◆須田剋太(すだこくた)
「自画像」
1987(昭和62)年
「十二支 辰」
1988(昭和63)年
一度見たら忘れられないようなオカッパ頭の風貌で、これまた忘れられない作品を描き続けた須田剋太画伯は、1906(明治39)年に埼玉県吹上町で生まれました。旧制熊谷中学校を卒業後、浦和(現・さいたま市)に出て独学で油絵を学びました。東京美術学校を4度受験するもののことごとく失敗し、一時は絵描きへの道を断念しようとしますが、写楽の浮世絵やゴッホの絵に出会い生涯画家となる決心をしました。
1935(昭和10)年に光風会で初入選したのを皮切りに、翌36年に文展で初入選、39年には新文展で特選となるなど、戦前から戦後にかけて官展で、特選3回、入選4回を果たし具象の油彩画家として着実に地歩を固めました。
しかし、関西に活動の地を移した後、1945(昭和20)年頃に抽象画家長谷川三郎と出会い、彼の理論に共鳴して抽象画に転向、官展とも袂を分かち、以後約20年にわたって造型性に満ちた抽象画を描き続けました。その間、ゲンビ展や国画会のほか、ブラジルやアメリカ、イタリアでの国際展などに出品を重ねるなど、内外から高い評価を受けました。
1971(昭和46)年からは『週刊朝日』で連載された司馬遼太郎の歴史紀行「街道をゆく」の挿絵を1990(平成2)年に亡くなるまで897回にわたって担当。併せて具象画の制作も再開し、さらに書や陶へと情熱のおもむくままに多彩な作品を生み出しました。そして油彩やグワッシュの大胆な筆使いはもちろん、包装紙などを貼り付けたコラージュを多用するなど独創性に満ちたエネルギッシュな作品で多くの人々を魅了し、まさに剋太芸術と呼ぶべき画業を確立しました。
今回の展覧会では、生誕100年を記念して、初期作品から最晩年に至る、油彩やグワッシュの具象画、抽象画、さらには書、陶などを一堂に展観し多彩な芸術の全貌を紹介するとともに、向日葵、舞妓、東大寺、縄文記号など造型の根幹となったいくつかのモチーフに焦点をあて、いまだに多くの人々をひきつけてやまない剋太芸術の魅力の源に迫ろうとするものです。
主催:田原市博物館・財団法人崋山会
「築地本願寺」
1937(昭和12)年
うらわ美術館蔵 |
「枝垂れ桜」
1975(昭和50)年
財団法人草月会蔵 |
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「晩年のパレット」
飯田市美術博物館蔵 |
「酔芙蓉花」
1988(昭和63)年
MIHO MUSEUM蔵 |
「郡上・白川街道と越中諸道郡上八幡城(A)」
1972‐73(昭和47‐48)年
大阪府立現代美術センター蔵
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