渡辺崋山は、十代後期から最晩年まで自然観察と写生、中国画人からの「図取り」を基に多くの花鳥画作品を残しています。近代写生の先駆となった崋山の花鳥画を取り上げます。
企画展示室1 | ||
作品番号 | 作品名 | 年代 |
2 | 信濃所見(しなのしょけん) | 昭和49年(1974) |
12 | 渝州(ゆしゅう) | 昭和55年(1980) |
28 | 上海所見(しゃんはいしょけん) | 昭和59年(1984) |
31 | 白川郷(しらかわごう) | 昭和60年(1985) |
32 | 五亭橋(ごていきょう) | 昭和60年(1985) |
35 | 放鴨(ほうおう) |
昭和60年(1985) |
37 | 開封(かいふう) | 昭和60年(1985) |
48 | 美山所見(みやましょけん) | 昭和60年(1985) |
53 | 浅間山(あさまやま) | 昭和62年(1987) |
67 | 屯溪(とんけい) | 昭和63年(1988) |
57 | 成都郊外(せいとこうがい) | 昭和63年(1988) |
54 | 紹興所見(しょうこうしょけん) | 昭和63年(1988) |
59 | 常滑(とこなめ) | 平成元年(1989) |
69 | 昆明裏街(こんめいうらまち) | 平成3年(1991) |
74 | 蘇州三題C(そしゅうさんだい) | 平成3年(1991) |
113 | 厦門所見(あもいしょけん) | 平成5年3月上旬(1993) |
115 | 屯渓所見(とんけいしょけん) | 平成5年6月(1993) |
120 | 答志嶋(とうしじま) | 平成7年(1995) |
122 | 蘇州(そしゅう) | 平成8年3月(1996) |
126 | 足助中馬街道所見(あすけちゅうまかいどうしょけん) | 平成9年7月上旬(1997) |
愛用品 | ||
124 | 川沿いの村(かわぞいのむら) | 平成9年2月下旬(1997) |
127 | 阿蘇所見(あそしょけん) | 平成9年8月(1997) |
106 | 運河(うんが) | 平成11年7月上旬(1999) |
107 | 麗江(れいこう) | 平成12年7月(2000) |
108 | 大内宿(おおうちじゅく) | 平成13年5月下旬(2001) |
132 | 能登漁港(のとぎょこう) | |
133 | 小鹿田窯(おんたがま) | |
スケッチブック | ||
下絵など |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
白井青淵 [しらいせいえん] 明治42年(1909)〜平成18年2006)
豊橋市西羽田町に白井永川の長男として生まれ、名は義美、青淵と号した。県立豊橋中学校(現県立時習館高等学校)を卒業後、牟呂八幡宮の社司であった父の白井永川について、神職を志すとともに南画の指導を受けるようになった。昭和4年(1929)に20歳で牟呂八幡社、次いで、羽田八幡宮の宮司に就任した。昭和18年には、京都の水田竹圃に師事し、南画を学ぶ。昭和23年には豊橋市出身で、前年に日展初入選を果たした中村正義に連れられて上京し、当時、日本芸術院会員として日展で審査員や理事をつとめていた中村岳陵に師事し、蒼野社(そうやしゃ)に入門した。昭和25年、40歳で第6回日展に「駅構内」(豊橋市美術博物館蔵)が初入選を果たした。以後、第7回「驛附近」、第8回「給油所」など同展に4回入選する。
昭和33年に中村岳陵塾である蒼野社を退き、活躍の場を豊橋へ置き、宗墨会創始者である高橋清紡没後、顧問として南画を教える。昭和35年に51歳で、中部日本南画院を創立し、以後毎年2回の展覧会を続け、父永川と同様に、後進を育成し、南画の興隆に努めている。昭和55年に中国桂林への写生旅行を実施したのを皮切りに、つい最近まで毎年のように中国・韓国・日本各地を訪ね、写生を行い、作品を発表し続けていた。昭和61年には豊橋市美術博物館で白井青淵展を開催した。平成元年(1989)には、豊橋文化賞を受賞し、羽田八幡宮境内に中部日本南画院により筆塚が建立された。同年、愛知県知事より文化功労褒状を受けた。平成7年からは中部日本南画院の主宰に就任した。