●椿椿山 花卉屏風(かきびょうぶ) 嘉永4年(1851)
全十二図の押絵貼屏風である。これらの作品は、当時の花鳥画のスタンダードとも言うべきものばかりで、画題的には広義の吉祥的寓意を持つ花鳥画である。また、牡丹(国香春斎)は清初のヲ南田(1633〜1690)、竹石に小禽の描かれたものは明の陸包山(治・1469〜1567)に倣ったとする。当時の一般大衆の花鳥画に対する理想とするもの、すなわちこのような画題と誰々風のものを、といった要求に心憎いばかりのセットを用意し、応えたものと言えるだろう。この十二図の構成からは、右隻、左隻のそれぞれの判断は難しい。配列は、その二が季節的順序を保っているが、その一については特に認められない。色彩的には淡彩と水墨作品を交互に配列している。
これらの十二図屏風は、それぞれの単独でも一作品として鑑賞できるものでもあるため、後に改装され、掛幅装となる場合があり、このような当時の姿で残ることは少なく、椿山の花鳥画作品の基準となる貴重なものといえよう。
●渡辺崋山 牡丹図 天保12年(1841)
蛮社の獄後、在所蟄居の判決を受けた崋山は、田原の地で幽囚の日を送る身となります。崋山の画弟子福田半香らは、江戸で崋山の絵を売り、その収入によって恩師の生計を救おうとしました。この図は、その半香の義会の求めに応じて描いたもので、天保十二年に描かれ、評判となり、「罪人身を慎まず」との世評を呼び、田原藩主三宅康直に災いが及ぶことを畏れた崋山はついに死を決意することになり、「腹切り牡丹」と称されたものである。
この図は、没骨法という技法で描かれている。これは、輪郭線(骨法)を描かずに、水墨または彩色で対象を描き表す技法である。崋山は、陰影や遠近感を表現した西洋画の技法を取り入れた文人画家として、評価されるが、没骨法という東洋画の技法もよく研究している。鎖国下の江戸時代で、情報的に最も豊富なのは、中国で、武士の教養としての、儒学はもちろん、絵画として唐・宋・元・明の間に著された中国の画論・画史の書を入手して、研究を重ねていた。
賛に「牡丹は墨を以てし難し、墨を用い以て浅きは難し、淡々たる 脂を著し、聊以て俗眼に媚びる」とある。この意味は、「牡丹は水墨で描くのは難しい、墨を用いて浅く牡丹の濃艶な趣きを描くことは難しい、淡々としたべに色を用い、いささか俗人の眼に入るような牡丹を描いた」というところであろう。賛文の後に朱文方印の「渡辺登印」が押されている。また、この作品に付属の巻止は、旧所蔵者の林董氏(はやしただす 1850〜1913)によって書かれている。董氏は、香川・兵庫県知事を歴任後、明治35年の日英同盟の締結交渉に外交官として活躍、同39年には、第一次西園寺内閣の外相となり、日韓・日仏・日露協約の締結にあたり、その功により伯爵に叙せられた。この作品は、昭和15年9月27日に重要美術品の認定を受けている。
●谷文晁 [たに ぶんちょう] 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)
字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人谷麓谷(1729〜1809)の子として江戸に生まれ、中山高陽(1717〜1780)の門人渡辺玄対(1749〜1822)に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身で寛政の改革を行う老中松平定信(1758〜1829)付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、『石山寺縁起絵巻』の補作、また定信の御用絵師を勤めた。
明清画を中心に中国・日本・西洋などのあらゆる画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p(1796〜1843)、立原杏所がいる。
●渡辺崋山 [わたなべ かざん] 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。
●椿 椿山 [つばき ちんざん] 享和元年(1801)〜安政元年(1854)
椿山は享和元年6月4日、江戸に生まれました。幕府の槍組同心として勤務するかたわら、崋山と同様に絵を金子金陵に学び、金陵の死後、谷文晁にも学びましたが、後に崋山を慕い、師事するようになります。人物山水も描きますが、特に南田風の花鳥画にすぐれ、崋山の画風を発展させ、崋椿画系と呼ばれるひとつの画系を築くことになります。また、蛮社の獄の際には、椿山は崋山救済運動の中心となり、崋山没後は二男の諧(小華)を養育し、花鳥画の技法を指導しています。
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