●渡辺崋山 自筆画論「画譚・絵事御返事」 |
渡辺崋山が田原へ蟄居して後、江戸の椿椿山から画作について尋ねられた解答を手紙で送っている。この問答を2冊の冊子にまとめたものである。『画譚』には、椿山の堂号である「琢華堂蔵」と記し、「椿山山房」「全楽堂文庫」の2印が捺される。 |
●椿椿山 麹町一件日録 |
渡辺崋山が蛮社の獄で捕えられ、その救済活動の記録である。蛮社の獄の進行状況や情報、救済の方法など、几帳面な椿山らしく克明に記録されています。 |
●椿椿山 過眼録 二十七・二十八・二十九 |
表紙に「第廿七」の貼紙が貼られたものには、表紙に「過眼録 天保己亥 琢華堂」と書かれ、高久靄p(1796〜1843)所蔵作品の縮図が多く見られ、表紙に「過眼録 天保庚子」と書かれ、「椿氏琢華堂図書記」の印が捺された貼紙が貼られている。「第廿八」の貼紙が貼られたものには、椿山の息子である華谷の加筆も見られる。表紙に「過眼録 庚子第二 椿氏蔵」と書かれた貼紙のものには、「第廿九」の貼紙が貼られ、中に「全楽堂文庫」印が捺される。 |
●椿椿山 過眼掌記 五十三 |
「第五十三」には、「過眼掌記 癸丑甲寅」と書かれ、「椿山山房」印が捺される。この資料は平成6年に田原市博物館(当時は田原町博物館)に小川義仁氏から一括寄贈された椿椿山の手控冊類・日記、崋椿系画家の手控冊類、画稿・粉本類に含まれている。椿山の手控冊は14冊あり、椿山の死去は嘉永7年であるので、この冊子は晩期にあたる。 |
●椿椿山 渡辺崋山像 |
巻き止めには「崋山先生四十五歳癸丑十月十一日寫」とあり、崋山没後十三回忌のために描かれたことが知られます。この像には三回忌の年にあたる天保十四年六月七日に描かれたもの、七回忌にあたる弘化四年四月十四・十五日に描かれた画稿の存在が知られています。また、一周忌においても福田半香宛書簡に、半香、平井顕斎の依頼により亡き師の像を描こうとしたが、あまりの悲しみのため筆が取れないことを認めています。15年もの構想の末、完成したこの像は、生前の崋山の姿を伝えています。
黒漆螺鈿の机の前に座る崋山は、右前方を見据え、面貌はとくに精緻に描かれていますが、衣服は簡略に写意的に描き、切れ長の目の瞳は落ち着き、知性と慈愛に富んでいます。机に置いた右手は、人差し指が上に動く瞬間をとらえているようです。生前の崋山は手の動きを起点とし、椿山に語りかけていたのでしょうか。
なぜ椿山は四十五歳の像を描いたのでしょうか。崋山は、その翌年に、藩の職を辞す願書を提出し、自らの蔵書を藩に寄贈します。つまりこの年、公職を辞して画家、西洋事情の研究への道を歩むことを決意し、その思いを成就するため公人としての立場を放棄しようと考え始めた年にあたります。この一連の事情を知っている椿山は、その四十五歳の転機の姿ポートレートとして記録し、供養したとも考えられます。 |
●椿椿山 石譜 |
劉松年(南宋)、元人、荊浩(唐)、関同(宋)、董源(南唐)、藍田叔(藍瑛・明)、ヲ南田(清末)など様々な石の描法が描かれる。前の四法は文人画のバイブル『芥子園画伝』の「石法」から巻頭の賛文(三面法の解説)とともに引用している。また『雲煙略伝』に椿山は渡辺玄対旧蔵の明人の名石巻を入手し愛玩したことが記されている。藍瑛の法はおそらくこの名石巻から、ヲ南田は自ら見た作品からそれぞれ引用し、その描法を加えてこの作品を構成したものであろう。
墨で石の輪郭を描き、わずかに代赭を加える。「劉松年皴法」、「霊壁雨華」では岩絵具の上澄みを重ねる。椿山は岩、石の表現が今ひとつである、という評価をときおり耳にする。しかし、それは岩単体での評価で、画の全体的なバランスを考えれば、他のモティーフを引き立たせるための意図的な表現方法と言える。この作品は単体で石が描かれるが、石の持つ厳しさではなく、人に愛玩される石の持つ優しさを表現できていないだろうか。柔らかな筆線、上品な色彩、清雅な味わいは椿山の特色を十分に発揮している。椿山の紙本作品での山水、石表現は関東の文人画としては異質であり、この画趣は田能村竹田に通じるものがある。
さて、文房清玩の一つにもなっている愛石趣味は中国にひたすら憧れる文人たちの欠かせぬものとなっている。文人は徹底的にモノにこだわる。この「癖愛」と呼ばれる文人のモノのこだわりは菊、梅、竹の栽培、石、骨董の収集、茶、酒の嗜みなど広範囲にわたる。最後の文人富岡鉄斎は印癖、茶癖、旅行癖、読書癖を楽しんでいた。椿山は茶癖家であったが、また愛石癖家でもあったのだろう。これらモノを媒介として世俗を離れ、自らの世界に没頭し、欲や得を忘れ、あこがれの文人の世界に身を置いたのである。そのように考えれば、画巻はまさに、癖愛家にうってつけの形式である。この画巻は、憧れの中国の文人趣味、絵画作品の雰囲気が凝縮されたもので、注文主はこの画巻をだれにも邪魔されず、一人開き、ほくそえみながら鑑賞していたに違いない。
巻末に渡辺華石の極書があり、華石所蔵の「琢華堂縮図」天保13年10月28日に奥州伊達郡桑折村(現福島県伊達郡桑折町)高木一郎の依頼にかかることが記される。 |
|