展示期間 平成18年10月27日(金)〜平成18年12月10日(日) |
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※ 期間中、展示を変更する場合がございます。
※また展示室は作品保護のため、照明を落としてあります。ご了承ください 。
●三宅康直宛書簡 渡辺崋山 天保8年 |
上(裏端書) 不被成処、見放かたき御領中困窮
(注1)御滞邑 藩主が国元に滞在すること。 |
●三宅友信侯宛答問 渡辺崋山 天保9年月日不明 |
崋山がぶどう酒について解答をしています。 蘭学のパトロンであり、パートナーである友信侯の日課の学問について、その心構えを述べています。 不二存寄一ウヱーン頂戴、難レ有奉レ存候。此ハ葡萄酒ト奉レ存候。乍レ恐少々水ヲ割候品歟、或ハ又如レ此薄酒歟、弁ジカネ候得共、未コレヨリハ少シ濃品有、苦味モ甚敷候。私は至テ好ミ候テ、此マヽ頂戴仕候ハ不得手ニテ、コレへ砂糖ヲ少シ攪l(カクイン)致、滾湯(コントウ)ヲ以適意ニ宜程注入仕候得ば、第一ニ葡萄ノ味香気発揚、尤妙ニ御座候。洋人モ薬養等ニハ如レ此候ヨシ。崎人(キジキ)ナドハ右ニ馴レ、上戸(ジョウゴ)ハ此儘四五陶モ倒シ、飲宴常ニ御座候ヨシ。コレ全呑ナレ酔ヲ取ルニ急ナル故ト被レ存候。トニカク私用ユルコトハ、長夏午眠ノ初、寒燈読書ノ倦(テカレ)、大ニ其補益ヲ覚、血気順環仕、誠ニ難レ有奉レ願候。大低(抵)小盞(セン)二椀ニテハ酒(シュ)暈(ウン)面ニ上り申候。一椀にて適宜ニ御坐候。奉二拝謝一候。 一、此節事物韵編(インペン)、ソムメル・リセラント御日課ノヨシ、誠ニ御英遇(邁)奉二感伏一仕候。私考左ニ申上候。事物韵編ハ御一生ノ御業也。事博ク労多シテ全体貫通ノ照応精考無レ之、譬バ老吏ノ名ヲ取テ獄ヲ断ジ候如ク、其断(ダンズル)モノハ其庭ニ無レ之シテ、却テ薄令査(ボレイサ)照(ショウ)ニ在レ之如クニ御座候。陳子龍(チンシリュウ)ノ格物鏡原、方以(ホウイ)智(チ)ノ通(ツウ)雅(ガ)、大ニシテ天中記、事物類聚(ルイジュウ)、淵函(エンカン)、韵府(インプ)ノ類、皆他ノ著作ノ余波積テ、不レ知く此大編ヲ成候モノ也。殊韵府、類函ハ皆一時儒臣ニ命ジ成候モノ、唯其労ノミニ御坐候。コレヲ以、事物韵編ハ御日課ト申ニハ無レ之シテ、一日モ御記録無レ之ハ無レ之、摘出シテ人ニ命ジ候テモ可レ然候歟。 ○唯リセラント・ソムメルハ著者ノ微意一章一句通編ニ相係候。内ニモリセラントハ人身窮理歟、小ナルモノ故、粋精玄微猶更ト存候。ソンムル(ソムメル)ハ大ナルモノ故、コレト比スレバ粗大ナレドモ、我国ノ人実徴致がたく、其間学語モ古語モ可レ有レ之候故、すべて釈書ハ義理ヲ以テ迎ヘ解セザレバ通明仕がたく、サレドモ一章くニ前後ヲ顧ミ、一語転倒ノ間照応多ク、一書釈成ノ後又通編ヲ再応改正不レ仕バ、始メ苦渋ハ却而容易ニて、容易ナル却テ苦渋、必?錯可レ仕候。依レ之先一章くニアラく釈シトリ、早ク一編ヲ了リ、再応ノ研磨ニ精力可レ致候事歟。然バ其間不レ知く事物韵編ハ出来可レ申候。 一、人生大低(抵)百年ト致候処、三万六千日也。生レ出テ十五年ヲ去リ、又七十ヲ大老保養ノミト致セバ、中五十計なるべし。日数一万八千日、一日一枚ヲ書シ百枚一冊ト致候得ば、一百八十冊ト相成、五十枚一冊ト致三百六十冊、誠ニ僅ニ御坐候。古今著書ノ大ヲ考レバ、先史・漢一百三十巻、皆一人ノ手ニ相成候。温史(オンシ)二百九十巻、史緯(シイ)三百三十巻、通典(ツデン)二百巻、文献通考三百四十八巻、石倉(セキソウ)歴代詩五百六巻、明文海四百八十 二巻、石倉已上ハ皆著述、以下ハ皆撰集、撰集は集メ易ケレドモ、其博(ヒロカ)ラザルニ苦ム。同撰類ニハ太平御覧一千巻、冊府元亀同断、尤大ナルハ永楽大典二万八百七巻、目六 (録)計(バカリ)も六十巻、コレハ拠リ申ニハ不レ足候得共、大低一人ノ力二三百ヲ限リ申候。 日本ノ大ナルハ白石一人ニて三百部、私朋友取ニ不レ足ものなれども、其精力ニすぐれ たる南畝、抄録・文集総テ四百巻も有レ之、其間人の求ニ応ジなど、応接繁多ナル中ニ テ如レ此。又馬琴ノ鄙業(ヒギョウ)にても一部五冊位ノ著三百二三十巻ニ及候。是又抄録ノモノ凡 百五六十巻も有レ之候。皆一日五六枚ノ録ニ無レ之候テハ不レ能候。大低(抵)其人ヲ見 ルニ、天野定(信)景、塩ジリ残本計も二三百巻も有レ之。近来本居ノ類、儒家ニ東涯・貝原ノ類、精力古人ニ不レ劣候。コヽヲ以トクト御考、御後来御定メ、御春秋ニ御ホコリ被レ遊間敷候。 一、私音韵甚闇(クラ)ク、急ニ御答出来不レ申候。○ムン ムハ唇、ンハ鼻舌、何様ンハ去声(キョセイ)ニ モ候哉。ムハ入声ナレバ、申サバ沃((ヨク))ヲ沃((ヨウ))トモ音出候。此沃ハヨ(○)ム 宋此ハソンなれバ(ば)束木爾((ソムムル))ニテ可レ然候歟。ソク音ノソウト相成候モノ、皆ソムニテ可レ有レ之候歟。リユソン呂宋(LUSON)如レ此なれバ、宋ハ当リ不レ申候。イヅレニモソクと申ニ無レ之テハ、的当ニ無レ之候。束・促いづれ又考差上可レ申候。 一、定平事ハ、申サバ閣下ハユニフルシティテンノプロヘッソーレンとやらニテ、定平 ハスチデンテンプロヘッソーレンの如キモノカ。何レニモソルダートに終リテハ遺憾。高氏ノ学、伍長ニ限、隊将ハ未ナルベシ。御厚思所レ願候。 一、信州蕎未レ試、定メシ不味恐((美味ノ誤カ))入候。老母誠以難レ有、其喜ビ幽谷ノ春風度(〈ママ〉)リ候如クニ御座候。恩謝無量。菫皇菫言 御使ヲ待セ匆々恐入候。即刻 |
●参考太平記 |
『太平記』は軍記物語で、北条高時失政・建武中興をはじめ、南北朝時代の争乱の様子を和漢混交文で紹介している。太平記には多くの注釈書が刊行されています。三宅家の祖は南朝の忠臣であった児島高徳とされ、藩には『太平記』の参考図書も御納戸書籍として保管されていました。 |
●千字文 江戸時代 |
中国六朝の梁(502〜557)の時代に作られた韻文(いんぶん)で、四字一句、250句千字で成り立っています。学問の学び始めの教科書、または習字の手本として広く知れわたっています。 |
●渡辺崋山[わたなべ かざん] 寛政5年(1793)〜天保12年(1841) |
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれた。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えた。天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となった。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしたが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃した。 |
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平成18年12月14日(木)〜平成19年2月4日(日)
●渡辺崋山の家族〜渡辺如山没後170年(特別展示室)
如山(1816〜1837)は崋山の末弟で、椿椿山に絵を習いますが、若くして亡くなっています。
●田原の歴史〜市指定文化財を中心に(企画展示室1)
市指定文化財は100件に上ります。重要美術品も展示
●田原の歴史〜川地遺跡(企画展示室2)
「帰ってきた縄文人!! 川地遺跡資料」を展示
※12月12日(火)〜13日(水)は展示替のため臨時休館
田原市博物館/〒441-3421 愛知県田原市田原町巴江11-1 TEL:0531-22-1720 FAX:0531-22-2028 URL: http://www.taharamuseum.gr.jp |