田原の歴史 里帰り 川地遺跡出土品展
展示期間 平成18年12月14日(木)〜平成19年2月4日(日)

展示作品リスト
企画展示室2
資 料 名 説 明
旧石器時代のナイフ形石器 田原市で見つかった最も古い石器。 珍しい黒水晶製。
縄文時代中期の土器 川地貝塚のはじまりの土器です。
縄文時代後期〜晩期前葉の土器 この貝塚がもっとも栄えた時期に使われた土器です。
注口 土器破片 土瓶のような土器の注ぎ口の破片です。
縄文時代晩期以降の土器 渥美半島の貝塚で最も多く使われた土器です。
縄文土器の底部 植物の編み物の跡があるものもあります
磨製石斧 木の伐採や加工に使われた道具です。蛇紋岩製
石棒・石剣 マツリに使われたお祈りの道具。
石 鏃 狩猟のための弓矢の先。石材は様々な産地からきています。
石 錐 回転によって穴を開ける道具。
石 錘 魚を採るための網おもり。主に海の丸石を打ち欠いています。
叩 石 石のハンマー。
磨 石 製粉用、つぶす道具。
凹 石 加工用の石の台。
石 皿 加工用の石の台。
スクレーパー 肉等を切ったり、なめしたりする道具 チャート製
砥 石 石斧・骨角器などを磨く石です。
粗製剥片状石器 鋭く割れた部分を使って刃とし切断に使用した。
骨製ヘラ 地域によってはアワビおこしとも呼ばれています。
骨製ヤス これで、タイやスズキを突いていました。
椎骨製ペンダント トメさんが身につけたもの。魚・哺乳類製 計27個
川地の縄文人 通称 トメさん 熟年の女性
貝輪破片 ベンケイガイ製? 2点
貝 類 ダンベイキサゴ・オニアサリ・アサリ・ハマグリ・アカニシ・ツメタガイ・イボニシほか
動物骨 シカ イノシシ キツネ タヌキ イヌ クジラ類
魚 骨 マダイ タイ科 スズキ属 マグロ類 フグ科 サメ類

里帰り 川地遺跡出土品展によせて
 川地遺跡(貝塚)は、田原市亀山町に所在する縄文時代後期を中心とする貝塚遺跡です。渥美半島には国指定史跡吉胡貝塚、県指定史跡伊川津貝塚、保美貝塚、そして今回展示する川地貝塚など、縄文時代後期から晩期の大貝塚があります。これらの貝塚は明治時代から大正時代に調査が行なわれ、特に京都大学の清野謙次による縄文人骨発掘のための調査は、渥美半島の名を日本に知らしめる成果を収めています。川地貝塚は、古くは亀山貝塚と呼ばれ、当時、亀山小学校の校長斉藤専吉が発見しました。清野謙次は斉藤と知り合いでもあり、彼の発見した人骨片を見て、この地に縄文人骨が埋まっていることを確信しました。清野は大正11年に川地貝塚の本格的な調査を行い成果をあげ、続いて10月、翌年3月に吉胡貝塚の調査では、300体余の縄文人骨を発掘し、彼の原日本人説の主張の重要な資料となりました。このたび、平成5年度におこなわれた愛知県埋蔵文化財センター調査の出土資料が田原市に譲渡されたことを記念して展示するものです。

大正時代の調査 (京都大学清野謙次)
 大正11年1月5日〜10日にかけて調査をおこないましたが、わずか5日あまりで、26体の縄文人骨を発掘しました。出土遺物は、石鏃、石冠、石棒、磨製石斧、叩石、石皿、砥石、石錘、粗製刃器、椎骨製耳飾、骨製ヤス、骨製ヘラ、鹿角製鏃、貝輪が出土しています。一定量の骨角器が出土しているにもかかわらず、東海地方で多く発見されている根バサミが出土していないのが不思議です。
貝の構成は、アサリ、ハマグリ、カキが多いとされていますが、主体種は不明です。石器は、魚を採るため網錘に使う石錘が多いのが特徴です。特殊な遺物では、この地方では珍しい土面、土版、帽子状土製品が発見されています。埋葬人骨には抜歯が施されているのが確認されています。

●平成3年度調査 (渥美町教育委員会・調査面積360u)
 70年ぶりにほ場整備事業に伴い発掘調査が行われました。調査では埋葬人骨2体(保存不良)、縄文時代後期中葉を中心とした土器群、石鏃、石冠、石棒、打製石斧、叩石、石皿、砥石、石錘、サメ牙製垂飾等が出土しました。
 貝類では多い順にマガキ、アカニシ、オニアサリ、アサリ、ダンベイキサゴ等、哺乳類ではシカ、タヌキ、キツネ、オオカミが、魚類ではスズキ、マダイ、クロダイ、マグロ、サメが出土しました。人骨片も多く見つかっており、貝塚が壊される際に埋葬人骨も破壊されたことを物語っています。

●平成5年度調査 (財団法人愛知県埋蔵文化財センター・調査面積840u)
 県道建設に伴う発掘調査を行ないました。今回の展示資料はこの調査で出土したものです。人骨が1体発見されたほか、発掘中に人骨の破片(頭蓋骨3体分等)が確認されています。縄文時代中期から晩期末までの土器が出土しましたが、その主体は後期前葉から中葉に相当します。石鏃、石棒、磨製石斧、叩石、石皿、砥石、石錘、粗製刃器、骨製ヤス、骨製ヘラ、貝輪が出土しました。この時に発見された人骨は熟年の女性で、調査・整理に参加した人たちから、「トメさん」と呼ばれ親しまれていました。トメさんは椎骨製の首飾りをつけたおしゃれな熟年の女性でした。
貝類では多い順にダンベイキサゴ、アカニシ、アサリ、マガキ等が、哺乳類ではシカ、イノシシ、タヌキ、キツネ、クジラ類が、魚類ではスズキ、タイ、マグロ、サメも出土しました。シカ、イノシシが多いのは、他の貝塚と同様です。貝類では、太平洋岸に生息するダンベイキサゴ(通称ながらみ)が最も多いのは意外です。アサリ等も一定量出土していますが、壊された貝塚の貝であるのでこれが本来の貝の構成種であるかはわかりません。

●川地遺跡のひとびとのくらし
 県の調査では、縄文時代後期から晩期末までの土器が出ており、その遺物もこの時期に伴うものと思われます。ただし、大正時代の調査でも貝塚の貝層の大半は失われていますので、貝塚の下層に残った僅かな遺跡の一部が発掘されたことになります。したがって本来の貝塚はどの時期に主体をなしていたかは不明です。川地貝塚は、吉胡貝塚、保美貝塚、伊川津貝塚の三大貝塚が形成される前の重要な貝塚であることは間違いないですが、上層が削り取られていることを考えれば、吉胡・保美・伊川津貝塚と同時期に生活が行われていた可能性もあります。この問題は渥美半島の貝塚の成立を考える上で重要なことなので、今後しっかり研究する必要があります。また、大量に出土した円礫素材(海の丸石)の石錘、粗製石器群はこの遺跡だけで使われたものとは思えず、生産遺跡の可能性も考える必要があります。
川地貝塚の人びとは、吉胡・保美・伊川津貝塚の人たちよりいち早く貝塚を形成し、埋葬のための墓地も発達させました。また、内湾や外洋の魚介類を積極的に利用し、シカ・イノシシを捕獲していました。遺跡からは出土していませんが、ドングリや根茎類も利用し豊かな食生活の糧としていたに違いありません。特殊な土面などを使いマツリを行い豊かな精神生活を送っていたでしょう。

●付記 「川地貝塚」、「川地遺跡」どちらが正しいか?
 人びとが暮した痕跡という事実に着目したら、川地遺跡と呼ぶべきですが、川地貝塚は、遺跡の中で貝などを捨てた遺構部分に相当する「貝塚」に着目してつけられている名前です。川地遺跡は各時代にわたり人びとが暮した空間すべてを包んでいますので、妥当な間違いのない名称です。しかし、名前を見ただけで「縄文時代の貝塚」という遺跡の特徴を理解することができる点とこれまでの認知度、経緯を考えると川地貝塚と言うべきでしょう。その一方で、縄文時代だけでなく各時代の生活の事実を誤解する恐れもあります。結論的にはどちらも正しいといえますが、遺跡の台帳登録としては川地貝塚でなされています。

時  代 川地貝塚 田原市の遺跡
旧石器時代   約15000年前 宮西遺跡・山崎遺跡
縄文時代 草創期 約12000年前〜   佐藤遺跡、宮西遺跡
早期 約7000年前〜   宮西遺跡
前期 約5500年前〜   青津前田遺跡
中期 約4500年前〜  
後期 約3250年前〜 川地貝塚・八幡上遺跡
晩期 約2800年前〜 吉胡貝塚・伊川津遺跡・保美貝塚
弥生時代 前期 約2000年前〜   佐藤遺跡
中期 約1900年前〜   佐藤遺跡・宮西遺跡
後期 約1800年前〜   宮西遺跡・大本貝塚・椛銅鐸出土地
古墳時代 前期 約1700年前〜   柳原遺跡
中期 約1600年前〜   山崎遺跡
後期 約1500年前〜   山崎遺跡・藤原古墳・城宝寺古墳
飛鳥時代   約1400年前   佐藤遺跡

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