渡辺崋山の作品と崋山の弟子で、山水画を得意とした福田半香の作品を展示します。
特別展示室 | ||||
指定 | 作品名 | 作者名 | 年代 | 備考 |
澄泥硯 残月(ちょうでいけん ざんげつ) | 江戸時代後期 | 渡辺崋山愛用 | ||
三組盃(さんくみはい) | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 台座 下村観山制作 | |
稿本画帖(こうほんがちょう) | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
丁亥画稿縮図(ひのといがこうしゅくず) | 渡辺崋山 | 文政5年(1822) | ||
蟷螂捕蝉図扇面(とうろうほせんずせんめん) | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
観月人物図扇面(かんげつじんぶつずせんめん) | 福田半香 | 江戸時代後期 | ||
書簡(しょかん) | 福田半香 | 江戸時代後期 | ||
市文 | 福田半香肖像画稿(ふくだはんこうしょうぞうがこう) | 椿 椿山 | 嘉永4年(1851) | |
夏堂聴雨図(かどうちょううず) | 福田半香 | 弘化年間 | ||
春江山水図(しゅんこうさんすいず) | 福田半香 | 安政5年(1858) | ||
渓谷山水図(けいこくさんすいず) | 福田半香 | 弘化3年(1846) | ||
冬山水図(とうさんすいず) | 福田半香 | 安政5年(1858) | ||
山水図(さんすいず) | 福田半香 | 嘉永元年(1848) | ||
菊花湖石図(きっかこせきず) | 福田半香 | 安政2年(1855) | ||
富貴木蓮図(ふうきもくれんず) | 福田半香 | 江戸時代後期 | ||
怒濤之図(どとうのず) | 福田半香 | 万延元年(1860) | ||
海辺宿船之図(対幅)(かいへんしゅくせんのず) | 福田半香 | 江戸時代後期 | ||
威振八荒図(いしんはっこうず) | 渡辺崋山 | 文政5年(1822) | ||
市文 | 水郷驟雨之図(すいごうしゅううのず) | 渡辺崋山 | 文政9年(1826) | |
昇天龍(しょうてんりゅう) | 渡辺崋山 | 天保4年(1833) | ||
市文 | 林和靖養鶴之図(りんなせいようかくのず) | 渡辺崋山 | 天保6年(1835) | |
青緑山水図(せいりょくさんすいず) | 渡辺崋山 | 江戸時代後期 | ||
四君交結図(しくんこうけつず) | 渡辺小華 | 慶応2年(1866) |
※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください。
渡辺崋山 [わたなべ かざん] 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
福田半香 [ふくだ はんこう] 文化元年(1804)〜元治元年(1864)
名は佶、字は吉人、通称恭三郎、号を磐湖、曉斎、曉夢生とも称す。遠州磐田郡見附(現磐田市)の出身で、最初掛川藩の御用絵師村松以弘(1772〜1839)についた後、天保年間に江戸に出て崋山についた。蛮社の獄後、田原に蟄居中の崋山を訪ね、その貧しさを嘆き、義会をおこす。この義会が崋山に対する藩内外の世評を呼び、崋山は自刃の道を選ぶことになる。花鳥山水いずれもよくしたが、椿山の描く花鳥に及ばぬと考え、山水画を多く残した。安政3年(1856)12月自宅が全焼すると、同5年2月まで麹町の田原藩邸に仮住まいし、藩士に画の指導をしていた。晩年江戸根岸に隠棲した。半香は崋山の死の原因になったことを自責し、自らの死後は、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬るよう遺言した。