川地遺跡(貝塚)は、田原市亀山町に所在する縄文時代後期を中心とする貝塚遺跡です。渥美半島には国指定史跡吉胡貝塚、県指定史跡伊川津貝塚、保美貝塚、そして今回展示する川地貝塚など、縄文時代後期から晩期の大貝塚があります。これらの貝塚は明治時代から大正時代に調査が行なわれ、特に京都大学の清野謙次による縄文人骨発掘のための調査は、渥美半島の名を日本に知らしめる成果を収めています。川地貝塚は、古くは亀山貝塚と呼ばれ、当時、亀山小学校の校長斉藤専吉が発見しました。清野謙次は斉藤と知り合いでもあり、彼の発見した人骨片を見て、この地に縄文人骨が埋まっていることを確信しました。清野は大正11年に川地貝塚の本格的な調査を行い成果をあげ、続いて10月、翌年3月に吉胡貝塚の調査では、300体余の縄文人骨を発掘し、彼の原日本人説の主張の重要な資料となりました。このたび、平成5年度におこなわれた愛知県埋蔵文化財センター調査の出土資料が田原市に譲渡されたことを記念して展示するものです。
●大正時代の調査 (京都大学清野謙次)
大正11年1月5日〜10日にかけて調査をおこないましたが、わずか5日あまりで、26体の縄文人骨を発掘しました。出土遺物は、石鏃、石冠、石棒、磨製石斧、叩石、石皿、砥石、石錘、粗製刃器、椎骨製耳飾、骨製ヤス、骨製ヘラ、鹿角製鏃、貝輪が出土しています。一定量の骨角器が出土しているにもかかわらず、東海地方で多く発見されている根バサミが出土していないのが不思議です。
貝の構成は、アサリ、ハマグリ、カキが多いとされていますが、主体種は不明です。石器は、魚を採るため網錘に使う石錘が多いのが特徴です。特殊な遺物では、この地方では珍しい土面、土版、帽子状土製品が発見されています。埋葬人骨には抜歯が施されているのが確認されています。
●平成3年度調査 (渥美町教育委員会・調査面積360u)
70年ぶりにほ場整備事業に伴い発掘調査が行われました。調査では埋葬人骨2体(保存不良)、縄文時代後期中葉を中心とした土器群、石鏃、石冠、石棒、打製石斧、叩石、石皿、砥石、石錘、サメ牙製垂飾等が出土しました。
貝類では多い順にマガキ、アカニシ、オニアサリ、アサリ、ダンベイキサゴ等、哺乳類ではシカ、タヌキ、キツネ、オオカミが、魚類ではスズキ、マダイ、クロダイ、マグロ、サメが出土しました。人骨片も多く見つかっており、貝塚が壊される際に埋葬人骨も破壊されたことを物語っています。
●平成5年度調査 (財団法人愛知県埋蔵文化財センター・調査面積840u)
県道建設に伴う発掘調査を行ないました。今回の展示資料はこの調査で出土したものです。人骨が1体発見されたほか、発掘中に人骨の破片(頭蓋骨3体分等)が確認されています。縄文時代中期から晩期末までの土器が出土しましたが、その主体は後期前葉から中葉に相当します。石鏃、石棒、磨製石斧、叩石、石皿、砥石、石錘、粗製刃器、骨製ヤス、骨製ヘラ、貝輪が出土しました。この時に発見された人骨は熟年の女性で、調査・整理に参加した人たちから、「トメさん」と呼ばれ親しまれていました。トメさんは椎骨製の首飾りをつけたおしゃれな熟年の女性でした。
貝類では多い順にダンベイキサゴ、アカニシ、アサリ、マガキ等が、哺乳類ではシカ、イノシシ、タヌキ、キツネ、クジラ類が、魚類ではスズキ、タイ、マグロ、サメも出土しました。シカ、イノシシが多いのは、他の貝塚と同様です。貝類では、太平洋岸に生息するダンベイキサゴ(通称ながらみ)が最も多いのは意外です。アサリ等も一定量出土していますが、壊された貝塚の貝であるのでこれが本来の貝の構成種であるかはわかりません。
●川地遺跡のひとびとのくらし
県の調査では、縄文時代後期から晩期末までの土器が出ており、その遺物もこの時期に伴うものと思われます。ただし、大正時代の調査でも貝塚の貝層の大半は失われていますので、貝塚の下層に残った僅かな遺跡の一部が発掘されたことになります。したがって本来の貝塚はどの時期に主体をなしていたかは不明です。川地貝塚は、吉胡貝塚、保美貝塚、伊川津貝塚の三大貝塚が形成される前の重要な貝塚であることは間違いないですが、上層が削り取られていることを考えれば、吉胡・保美・伊川津貝塚と同時期に生活が行われていた可能性もあります。この問題は渥美半島の貝塚の成立を考える上で重要なことなので、今後しっかり研究する必要があります。また、大量に出土した円礫素材(海の丸石)の石錘、粗製石器群はこの遺跡だけで使われたものとは思えず、生産遺跡の可能性も考える必要があります。
川地貝塚の人びとは、吉胡・保美・伊川津貝塚の人たちよりいち早く貝塚を形成し、埋葬のための墓地も発達させました。また、内湾や外洋の魚介類を積極的に利用し、シカ・イノシシを捕獲していました。遺跡からは出土していませんが、ドングリや根茎類も利用し豊かな食生活の糧としていたに違いありません。特殊な土面などを使いマツリを行い豊かな精神生活を送っていたでしょう。
●付記 「川地貝塚」、「川地遺跡」どちらが正しいか?
人びとが暮した痕跡という事実に着目したら、川地遺跡と呼ぶべきですが、川地貝塚は、遺跡の中で貝などを捨てた遺構部分に相当する「貝塚」に着目してつけられている名前です。川地遺跡は各時代にわたり人びとが暮した空間すべてを包んでいますので、妥当な間違いのない名称です。しかし、名前を見ただけで「縄文時代の貝塚」という遺跡の特徴を理解することができる点とこれまでの認知度、経緯を考えると川地貝塚と言うべきでしょう。その一方で、縄文時代だけでなく各時代の生活の事実を誤解する恐れもあります。結論的にはどちらも正しいといえますが、遺跡の台帳登録としては川地貝塚でなされています。
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