椿椿山、弟子の野口幽谷から渡辺小華に学んだ人々の作品を展示します。初公開作品も展示します。
特別展示室 | |||
作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
菊竹図扇面(きくたけずせんめん) | 椿椿山 | 江戸時代後期 | |
ニ仙雙立扇面(にせんそうりつせんめん) | 椿椿山 | 江戸時代後期 | |
牡丹図扇面(ぼたんずせんめん) | 渡辺小華 | 明治時代前期 | |
和楽堂談笑珠帖(からくどうだんしょうしゅきちょう) | 野口幽谷 | 明治時代前期 | 白井烟旧蔵 |
野口幽谷模椿椿山牡丹十九種巻子(のぐちゆうこくもつばきちんざんぼたんじゅうきゅうしゅかんす) | 野口幽谷 | 明治時代 | |
水仙図扇面(すいせんずせんめん) | 山下青城 | 昭和時代 | |
渡辺華石印譜(わたなべかせきいんぷ) | 昭和5年(1930) | ||
渡辺華石印顆(わたなべかせきいんか) | 初公開 | ||
粉本類(ふんぽんるい) | 明治〜昭和時代 | 渡辺華石旧蔵 | |
五穀図(ごこくず) | 椿椿山 | 弘化3年(1846) | 個人蔵 |
芦雁之図(ろがんのず) | 渡辺小華 | 明治17年(1884) | 東部校区蔵 |
鍬画讃(くわがさん) | 渡辺小華 | 江戸時代後期 | 個人蔵 |
菊蘭図(きくらんず) | 渡辺小華ほか | 明治時代前期 | |
琢華堂額面(たっかどうがくめん) | 野口幽谷 | 明治時代 | 椿二山旧蔵 |
野口幽谷像画稿(のぐちゆうこくぞうがこう) | 椿 二山 | 明治時代 | |
溪上水仙花図(けいじょうすいせんかず) | 野口幽谷 | 明治12年(1879) | 初公開 |
屠蘇之図(とそのず) | 野口幽谷 | 明治21年(1888) | 個人蔵 |
桃季山猿図(とうきさんえんず) | 野口幽谷 | 明治11年(1878) | |
四季山水図(四幅対)(しきさんすいず) | 松林桂月 | 昭和11年(1936) | 初公開 |
蘆汀群雁之図(ろていぐんがんのず) | 山下青 | 明治38年(1905) | 個人蔵 |
観音図(かんのんず) | 大河戸晩翠 | 大正時代 | 個人蔵 |
不老長寿(ふろうちょうじゅ) | 植田衣洲 | 大正時代 | 個人蔵 |
青緑山水図(せいりょくさんすいず) | 井村常山 | 大正10年(1921) | 個人蔵 |
水辺之丹頂図(みずべのたんちょうず) | 白井烟 | 昭和9年(1934) | 初公開 |
鍾馗図(しょうきず) | 白井烟 | 昭和50年(1975) |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
椿椿山 [つばき ちんざん] 享和元年(1801)〜安政元年(1854)
椿山は享和元年6月4日、江戸に生まれた。幕府の槍組同心として勤務するかたわら、崋山と同様に絵を金子金陵に学び、金陵の死後、谷文晁にも学びましたが、後に崋山を慕い、師事するようになる。人物山水も描くが、特に南田風の花鳥画にすぐれ、崋山の画風を発展させ、崋椿画系と呼ばれるひとつの画系を築くことになる。また、蛮社の獄の際には、椿山は崋山救済運動の中心となり、崋山没後は二男の諧(小華)を養育し、花鳥画の技法を指導している。
野口幽谷 [のぐち ゆうこく] 文政10年(1827)〜明治31年(1898)
江戸神田町に大工の子として生まれた。名は続、通称巳之助、画室を和楽堂と号した。幼時期の天然痘のため、生家の大工の仕事より宮大工神田小柳町の宮大工鉄砲弥八に入門し、製図を学んだ。嘉永3年(1850)3月に、椿椿山に入門した。椿山が没した後、安政年間からは画事に専念し、師の画塾であった琢華堂を盛り立てた。明治5年(1872)湯島の聖堂絵画展覧会に『威振八荒図』を出品し、優等となり、ウィーン万国博覧会にも出品し、画名を知られるようになった。明治10年、第1回内国勧業博覧会で褒状を受け、明治15・17年の内国絵画共進会では審査員に選ばれ、かつ出品。第2回では銀賞を受賞した。明治21年に発足した日本美術協会展で審査員に選ばれ、以降同協会の指導的役割を担った。明治19年に皇居造営のため、杉戸絵を揮毫し、同26年に、帝室技芸員の制度ができると、橋本雅邦(1835〜1908)らと共に任ぜられた。椿山の画風を伝え、清貧を通し、謹直な筆法で、生涯を丁髷で通した。門人に益頭峻南(1851〜1916)・松林桂月(1876〜1963)らがいる。
山下青城 [やました せいじょう] 明治17年(1884)〜昭和37年(1962)
浜名郡笠井村に住み、渡辺小華についた山下青pの子。父に絵を学んだ後、上京し、小室翠雲に指示した。崋椿系の鑑定も多い。
渡辺華石 [わたなべ かせき] 嘉永5年(1852)〜昭和5年(1930)
名古屋に生まれ、本名を小川静雄。明治10年頃、渥美郡役所書記を勤め、百花園時代の渡辺小華についた。その後、小華が上京すると、それに従い、上京し、東京で画家として独立。小華没後、渡辺姓を名乗る。崋椿系の鑑定も多く、息子も二代目華石を名乗り、小室翠雲門下であった。
渡辺小華 [わたなべ しょうか] 天保6年(1835)〜明治20年(1887)
渡辺崋山の二男として江戸麹町(現在の東京都千代田区隼町)田原藩邸に生まれた。崋山が田原池ノ原の地で亡くなった時にはわずかに7歳だった。その後、弘化4年(1847)13歳の小華は田原から江戸に出て、椿椿山の画塾琢華堂に入門し、椿山の指導により、花鳥画の技法を習得した。嘉永7年(1854)、絵の師椿山が亡くなると、独学で絵を勉強、安政3年(1856)、江戸在勤の長兄立が25歳で亡くなったため、22歳の小華は渡辺家の家督を相続し、30歳で田原藩の家老職、廃藩後は参事の要職を勤めた。明治維新後、田原藩務が一段落すると、田原・豊橋で画家としての地歩を築き上げた。第1回内国勧業博覧会(明治10年)、第1回内国絵画共進会(同15年)に出品受賞し、明治15年(1882)上京し、中央画壇での地位を確立した。花鳥画には、独自の世界を築き、宮内庁(明治宮殿)に杉戸絵を残すなど、東三河や遠州の作家に大きな影響を与えたが、53歳で病没した。
白井烟煤@[しらい えんがん] 明治27年(1894)〜昭和51年(1976)
豊橋市に生まれ、本名を白井瀧司、字を龍と称した。大正6年(1917)上京し、松林桂月に師事し、大正9年第2回帝展に初入選以後、帝展・新文展に出品。戦後は、日展に出品し、第5回で、「雲行雨施」が特選となり、以後委嘱出品。昭和36年(1961)第1回南画院に出品の「秀孤松」が文部大臣賞受賞。
椿二山 [つばき にざん] 明治6・7年(1873・74)頃〜明治39・40年(1906・07)
椿山の孫で、父は早世した華谷に代わり家督を相続した椿山の四男椿和吉である。椿山の画塾琢華堂を継いだ野口幽谷(1827〜1898)に学んだ。明治時代前半に、世界からの遅れを取り戻そうと洋風化政策を進めた日本では伝統美術は衰亡した。日本固有の美術の復興をはかることを目的とした日本美術協会ができ、美術展覧会を定期的に開催し、日本の美術界の中心的存在であった。その日本美術協会美術展蘭会で、明治27年『棟花雙鶏図』で褒状一等を、同28年『池塘眞趣図』で褒状二等、同29年『竹蔭闘鶏図』で褒状一等、同30年『蘆雁図』で褒状一等、同31年『闘鶏図』で褒状一等、同33年『秋郊軍鶏図』で褒状三等、同35年『驚寒残夢図』で褒状一等、同36年『梅花泛鳥図』で褒状一等を受賞している。号「二山」は幽谷から明治30年6月に与えられた。『過眼縮図』(田原市博物館蔵)は、野口幽谷の画塾和楽堂の様子がうかがい知られる貴重な資料である。
松林桂月 [まつばやし けいげつ] 明治9年(1876)〜昭和38年(1963)
山口県萩市に伊藤篤一の次男として生まれた。名は篤。明治27年(1894)に上京、野口幽谷に師事した。同31年に幽谷門下の松林雪貞と結婚し、松林姓を名乗るようになる。明治41年第2回文展から出品し、第5回から第8回まで連続三等賞を受賞する。昭和8年(1933)帝国美術院会員、同19年帝室技芸員となり、同33年文化勲章を受章。近代日本南画界を代表する作家である。
山下青p [やました せいがい] 安政5年(1858)〜昭和17年(1942)
現在の浜北市貴布祢に生まれ、名は伊太郎、字は孝雄、号は17歳で龍渓、30歳で聖崖・青崖、32歳で青p、他に梧竹園、碧雲書屋等と号す。
生家は酒造業を営んでいたが、慶応2年(1866)、9歳の時、笠井村(現浜松市笠井町)に移住し、商売をしたが、画家となることを志し、近在の市川孤芳に学び、のち三方原の望月雲荘、見附の山本愛山、渡辺小華の作品を模写し、画を学習した。明治20年(1887)に上京し、小華塾に通うが、小華の明治宮殿杉戸絵作成を手伝っていたが、両親の願いから笠井に戻る。渡辺崋山・椿椿山の作品を模写し、笠井で絵画制作に励んだ。明治28年に第4回内国勧業博覧会に出品した。崋山作品の鑑定家としても活躍した。
大河戸晩翠 [おおこうど ばんすい] 弘化2年(1845)〜大正10年(1921)
豊橋市指笠町(現豊橋市新本町)の真宗高田派願成寺住職の四男に生まれ、名を挺秀、幼名を霊台、字を守節といった。晩翠・梅笠・吉祥山人・馴雀園などと号した。安政2年(1855)八名郡牛川村の正大寺に養嗣子として迎えられ、十一代住職となる。漢学を関根痴堂に学び、画を谷文晁門下の稲田文笠(1808〜1873)に学ぶ。のち渡辺小華に学び、豊橋で門下の第一人者として活躍した。山水・花卉・人物いずれも巧みで、紙本の水墨画に力量を発揮した。
植田衣洲 [うえだ いしゅう] 安政2年(1855)〜大正14年(1925)
渥美郡高洲新田(現豊橋市小向町)に吉田藩御用達植田七三郎の二男として生まれ、幼名を耕三郎、名を親寛、字を耕圃、通称を七三郎といった。植田家は享保14年(1729)松平豊後守資訓が浜松から吉田に移封された時、御用達として従ってきた家柄で、以来吉田札木町に住し、御用達・問屋などをしていた。百花園時代の渡辺小華につき、花鳥画を得意とし、牡丹・菊を好んで描いた。衣洲は森田緑雲・大河戸晩翠亡き後、東三河における小華門の長老として活躍した。また、代々植田家は文化風流を好み、衣洲も松月堂古流の生花を幽照軒五道に学び、垂蔭亭苔石と称した。
井村常山 [いむら じょうざん] 天保14年(1843)〜大正14年(1925)
三河出身(江戸生まれの説もあり)。名は貫一、法名は空潭。還俗して、名古屋で清人若波につき南画を学ぶ。書は、書家萩原秋巌につき、顔真卿などを能くし、行書にすぐれる。文展入選。明治12・13年頃に渥美郡書記として豊橋に赴任、百花園時代の渡辺小華についた。その後、名古屋に移住し、さらに東京に移った。大正4年からは茨城の根本寺の住職も勤めた。
椿椿山 菊竹図扇面 江戸時代後期
中央に淡墨で描かれた菊の背後に、爽やかな色彩の緑竹が扇形の画面に沿って左から右にたわむ。菊は他の花が散り萎んでも霜にも屈せず花を開かせる耐寒性、牡丹や芍薬の華やかさとは対極的にひっそりと静かに咲く姿が、逸脱の文人の姿と重なり合う。竹には、四季いつも緑を保ち、真っ直ぐ立ち、節(節度)があり、梅、菊、蘭などとともに君子に例えられる。また陶淵明は菊を、蘇東坡は竹を愛し、数々の佳話が生まれている。両詩人に愛され、中国に憧れる人々にとって菊竹は好ましいイメージのモティーフであると言えよう。椿山が添える詩意も嘉永年間の引きずるような書体も画趣にほどよくあっている。まさに正統的な文人画作品と言えよう。竹の絶妙な色彩が新鮮な趣を与えており、実に小気味よい作品となっている。画風及び署名の書体から、嘉永5年(1852)以降の作品である。
渡辺小華 牡丹図扇面 明治時代前期
款記に「素富貴湘白陽山人小華逸史」と記し、没骨(もっこつ)技法で牡丹を描く。「白陽山人」は陳淳(1482〜1544)のことで、明代の画家で、字は道復、白陽山人と号し、花鳥画を得意としていた。
渡辺小華 芦雁之図 明治17年(1884)
款記に「甲申歳晩寫於高橋楼之酒間」と記し、「香処」「竹裡楳華」印を捺し、遊印に明治16年篆刻の「素似為絢」を使用している。小華は明治15年から東京へ居を移したので、「高橋楼」は東京であろうか。
椿二山 野口幽谷像画稿 明治時代前期
この画稿は幽谷の弟子で、椿山の孫であった椿二山(1873・74頃〜1906・07頃)によるもので、二山は野口幽谷の画塾和楽堂の様子を記録した『過眼縮図』(『田原市博物館館蔵名品選第2集』(平成17年、田原市博物館)掲載)を残している。崋椿系画家が踏襲している肖像画技法を研究する上で貴重な稿本である。
野口幽谷 溪上水仙花図 明治12年(1879)
明治26年に帝室技芸員の制度ができると、幽谷は帝室技芸員に任ぜられた。明治天皇に献上した作品として大正7年(1918)の『幽谷画譜』に掲載された作品である。花鳥画家として一流の評価を得ていた作家の代表作と言えよう。
松林桂月 四季山水図 昭和11年(1936)
昭和11年に発行された『櫻雲洞画譜』に掲載された作品である。『櫻雲洞画譜』には昭和11年11月19日桂月自身の跋文と11月23日展覧会場を訪問する東伏見宮妃殿下の巻頭写真が添えられているので、年末頃の発刊のものであろう。櫻雲洞は松林桂月の画室名である。この年、前年から続く帝展改組の紛糾が続き、6月に小室翠雲、荒木十畝、松岡映岡とともに再改組の建議書を提出している。
白井烟煤@水辺之丹頂図 昭和9年(1934)
この前年に、東京都中野区野方に家を新築し、前年に引き続き、帝展に「雨」が入選している。40歳であった烟狽ノ、長男も生まれ、画作も充実していく。「鳳来山荘中」の堂号を使用する。鶴は古画を写し、松は実景から取り入れたものか。
白井烟煤@鍾馗図 昭和50年(1975)
この作品は昭和50年12月に描かれているが、この年に東京都の国立大蔵病院に入院し、翌年の1月19日に、肺癌により死亡した。晩期の作品であるが、その闊達な線描と鍾馗の鋭い目線は、81歳でありながら、画家として生涯を過ごしたことが充分にわかる。