展示期間 平成19年2月8日(木)〜平成19年3月18日(日)
特別展示室 | ||||
指定 | 作 品 名 | 作者名 | 年 代 | 備 考 |
大江千里像(複) (おおえのちさとぞう) | 渡辺崋山 (わたなべかざん) |
江戸時代後期 | 原本宮内庁三の丸尚蔵館蔵 | |
重文 | 一掃百態図 (いっそうひゃくたいず) | 渡辺崋山 | 文政元年(1818) | |
目黒詣図巻(複) (めぐろもうでずかん) | 渡辺崋山 | 文政12年(1829) | ||
癸未画稿 (きびがこう) | 渡辺崋山 | 文政6年(1823) | ||
過眼掌記(かがんしょうき) 五十 | 椿 椿山 (つばきちんざん) |
嘉永4年(1851) | ||
過眼掌記(かがんしょうき) 五十一 | 椿 椿山 | 嘉永4年(1851) | ||
琢華堂写生冊子 (たっかどうしゃせいさっし) |
椿 椿山 | 天保9年(1838)〜嘉永年間 | 個人蔵 | |
林大学頭述斎 (はやしだいがくのかみじゅっさい) 肖像稿本(しょうぞうこうほん) |
渡辺崋山 | 天保年間 | ||
重文 | 市河米庵像稿(複) (いちかわべいあんぞうこう) |
渡辺崋山 | 天保8年(1837) | 原本京都国立博物館蔵 |
重文 | 市河米庵像(複)(いちかわべいあんぞう) | 渡辺崋山 | 天保8年(1837) | 原本京都国立博物館蔵 |
宋周元公(そうしゅうげんこう) 濂渓先生像(れんけいせんせいぞう) |
渡辺崋山 | 文政3年(1820) | 個人蔵 | |
重美 | 佐藤一斎像稿 (第二)(複) (さとういっさいぞうこう) |
渡辺崋山 | 文政年間 | 原本個人蔵 |
重美 | 佐藤一斎像稿(第十一) (複) (さとういっさいぞうこう) |
渡辺崋山 | 文政年間 | 原本個人蔵 |
重文 | 佐藤一斎像 (複)(さとういっさいぞう) | 渡辺崋山 | 文政4年(1821) | 原本東京国立博物館蔵 |
立原翠軒肖像 (たちはらすいけんしょうぞう) 翠軒尺牘(すいけんせきとく) |
渡辺崋山 | 江戸時代後期 | 個人蔵 | |
重美 | 松崎慊堂像稿(その一)(複) (まつざきこうどうぞうこう) |
渡辺崋山 | 文政9年(1826) | 原本個人蔵 |
重美 | 松崎慊堂像稿(その二) (複) (まつざきこうどうぞうこう) |
渡辺崋山 | 天保年間 | 原本個人蔵 |
岩本幸像(いわもとこうぞう) | 渡辺崋山 | 天保2年(1831) | ||
重美 | 笑顔武士像稿(複) (しょうがんぶしぞうこう) |
渡辺崋山 | 天保8年(1837) | 原本個人蔵 |
重文 | 渡辺崋山像(複)(わたなべかざんぞう) | 椿 椿山 | 嘉永6年(1853) | |
吉村貞斎像(よしむらていさいぞう) | 椿 椿山 | 天保3年(1832) | ||
平山子龍像(ひらやましりょうぞう) | 椿 椿山 | 天保4年(1833) | ||
老女像稿(ろうじょぞうこう) | 椿 椿山 | 江戸時代後期 | ||
市文 | 福田半香像稿(複) (ふくだはんこうぞうこう) |
椿 椿山 | 嘉永4年(1851) |
※ 期間中、展示を変更する場合がございます。
※また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。
画左に「月見ればちぢに物こそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど」とある。これは『古今和歌集』巻第四秋歌上 193番、「是貞(これさだ)の親王(みこ)の家の歌合(うたあわせ)によめる」にあたる。
大江千里(生没年未詳)は平安時代前期の歌人であり、儒学者でもあった。藤原範兼(1107〜65)が撰した中古三十六歌仙のひとりに数えられ、在原行平・業平は叔父にあたる。延喜3年(903)兵部大丞となる。家集に125首を収める『句題和歌』(『大江千里集』)がある。
原本は、かつて、梶田半古(1870〜1917)の画室に飾られ、個人所有等を経て、旧秩父宮家に献上された。これは昭和47年(1972)の崋山130年祭記念遺墨展(東京美術倶楽部・崋山会館)後、記念品として複製制作されたものである。記念遺墨展では、この作品の制作年を天保7年(1836)としている
崋山が、文政元年11月に26歳で描いた『一掃百態図』は、序文・跋文に古今の風俗画に関する論述を行い、鎌倉から江戸時代の寛延、明和にいたる各時代の古風俗と文化文政期の江戸の市井の風俗を一日二夜にして完成させたもので、装丁は32葉の画帖で、縦26.4p、横19.5pである。その当世風俗は走筆の素描であり、朱や墨で訂正を加えていることから稿本と考えられるが、崋山前期の代表作である。財団法人崋山会が複製・色紙を作成し、販売している。内容を以下に記す。
表紙/一掃百態総論/
風俗画第一図 此風俗大凡自伏見院之正応及後醍醐院之元亨者也/
風俗画第二図 同上/
風俗画第三図 此風俗大凡係自後土御門院之文明及後奈良院之享禄者也/
風俗画第四図 此風俗大凡係自正親院之永禄及後陽成院之慶長者/
風俗画第五図 此風俗大凡係自後公明院之慶安及霊元院之延宝者/
風俗画第六図 此風俗大凡係自東山院之元禄及桜町院之元文者/
風俗画第七図 此風俗大凡係自桃園院之寛延及後桜町院明和者/
序文/演能図 騎上武士図/大道芸の図(居合抜図・歯を抜く図・飴売図・通行人図)/金魚売図・かまぼこ売図・通行人図/金比羅参り鈴ふり図・高座(寄席)図/小唄稽古図・雨降り図/剣道の図/砲術の図/槍術の図/馬の図/寺子屋図/寺子屋図/物売図 籠かき図/遊廓図(屋内)/遊廓図(屋外 芸人・遊女・籠かき図)/遊廓図(屋外 籠かき図)/遊廓図(屋内)/遊廓図(あんま・物運び・仲居)/大名行列図/大名行列図/物売図(金山寺みそ・とうがらし)/行商図・花売図/物売図(魚)/托鉢・呼び売り図/飲食図/雪駄なおし・通行人図/通行人図/書画会図/琴・囲碁・将棋図/婦人の図(洗い張り・裁縫・居眠り)/婦女図/婦女図/荷車・農夫図/米俵(力比べ)図/火消し図/火消し図/飲酒図/酔っぱらい図/行商図/行商図/風呂屋の図/跋文
表紙に「過眼掌記 嘉永癸亥第二 椿氏琢華堂」と書かれ、「第五十」の貼紙が貼られ、もう1冊は、同様に「過眼掌記 嘉永癸亥第三 椿氏琢華堂」と書かれ、「第五十一」の貼紙が貼られる。「第五十」には、「全楽堂文庫」印、「第五十一」には「椿山山房」印が捺される。この資料は平成6年に田原市博物館(当時は田原町博物館)に小川義仁氏から一括寄贈された椿椿山の手控冊類・日記、崋椿系画家の手控冊類、画稿・粉本類に含まれている。椿山の手控冊は14冊あり、椿山の死去は嘉永7年であるので、晩期にあたる。
「第五十一」には、崋山の天保元年作「芦葉達磨」、「豊干禅師騎虎図」の模写がある
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
椿山は享和元年6月4日、江戸に生まれました。幕府の槍組同心として勤務するかたわら、崋山と同様に絵を金子金陵に学び、金陵の死後、谷文晁にも学びましたが、後に崋山を慕い、師事するようになります。人物山水も描きますが、特に南田風の花鳥画にすぐれ、崋山の画風を発展させ、崋椿画系と呼ばれるひとつの画系を築くことになります。また、蛮社の獄の際には、椿山は崋山救済運動の中心となり、崋山没後は二男の諧(小華)を養育し、花鳥画の技法を指導しています。