渡辺崋山は、十代後期から最晩年まで自然観察と写生、中国画人からの「図取り」を基に多くの花鳥画作品を残しています。近代写生の先駆となった崋山の花鳥画を取り上げます。

展示作品リスト

特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  梅果図扇面(ばいかずせんめん) 渡辺崋山
(わたなべかざん)
天保8年(1837) 館蔵名品選第2集25
  雙鴨悠遊(そうおうゆうゆう)画 道名巻(が どうめいかん) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  梔子雙雀(ししそうじゃく) (画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(1832)  
  墨蘭図(ぼくらんず) 渡辺崋山 天保年間  
  龍虎双幅(りゅうこそうふく) 渡辺崋山 文政年間 館蔵名品選第1集14
市文 福禄寿図(ふくろくじゅず) 渡辺崋山
渡辺小華
文化年間
明治年間
館蔵名品選第1集1
  秋草小禽図(しゅうそうしょうきんず) 渡辺崋山 文政元年(1818)  
  闔家全慶図(こうかぜんけいず) 渡辺崋山 文政9年(1826) 個人蔵
  歳寒二雅図(さいかんにがず) 渡辺崋山 江戸時代後期  
  猛虎図(もうこず) 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
  倣徽宗花鳥之図(ほうきそうかちょうのず) 渡辺崋山 江戸時代後期  
  三亀之図(さんきのず) (画道名巻) 渡辺崋山 天保3年(1832) 館蔵名品選第1集17
  桃花文禽図(とうかぶんきんず) 渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵
市文 湖石白猫図(こせきはくびょうず) 渡辺崋山 天保9年(1838) 館蔵名品選第2集27
  竹枝小禽図(ちくししょうきんず) 渡辺崋山 天保8年(1837)  
重美 仙桃図(せんとうず)(複) 渡辺崋山 天保9年(1838) 原本新津美術館蔵
山形県文 溪澗野雉図(けいかんやちず)(複) 渡辺崋山 天保年間 原本山形美術館蔵
重美 牡丹図(ぼたんず)(複) 渡辺崋山 天保12年(1841)  

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。

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作者の略歴

渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)

 崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれました。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えました。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいましたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となりました。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしますが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃しました。

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作品紹介

梅果図扇面 天保8年(1837)

 落款に「天保丁酉春正月寫 崋山外史」とあり、瓢形印の「登」印を捺している。没骨法で描かれ、みずみずしいたわわな梅の実と青々とした葉が描かれ、香りまで感じることができる。田原幽居中の作である可能性もある。

墨蘭図 天保年間

 詩に「倚石疎花痩 帯風細葉長 霊均情夢遠 遺珮満沅湘」、落款は「随安敬」とあり、朱文亀甲印の「登」印を捺す。読みは「石に倚って疎花痩せ、風を帯て細葉長し。霊均の情夢遠く、遺珮沅湘に満つ」となる。霊均は戦国時代の楚の人で、屈原(前343頃〜前277頃)の字である。楚の王族に生まれ、王の側近として活躍したが、妬まれて失脚、沅水のほとりで蘭を取って身に付け、汨羅(べきら)に投身した。その高潔な屈原のことを蘭に添えたものである。天保10年(1839)にやはりこの詩を添えた作品「蘭竹双清」がある。

秋草小禽図 文政元年(1818)

 昭和3年(1928)に、恩賜京都博物館で開催された渡辺崋山先生名画展に出品された作品。関西地方の所蔵者を中心に展観され、恩賜京都博物館という館名は、現在の京都国立博物館にあたり、開館時、帝国京都博物館と呼ばれ、その後京都帝室博物館と名を変えたが、大正13年(1924)に京都市に下賜され、当時は、この名称となっていた。その後、国に移管され、現在の名称となった。展覧会記録として、発行された『崋山先生画譜』に「菊花雙雀図」として図版掲載されている。当時の所蔵者は、朝日新聞創始者で、衆議院議員であった村山龍平であった。村山は茶人としても知られ、その東洋古美術を中心とした所蔵品の多くは、神戸市東灘区にある香雪美術館に収蔵されている。この作品の落款に、「文政新元秋八月二十日寫於全楽堂華山邉静」とあり、「邉・静」の楕円連印が捺される。同年には、「坪内老大人像」(東京国立博物館蔵)があり、落款に「文政新元秋八月十有八日 渡邉定邉寫」とあり、印も同一のようである。

桃花文禽図 江戸時代後期

 細い桃の枝に止まる一羽の文鳥を描く。40歳代前半の作であろう。

田原市指定文化財 湖石白猫図 天保9年(1838)

 賛詩に「碧眼烏圓食有魚 仰看驚雀坐階春風漾々吹花影 一任東郊鼠化鴽除」とあり、落款に「倣宋人之意於全楽堂南窓時戊戌八月朔二十有五日崋山外史邉登」とあり、白文長方形印の「崋山」印を捺す。賛は、「碧眼の烏圓(猫)は食すに魚有り。仰いで看る驚雀の階に坐するを。春風は漾々として花影を吹く。一任(さもあらば)あれ東郊鼠鴽(コウノトリ)に化せん」と読む。晩期の崋山作品は鎖国日本と海外列強の緊張感を比喩的に感じさせる作品があり、碧眼の猫は海外列強で、太湖石(清)の上に乗り、雀(日本)を狙っている、との意味がある。谷文晁の弟子であった鈴木鵞湖(1816〜1870)の鑑定書が付属している。

重要美術品 仙桃図(複製) 天保9年(1838)

 中国では桃は「延命長寿」のシンボルとされている。仙桃とは仙人の桃のことで、昔、中国の西の果てに崑崙山(こんろんさん)という仙女の住む山があった。仙女の名は西王母(せいおうぼ)。そこには蟠桃園(ばんとうえん)という、美しい果樹園があった。そこで育てている不思議な木の果実、それが仙桃と呼ばれた不老長寿の桃であった。この仙桃を食べると、いつまでも若々しく永遠の命を得られるとある。前漢の武帝が長寿を願っていた際、西王母は天上から降り、三千年に一度実をつけるといわれる仙桃を与えたと言われている。この作品は渡辺崋山が市河米庵(1779〜1858)、60歳の還暦とその母の80歳の生誕を祝い、送ったものである。

山形県指定文化財 溪澗野雉図(複製) 天保年間

 魚の泳ぐ清らかな渓流で今まさに水を飲もうとする雄の雉子を中心に、岩上に躑躅の花が咲き、薄紫の房が垂れる藤の枝、雄の雉子を見守る雌の姿が描かれる。原画は幕府の医官曲直瀬家所蔵で、中国明代の大家呉維翰によるもので、構図をやや変えて、模写したものと言われる。図中の款記に「丁酉四月製崋山邊登」とあり、白文長方印の「崋山」を捺すが、図中に描かれる鳥や魚は、崋山が田原蟄居中に描いた『翎毛虫魚冊』内のスケッチを元にしているとの指摘もあり、その写実力や画面全体に広がる清冽な気から、最晩年に描かれたと考えられる。また、この作品には、第二次世界大戦前の所蔵者による伝来書や譲り状が付属し、その譲り状によれば、この作品は遠江国(現在の静岡県西部)の明昭寺の水雲和尚が、崋山門下の友人を通じて、寺の什宝にふさわしい作品を描いてもらった。明治維新後、同寺の蔵品を整理することを伝え聞いた掛川の薬種商古沢多賀蔵が購入し、数年後、東京日本橋に住む崋山の息子渡辺小華の世話で、京橋の酒問屋の説田家に売却された。当時、「説田の水呑み雉子か水呑み雉子の説田か」と評判になったという。説田氏没後、昭和9年に貴族院議員の小坂順造が入手し、同16年、東京の美術商本山竹荘の手に渡った。2年後には、長谷川家の蔵品となった。また、付属資料として、『溪澗野雉図』の縮図が所載されている椿椿山筆の『足利遊記』がある。

重要美術品 牡丹図(複製) 天保12年(1841)

蛮社の獄後、在所蟄居の判決を受けた崋山は、田原の地で幽囚の日を送る身となった。崋山の画弟子福田半香らは、江戸で崋山の絵を売り、その収入によって恩師の生計を救おうとした。この図は、その半香の義会の求めに応じて描いたもので、天保12年に描かれ、評判となり、「罪人身を慎まず」との世評を呼び、田原藩主三宅康直に災いが及ぶことを畏れた崋山はついに死を決意することになり、「腹切り牡丹」と称されたものである。
 この図は、没骨法という、輪郭線(骨法)を描かずに、水墨または彩色で対象を描き表す技法で描かれた。崋山は、陰影や遠近感を表現した西洋画の技法を取り入れた文人画家として、評価されるが、没骨法という東洋画の技法もよく研究している。鎖国下の江戸時代で、情報的に最も豊富なのは、中国で、武士の教養としての、儒学はもちろん、絵画として唐・宋・元・明の間に著された中国の画論・画史の書を入手して、研究を重ねていた。
賛に「牡丹は墨を以てし難し、墨を用い以て浅きは難し、淡々たる胭脂を著し、聊以て俗眼に媚びる」とある。この意味は、「牡丹は水墨で描くのは難しい、墨を用いて浅く牡丹の濃艶な趣きを描くことは難しい、淡々としたべに色を用い、いささか俗人の眼に入るような牡丹を描いた」というところであろう。また、この作品に付属の巻止は、旧所蔵者の林董氏(はやしただす 1850〜1913)によって書かれている。林董は、香川・兵庫県知事を歴任後、明治35年の日英同盟の締結交渉に外交官として活躍、同39年には、第一次西園寺内閣の外相となり、日韓・日仏・日露協約の締結にあたり、その功により伯爵に叙せられている。

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