技法を研究していたことがわかる。「全楽堂文庫」の印が捺される。

田原市指定文化財 椿椿山 福田半香像稿 嘉永4年(1851)

 稿は嘉永四年、半香(1804〜1864)48歳の時に描かれた像である。半香は羽織をまとい直立し、左前方を向く。幾重にも引かれた顔の輪郭線は作画過程の生々しさを伝える。顔の左には口元のスケッチが多数描き込まれているが、口元は椿山にとって半香を特徴付けるこだわりの要素だったのだろう。横に記された「明四日時」とはメモ書であろうか。崋山・椿山の肖像画画稿を観察すると、顔・衣服の輪郭線が最後まで定まらない場合が多い。また、面貌表現の慎重さに比べ手の表現は今ひとつである。ちなみに、この像については次のような逸話がある。
 「半香自らの肖像を椿山に乞ふ 椿山辞すること再三にして漸く成りしも半香の意に充たず 暫くして又隆古(高久)にこひて画かしめ 初めて満足せりといふ」(『後素談叢巻一』)
 しかし、隆古が描く肖像が果たして椿山を越えるものであっただろうか?ともに本画が知られていない以上、比べる術もないが、この逸話の存在自体興味深いものがある。
 画面左下に記される「友弟椿弼未定稿」は崋山門下で双璧だった二人の関係を如実に示している。画面裏に「福田半香像 辛亥六月廿一日」と裏書があることから、普段は折りたたんで保存されていたことが理解される。崋山の遺品とともに渡辺家に伝来した作品である。
 崋山が自刃に至る因を作ってしまった半香は、死後、師の菩提寺に自分を葬るよう遺言した。また、「半香翁墓碣銘」と刻した墓標がわりの板碑もある。

重要文化財 椿椿山 渡辺崋山像 嘉永6年(1853)

 外題には「崋山先生四十五歳象癸丑十月十一日寫」とあり、崋山没後十三回忌のために描かれたことが知られる。この像には三回忌の年にあたる天保十四年六月七日に描かれたもの、七回忌にあたる弘化四年四月十四・十五日に描かれた画稿の存在が知られている。また、一周忌においても福田半香宛書簡に、半香、平井顕斎の依頼により亡き師の像を描こうとしたが、あまりの悲しみのため筆が取れないことを認めている。十二年もの構想の末、完成したこの像は、生前の崋山の姿を伝え、椿山自身もその出来栄えに満足したであろう。
 黒漆螺鈿の机の前に座る崋山は、右前方を見据えている。面貌は多くの画稿が存在することから、とくに精緻に描かれているが、衣服は簡略に写意的に描く。切れ長の目の瞳は落ち着き、知性と慈愛に富んでいる。机に置いた右手は異様なほど大きく描かれ、人差し指が上に動く瞬間をとらえているようである。また、この像には公人、つまり武士の立場を演出する刀は描かず、衣服も含めプライベートな崋山の姿を写しているのである。
 なぜ椿山は四十五歳の像を描いたのであろうか。この翌年、公職を辞して画家、西洋事情の研究への道を歩むことを決意し、その思いを成就するため公人としての立場を放棄しようと考え始めた年にあたる。この一連の事情を知っている椿山は、その四十五歳の転機の姿をポートレートとして記録し、供養したとも考えられるのである。

椿華谷 楊柳海棠双雀図 嘉永元年(1848)

 柳は墨と淡彩でリズミカルに描かれるが、葉の輪郭が強い線で描かれるため、画面全体に硬く感じられる。桃の花と枝の表現は父椿山譲りの描法を受け継いでいる。異なる二種の描き方を同一画面で表現している。崋山には意志的な強い線描が見られるが、椿山から脱却し、より強い自己主張を試みたのであろうか。

↑ページTOPへ