渡辺崋山と山本きんこく

展示期間 2007年5月18日(金)〜7月1日(日)

山本谷は、江戸で崋山の門に入ったが、蛮社の獄で崋山が捕えられると椿椿山に入門した。後に、津和野藩絵師となり、人物・山水画を得意としていた。初公開の作品も展示します。

展示作品リスト
田原市博物館(特別展示室)
指定 作品名 作者名 年 代
  渡辺崋山派巻物(わたなべかざんはまきもの)   江戸時代後期
  陳居中官女媚秀図(ちんきょちゅうかんじょびしゅうず) 渡辺崋山(わたなべかざん) 文政年間
  過眼掌記(かがんしょうき) 四十七 椿 椿山(つばきちんざん) 嘉永元年(1848)
  過眼掌記(かがんしょうき) 四十八 椿 椿山 嘉永2〜3年
(1849〜50)
市文 琢華堂門籍(たっかどうもんせき) 椿 椿山 文政7年〜嘉永3年
(1824〜50)
  人物画粉本(じんぶつがふんぽん) 山本谷(やまもときんこく) 江戸時代後期
  芭蕉翁像(ばしょうおうぞう) 渡辺崋山 天保年間
  竹林高士之図(ちくりんこうしのず) 山本 江戸後期〜明治時代
  漁夫之図(ぎょふのず) 山本 安政元年(1854)
  群老登山之図(ぐんろうとざんのず) 山本 万延元年(1860)
  西園雅集図(せいえんがしゅうず) 山本 文久元年(1861)
  劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛図(ちょうひず) 山本 慶応元年(1865)
  月次風俗図屏風(つきなみふうぞくずびょうぶ) 山本 慶応3年(1867)
  琴鶴自随之図(きんかくじずいのず) 山本 慶応3年(1867)
  三賢人(さんけんじん) 山本 慶応3年(1867)
  漁村図屏風(ぎょそんずびょうぶ) 山本 江戸後期〜明治時代

※期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。

作品紹介
山本谷 漁夫之図 安政元年(1854)
 崋山を手本とした中国風人物を得意とした谷作品の好例である。漁夫の手前に携えた釣竿が勢いよく描かれる。略筆であるが、その筋肉や骨格のたくましさがよく表現されている。明治維新前後の作品が多く残っているが、この作品は谷が江戸に拠点を置いていた時期の作品である。

山本谷 西園雅集図 文久元年(1861)
 宋の時代、円通(えんつう)大師が、蘇軾(そしょく、蘇東坡(そとうば))・米元章(べいげんしょう)など当時の文人墨客を招き、詩作や絵を描いたり、書を書いたりして、一日を過ごした様子を描いたものを「西園雅集」と称している。その時の情景を同席した李龍眠(りりゅうみん)が描き、米元章はその様子を詳細に書き残した。中国の高士の理想である16名の人物が描かれる。

山本谷 劉備・関羽・張飛図 慶応元年(1865)
 奥に描かれる赤い衣を身に付けた人物は劉備(161〜223)で、『三国志』で著名な三国の蜀漢の創始者で、字は玄徳。関羽・張飛と結び、諸葛亮(しょかつりょう)を参謀とし、呉の孫権(そんけん)と協力して魏の曹操(そうそう)を赤壁(せきへき)に破り、蜀(しょく、四川)を平定して漢中王と称した。221年成都で自ら帝位につき、国を漢と号し、呉・魏と天下を三分して争った。
 関羽(生年不詳〜219)は蜀漢の武将で、字は雲長(うんちょう)。劉備を助けて功があり、後世各地に関帝廟を建てて祀られた。張飛(生年不詳〜221)も蜀漢の武将で、字は益徳(えきとく)または翼徳(よくとく)。累進して西郷侯に封ぜられたが、呉討伐の途中、部下に暗殺された。

山本谷 月次風俗図屏風 慶応3年(1867)
 「月次絵」は、一年間の行事や風物を順に描いた絵で、右隻から一月、二月と順に描いている。二月にあたる節分の絵として、鬼打豆をまいている図の中に落款(らっかん)が「丁卯嘉平月寫 谷」とあり、慶応3年12月に描かれた作品であることがわかる。各図には、必ず複数の人が描かれ、その軽妙さと軽いタッチが見ている者にほのぼのと伝わってくる。こういう作品の需要がどういうところに求められたものか不明であるが、江戸から明治時代に移る間で、当時の風俗画としても貴重である。

山本谷 琴鶴自随之図 慶応3年(1867)
 崋山を手本とした中国風人物を得意とした谷作品の好例である。中央に描かれた人物は林和靖(りんなせい、967〜1028)で、北宋(960〜1127)の時代の詩人で、世俗から離れ、故郷である杭州(こうしゅう)の西湖(さいこ)の湖畔に庵を結び、市中に出ることなく詩作に興じた高士である。邸内に鶴を飼育していて、客が来るとそれを放したと言われており、この作品でも林和靖の前には鶴が描かれている。衣線は東洋画的な筆法で描かれており、着色も穏やかで、中国の故事を表現するものとしては落ち着いた仕上がりを見せている。当時崋山の人物画を継承する文人画家として、人気があったのであろう。類作も多く見ることができる。

椿椿山 過眼掌記 四十七・四十八 嘉永元年(1848)〜3年(1850)
 表紙に「過眼掌記 戊申第二」と書かれ、「第四十七」の貼紙が貼られ、もう1冊は、同様に「過眼掌記 嘉永己酉第三至庚戌第一」と書かれ、「第四十八」の貼紙が貼られる。いずれも「全楽堂文庫」印と「椿山椿弼鑑蔵図書」印が捺される。この資料は平成6年に田原市博物館(当時は田原町博物館)に小川義仁氏から一括寄贈された椿椿山の手控冊類・日記、崋椿系画家の手控冊類、画稿・粉本類に含まれている。椿山の手控冊は14冊あり、椿山の死去は嘉永7年であるので、晩期にあたる。
 
作者の略歴
渡辺崋山[わたなべ かざん]
寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
 崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。

椿椿山[つばき ちんざん]
享和元年(1801)〜安政元年(1854)
 椿山は享和元年6月4日、江戸に生まれた。幕府の槍組同心として勤務するかたわら、崋山と同様に絵を金子金陵に学び、金陵の死後、谷文晁にも学びましたが、後に崋山を慕い、師事するようになる。人物山水も描くが、特に南田風の花鳥画にすぐれ、崋山の画風を発展させ、崋椿画系と呼ばれるひとつの画系を築くことになります。また、蛮社の獄の際には、椿山は崋山救済運動の中心となり、崋山没後は二男の諧(小華)を養育し、花鳥画の技法を指導している。

山本谷[やまもと きんこく]
文化8年(1811)〜明治6年(1873)
 石見国(いわみのくに、現島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(たごいっさい、1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年(1873)にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図(ちしほうびょうず)』は好評を得た。弟子として荒木寛友(あらきかんゆう、1850〜1920)・高森砕巌(たかもりさいがん1847〜1917)等がいる。

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田原市博物館
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