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●稲垣錦荘[いながき きんそう]1894年(明治27)〜1969年(昭和44) |
明治27年、西尾市に生まれる。本名は幸吉。雅号を錦荘、錦箒、錦箒庵などと称し、尾張南画の流れを受け継ぐ画人である。明治43年、山本石荘に師事するも、その資質により、父・梅荘に指導が委ねられる。大正7年、大阪の籾山衣洲より漢学・詩文を学び、同10年には、京都に移り橋本関雪に師事。翌年の帝展初入選以来、全国規模の展覧会に20数回の入選を果たす。昭和20年、詩文添削の師服部担風を慕って津島市、同35年には、豊田市に移住し、悠々自適の生活を送る。渥美には、大正末期から昭和初期を中心に、度々来訪し、堀切、日出海岸など、主に太平洋岸の風景を数多く描く。中でも日出の石門は、彼が最も好んで描いた作品の一つ。昭和44年、逝去。平成8年、渥美町郷土資料館で「稲垣錦荘展」開催。 |
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●道家珍彦[どうけ うずひこ]1934年(昭和9)〜 |
昭和9年、名古屋市に生まれる。昭和28年、旭丘高校美術科卒業。同年新制作展に初入選。その後、愛知学芸大学に進み、日本画を学ぶ。卒業後は、尾張地方の小・中学校で美術教師をしながら作画活動。昭和38年、中美展で奨励賞。昭和40年には、白士会展で白士会賞、翌年白士会会員となる。我妻碧宇に師事。以後、白士会展を中心に出品を続けるほか、名古屋、東京、豊橋などで個展を開催。昭和47年、シルクロード踏査旅行を契機に「シルクロードをゆく」シリーズ化(T〜]Uまで)。昭和55年、渥美の自然風景に魅かれ、名古屋より渥美町堀切(現、田原市堀切町)に移住。平成4年、個展「渥美をかく」を東京紀伊国屋画廊で開催後、シリーズ化(T〜Xまで)。平成5年、渥美町郷土資料館で「道家珍彦個展」、平成10年には、「渥美をかく自選展」を同館にて開催。現在渥美の風景を画材に活躍する画家の第一人者である。 |
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●永井繁男[ながい しげお]1927年(昭和2)〜 |
昭和2年、豊橋市に生まれる。昭和19年、豊橋市立商業学校を卒業後、2年間従軍し終戦復員。昭和25年、中村岳陵に師事し蒼野社に入門。同年、日展に初入選(以後9回入選)を果たす。昭和35年、蒼野社を脱退。その翌年に我妻碧宇・浅田蘇泉・伊東隆雄・森緑翠らと白士会を結成する。以後、白士会展を中心に出品を行うほか、東京・名古屋などで個展を開催。昭和61年より「風景の会」絵画展に出品を続ける。平成8年、桜ヶ丘ミュージアムギャラリーにて「永井繁男展」開催。渥美半島の海岸風景を愛し、特に冬の西北風や台風接近で波立つ三河湾や表浜の海岸を好んで写生し、多くの作品を残している。 |
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●平川敏夫[ひらかわ としお]1924年(大正13)〜2006年(平成18) |
大正13年、宝飯郡小坂井町に生まれる。昭和15年、京都の稲石着尺図案塾に入門するも翌年、太平洋戦争が始まり帰郷。昭和22年、我妻碧宇の新日本画研究会で中村正義らとともに学ぶ。昭和25年、豊橋美術展で豊橋市長賞、創造美術展に初入選を果たす。翌年には、創造美術が新制作派協会と合併し新制作協会日本画部となる。以後、同展に出品する。昭和29年、新制作展で新作家賞を受賞(33、37年も受賞)し新制作協会協友、昭和38年には、新制作協会会員となる。昭和49年、新制作協会日本画部が創画会として独立すると会員となり、同展に毎年出品。昭和56年の中日文化賞をはじめ数多くの賞を受賞。平成2年、豊橋市美術博物館で「平川敏夫展」を開催。平成7年、創画会運営委員長。平成16年には、桜ヶ丘ミュージアムで「幽艶なる樹々の鼓動−平川敏夫展」を開催。当初、樹木の生命力を象徴する独自の画風を確立、やがて色彩を排した水墨の世界へと移行した。渥美風景を取材して描かれた作品を多く発表。平成18年5月、逝去。 |
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●細井文次郎[ほそい ぶんじろう]1893年(明治26)〜1951年(昭和26) |
明治26年、碧海郡矢作町(現、岡崎市大和町)に生まれる。大正2年、東京美術学校西洋画科で和田英作、研究科に進み黒田清輝の指導を受ける。大正7年、同校の卒業制作が文部省買上げとなる。同年、志願兵として入隊するも翌年除隊し三重県木本中学校の美術教師となる。大正10年、成章中学に赴任し小澤耕一の自宅に下宿。大正15年、豊橋を中心とする東三河の洋画家24名により結成された豊橋洋画協会に参加。昭和2年、豊橋行幸の昭和天皇に供すべき風景画を制作するため伊良湖岬村へ出張。昭和8年には、自らが顧問となり小澤耕一らとともに田原画会を結成(以後、昭和18年までに8回の画会を田原中部小学校で開催)。昭和10年、愛知商業学校(現、愛知商業高校)へ転任。その後、郷里の岡崎高等女学校(現、岡崎高校)に勤務。昭和26年、逝去。成章中学在職中に多くの後進を指導し、当地方の文化振興に貢献。風景画をはじめとする多くの作品を残している。 |
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●島田卓二[しまだ たくじ]1885年(明治18)〜1946年(昭和21) |
明治18年、宝飯郡一宮町に生まれる。明治38年、愛知県立第四中学校(現、時習館高校)卒業。翌年、黒田清輝に師事し白馬会洋画研究所で学ぶ。大正元年、文展に初入選。その後、院展や国展にも入選する。大正13年、関東大震災により豊橋に帰郷。大正15年には、在郷洋画家24名による豊橋洋画協会を結成し、その中心として活躍。作品には、和明・泰光の号を用いた。昭和21年、逝去。東三河の風景(赤羽根海岸など)を題材とした明るい色彩と確かな技術により描く外光派的な風景画が多く見られる。 |
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●伊藤清永[いとう きよなが]1911年(明治44)〜2001年(平成13) |
明治44年、兵庫県出石町に生まれる。大正12年、名古屋市曹洞宗第三中学林(愛知中学校)入学。昭和3年、中学時代の恩師の紹介により岡田三郎助に師事する。昭和8年、東京美術学校在学中、帝展に初出品し初入選。昭和11年の文展で選奨(特選)受賞。昭和22年、兵庫県立出石高等女学校の図画教員となり、同年の日展で特選を受賞。翌年、東京杉並に戻り、日展にて特選を連続受賞。昭和28年、伊藤絵画研究所を創設し、絵の指導をはじめる(昭和47年閉鎖)。昭和52年、日本芸術院恩賜賞を受賞し、文部省買い上げとなり日本芸術院に作品が所蔵される。同年、日展理事。昭和61年、白日会会長。平成3年、文化功労者表彰、日展顧問となる。平成8年、文化勲章受賞。平成13年、卒寿記念展を東京・名古屋などで開催するも同年、逝去。渥美半島には、昭和34年頃より度々来訪し、当時半島随一の観光名所となっていた日出の石門にあった旅館に滞在し作品を残した。 |
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●浅田蘇泉[あさだ そせん]1911年(明治44)〜2001年(平成13) |
明治44年、名古屋市に生まれる。本名は正次郎。はじめ一江芳秋に学び、のち鯉の絵を得意とする松田杏亭に師事する。この影響により自身、鯉の絵を多く描く。昭和21年、満州より復員し渥美町福江(現田原市福江町)に居を構える。翌年、中村岳陵に師事し蒼野社に入門。昭和23年、日展に初入選(以後12回連続入選)、さらに翌年には院展にも初入選を果たす。昭和35年、蒼野社を脱退。その翌年に我妻碧宇・伊東隆雄・永井繁男・森緑翠らと白士会結成。白士会展を中心に出品を続けるほか、名古屋・東京・豊橋などで個展を開催。昭和61年、渥美町郷土資料館特別展「郷土の画人展」に出品、平成3年には同館で「傘寿展」を開催。渥美を拠点に作画活動をした先駆者的存在である。平成13年、逝去。 |
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●冨安昌也[とみやす まさや]1918年(大正7)〜 |
大正7年、豊橋市に生まれる。昭和12年、東京美術学校油画科で藤島武二に学び、同16年卒業し従軍。昭和22年より豊橋中学校で美術教師をつとめながら豊橋文化協会理事となり多方面にわたり活躍。昭和26年、日本水彩展で初入選し三宅氏賞を受賞。同年、同会会員となる。以後、日本水彩展に出品を続けるほか、豊橋美術展、豊橋市民展などに出品、個展等も多数開催。昭和39年、教職を退き中部デザインセンターを設立。平成3年、日本水彩展で内閣総理大臣賞受賞。翌年、日本水彩画会評議員となり、平成6年には、同会理事。平成5年、豊橋文化賞受賞。平成9年、豊橋市美術博物館協議会会長となる。平成12年、豊橋市美術博物館で「冨安昌也展」を開催。平成15年、豊橋市勢功労者表彰。平成17年、東日賞受賞。平成18年、米寿をむかえ、なお精力的に活動を続ける豊橋を代表する画家の一人である。 |
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●白神和彦[しらかみ かずひこ]1952年(昭和27)〜 |
昭和27年、神戸市に生まれる。昭和40年、朝日美術展で特選、翌年同展に入選。昭和47年、芦屋芸術学院卒業、その卒展で院長賞を受賞。同年よりそごう神戸店に入社、グラフィックデザイナーとして働きながら水彩画を中心に芸術活動。昭和49年、神戸市展で3席。平成4年、豊田美術展で豊田市観光協会課題賞を受賞。平成12年には、豊田市民美術展で奨励賞。翌年、豊田市より渥美町保美(現、田原市保美町)へ移住。平成14年より自宅アトリエにて渥美なのはな絵画教室(のちクラブと改称)を開設。平成15年、岡崎にて初の個展を開催。翌年、伊良湖ビューホテルにて個展。平成17年、田原市新市章デザイン最優秀賞を受賞、市章として採用される。現在、渥美を拠点に画家としての活動を展開。 |
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●藤森兼明[ふじもり かねあき]1935年(昭和10)〜 |
昭和10年、富山県砺波市に生まれる。金沢美術大学卒業。高光一也に師事する。光風会理事にして日展の評議員を務める。平成16年、日展で内閣総理大臣賞を受賞。現在は、名古屋市千種区に在住し活躍する洋画家である。 |
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●高橋道雄[たかはし みちお]1908年(明治41)〜1979年(昭和54) |
明治41年、北海道網走市で生まれる。旧制網走中学校を卒業後、洋画家を志し上京。昭和10年、東京美術学校卒業後、富山県で教職に就きながら制作活動を続ける。戦後、愛知県の高校で美術教師として勤務。昭和12年、光風会展で奨励賞受賞。昭和21年、光風会会員となる。同年、中部日本美術協会展で市長賞受賞。昭和23年には、小川博史・幸島重雄・高木春太郎と研究グループ「四樹会」を結成する。昭和30年、大潮会展で文部大臣賞奨励賞を受賞。昭和35年、日展審査員となる。昭和38年、パリを中心にヨーロッパ各国へ美術研究のため外遊し、翌年帰国。昭和43年、再び渡欧。昭和53年、フランスのル・サロン展で金賞受賞。昭和54年、逝去。 |