●松林桂月[まつばやし けいげつ] |
明治9年(1876)〜昭和38年(1963)
山口県萩市に伊藤篤一の次男として生まれた。名は篤。明治27年(1894)に上京、野口幽谷に師事した。同31年に幽谷門下の松林雪貞と結婚し、松林姓を名乗るようになる。明治41年第2回文展から出品し、第5回から第8回まで連続三等賞を受賞する。昭和8年(1933)帝国美術院会員、同19年帝室技芸員となり、同33年文化勲章を受章。近代日本南画界を代表する作家である。
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●松林雪貞[まつばやし せってい] |
明治13年(1880)〜昭和
雪貞は野口幽谷の画塾「和楽堂」で、桂月と同門であった。明治41年(1908)に「秋圃図」が文展に入選している。桂月と結婚後は展覧会への出品も減っていくが、椿椿山から野口幽谷に引き継がれる写生を重視したしなやかで、伸びやかな女性らしい描線と色彩で描かれる。 |
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●河鍋暁斎[かわなべ きょうさい] |
天保2年(1831)〜明治22年(1889)
日本画家。下総国古河(茨城県)に生まれ、幼少時に一家で江戸に移った。はじめ浮世絵師歌川国芳に入門し、天保11年(1840)に狩野派の前村洞和、ついで狩野洞白に師事した。安政年間末ごろから、狂画(漫画)を描きはじめ、狂斎と号するようになった。卓抜した描写力とユーモアの感覚に加え、狩野派と浮世絵を折衷した表現は、新しい絵画として広く受け入れられた。明治3年(1870)、ある画会でえがいた席画が政府要人を誹謗したとして投獄され、翌年放免されたのちに狂斎を暁斎とあらためた。81年第2回内国勧業博覧会で妙技2等賞を受賞。ギメ美術館の創設者エミール・ギメが画家レガメーとともに訪れたり、イギリス人御雇建築家コンドルが入門するなど、欧米人の間で評価が高かった。晩年には、ふたたび狩野派の画法にならう作品をえがいている。 |
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●椿 二山[つばき にざん] |
明治6・7年(1873・74)頃〜明治39・40年(1906・07)
椿山の孫で、父は早世した華谷に代わり家督を相続した椿山の四男椿和吉である。椿山の画塾琢華堂を継いだ野口幽谷(1827〜1898)に学んだ。明治時代前半に、世界からの遅れを取り戻そうと洋風化政策を進めた日本では伝統美術は衰亡した。日本固有の美術の復興をはかることを目的とした日本美術協会ができ、美術展覧会を定期的に開催し、日本の美術界の中心的存在であった。その日本美術協会美術展蘭会で、明治27年『棟花雙鶏図』で褒状一等を、同28年『池塘眞趣図』で褒状二等、同29年『竹蔭闘鶏図』で褒状一等、同30年『蘆雁図』で褒状一等、同31年『闘鶏図』で褒状一等、同33年『秋郊軍鶏図』で褒状三等、同35年『驚寒残夢図』で褒状一等、同36年『梅花泛鳥図』で褒状一等を受賞している。
号「二山」は幽谷から明治30年6月に与えられた。『過眼縮図』には、野口幽谷の画塾和楽堂の様子がうかがい知られる貴重な資料である。 |
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●小山栄達[こやま えいたつ] |
明治13年(1880〜)昭和20年(1945)
歴史画家。東京出身。洋画と日本画の両方を学び、東京勧業博覧会、日本美術院等で褒状。明治38年、戦画博覧会を開催し、注目を集める。芸術社を創立。文展、帝展で活躍。田端434、325番地に居住。 |
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●富岡 鉄斎[とみおか てっさい] |
天保7年(1836)〜大正13年(1924)
京都に法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。はじめ猷輔を通称とし、のちに道昴・道節と称し、明治のはじめには鉄斎を名としたこともあるが、のち百錬を戸籍上の名とし、字を無倦、号を鉄斎とした。石門心学、漢学、国学、陽明学、詩文、勤王思想などを学ぶとともに、生涯2万点にものぼる絵画を描いた。明治のはじめ一時神官に就いたが、明治5(1882)年京都に帰ったのちは集成、学者文人として画作三昧の生活を送った。「決して意味のないものは描いていない」という言葉に示されるとおり鉄斎の絵は幅広い知識を背景にしたものが多く、明清画の系統をひく文人画を軸に、大和絵、狩野派、琳派、大津絵など様々な流派の技法を加え、独自の画境を作り上げている。自由奔放な描線、独特の人物の表情、大胆な構想、それまでにない色彩感覚や造形感覚など魅力ある作品を次々と世に出した。その生き生きとした鉄斎の芸術は80歳を過ぎても衰えを知らず、むしろ80歳代になってますます冴えをみせたが、90歳を迎える前日大正13年12月31日に没した。 |
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●田能村直入[たのむら ちょくにゅう] |
文化11年(1814)〜明治40年(1907)
岡藩大分竹田出身。幕末、明治の南画家。大分竹田の駅に着くと線路に沿って川があり、手前街寄りを竹田(たけだ)といい、対岸を直入(なおいり)と言う。竹田(ちくでん)の弟子とて同郷の三宮(みつみや)伝太が後に田能村姓を名乗ったとされる。号は直入、小虎山人、笠翁、青椀漁老、飲茶庵主人がある。字は顧絶。京、大阪は文人煎茶趣味の一つの中心でありしかも竹田、山陽、木米が活躍した化政期から蓄積された清玩清具形式も整い、数寄者も増えた時、文久2年(1862)大阪の淀川河畔桜宮一体で大煎茶会が展開された。世に言う[青湾茶会]である。発起人主催者として絶大な名声を得た。明治に入り京都府立画学校設立に参画し摂理(校長)に就任。日本南画協会を設立するなど活躍する。精力的で多彩な建筆は山水、花木草、人物、鳥獣と多くの作品を残し、富岡鉄斎等と明治の文人煎茶趣味人の先頭に立った。明治40年1月11日91歳で没する。 |
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●木戸 孝允[きど たかよし] |
天保4年(1833)〜 明治10年(1877)
維新の元勲政治家。いわゆる「長州閥」の巨頭。幕末)には、桂小五郎(かつらこごろう)として知られていた尊皇攘夷派の中心人物。薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに、維新の三傑として並び称せられる。吉田松陰の弟子、長州正義派の長州藩士、江戸練兵館塾頭の剣豪、留学希望・開国・破約攘夷の勤皇志士、長州藩の外交担当者、長州藩の指導者、長州藩庁政務座の最高責任者として活躍する。維新を総裁局顧問専任(実質的な初代宰相)として迎えた。文明開化を推進する一方で、版籍奉還・廃藩置県など封建的諸制度の解体に務め、薩長土肥四巨頭の参議内閣制を整えた。海外視察も率先して行い、帰朝後は、兼ねてから建言していた憲法や三権分立国家の早急な実施の必要性について政府内の理解を要求し、他方では新たに国民教育や天皇教育の充実に務め、一層の士族授産を推進する。長州藩主毛利敬親、明治天皇から厚く信頼される。純粋で律儀、地に足の着いた開明派巨頭であったため、政策や手法を巡っておよそ心外の権力闘争が繰り返され続ける明治政府の中にあっては、結局、最期まで、心身を害するほどの精神的苦悩が絶えなかった。西南戦争の半ば、出張中の京都で謎の脳病再発により死の病床に就き、もうろう状態の中でも西郷と明治政府双方の行く末を案じながら、息を引き取った。
桂小五郎
「木戸」姓以前の旧姓は、15歳以前が「和田」、15歳以後が「桂」である。小五郎、貫治、準一郎は通称名である。「小五郎」は生家和田家の由緒ある祖先の名前であり、五男という意味ではない。長男である。 「木戸」姓は、第2次長幕戦争前(慶応2年、1866)に藩主毛利敬親から賜ったものである。それ以降、それまでの「桂」姓に替えて使用し始める。 「孝允」名は、桂家当主を引き継いで以来の諱(いみな)を兼ねた桂家当主としての名前であったが、戊辰戦争終了の明治2年(1868年)、腹心の大村益次郎と共に東京招魂社(靖国神社の前身)の建立に尽力し、近代国家建設のための戦いに命を捧げた同志たちを改めて追悼・顕彰して以降、自ら諱(いみな)のはずの「孝允」を公的な名前として使用するようになる。 雅号としては、「木圭」「猫堂」「松菊」「鬼怒」「広寒」「老梅書屋」「竿鈴」「干令」などがある。名前の大まかな推移は、和田小五郎(元服して正式に桂家を継ぐまで)→桂小五郎(15歳以降)→木戸貫冶(33歳)・木戸準一郎(33歳以降)→木戸孝允(36歳以降)である。43歳(年齢はいずれも満年齢)で逝去してからは「松菊木戸孝允」「木戸松菊」あるいは「松菊木戸公」とも呼ばれている。 |
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●小野湖山[おの こざん] |
文化11年(1814)〜明治43年(1910)
漢詩人・書道の大家 本名 横山巻。
文化11年(1814)、旧田根村高畑に横山玄篤の長男として生まれ、初めは医学を志したが、次弟の経史は詩に傾倒する。吉田藩に仕え、維新の功によって廃藩後は悠々自適して、詩を作った功績により從五位に叙せられ(湖山詩)湖山老後詩など沢山の詩、著作が残されている。 |
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●滝和亭[たき かてい] |
天保13年(1842)〜- 明治34年(1901)
南画家。江戸生。名は謙、字は子直、別号に蘭田。大岡雲峰・鉄翁祖門に学ぶ。帝室技芸員。明治34年(1901)歿、72才。 |
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●竹内栖鳳[たけうち せいほう] |
元治元年(1864)〜 昭和17年(1942)
最初は棲鳳と号した。近代日本画の先駆者で、戦前の京都画壇を代表する大家である。第1回文化勲章受賞者。1877年に四条派の土田英林に絵を習い始めるが、17歳の時に同派の名手として知られた幸野楳嶺の私塾へ正式に入門する。この頃から頭角を現し、翌年には私塾の工芸長となり、また「楳嶺四天王」の筆頭と呼ばれるようになる。23歳の時(1887)に結婚し、これを機に絵師として独立する。1889年には京都府画学校に出仕し、京都の若手画家の先鋭として名をあげてゆく。また36歳の時には、7か月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受けた。49歳の時(1913年)に「帝室技芸員」に推挙されることで、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立した。昭和に入っての戦時下では軍部に協力の姿勢をとっていたが、終戦前の1942年に78歳で死去した。その画風は四条派を基礎としていいるが、狩野派の他に西洋の写実画法などを意欲的に取り入れており、革新的な画風を示すことで日本画の革新運動の一翼を担った。時として守旧派からは「鵺派」と呼ばれて揶揄されたが、大画面を破綻なくまとめる確実な技量のみならず、その筆法には悠然たる迫力を備えており、近代を代表する大家であることは異論が無い。また弟子の育成にも力を入れており、上村松園のほか高名な弟子が多い。 |
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●藤井達吉[ふじいたつきち] |
明治14年(1881)〜昭和39年(1964)
1881年に棚尾村の源氏で生れた。11歳で木綿問屋に奉公に行き、その後、名古屋の服部七宝店に勤務し、工芸の研究を始め、1905年に上京した。そして、仕上げの巧みさを誇る当時の工芸の作風に疑問を抱き、生活と結びついた創造的な作品を作った。また、文展に工芸部門を設置しようと奔走したが、己の名誉のために活動していると中傷を受け、このため、50歳のとき中央での制作と著述活動の一切から退き、独自の活動を展開した。そして、絵画、図案、工芸、書、歌を結合させた継色紙の世界を完成させ、自身の芸術の帰結とした。
1945年に愛知県西加茂郡小原村に疎開し、戦後まで村の青年に和紙工芸を指導した。1950年、新川の道場山に移り、焼き物の研究をし、また、達吉の美術工芸の創作活動が実を結び、小原村に県下初の農村美術館が建設された。1954年、美術工芸品1000余点を愛知県に寄贈しました。1962年、4回目の四国巡礼の旅に出て、歌集『遍路』を出版したが、1964年に岡崎市民病院で83歳の生涯を閉じた。
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●木村荘八[きむら しょうはち] |
明治26年(1893)〜昭和33年(1958)
洋画家。東京生。白馬会洋画研究所に学び、岸田劉生とフューザン会・草土社を結成する。のち春陽会創立会員となる。小説の挿絵に名を馳せ、随筆家としても著名で、『東京繁昌記』の画文は芸術院恩賜賞を受ける。また邦楽評論家としても知られた。
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●中澤弘光[なかざわ ひろみつ] |
明治7年(1874)〜昭和39年(1964)
日向佐土原藩士の長男として東京の芝に生まれる。熱心な仏教信者であり、和歌に通じていた祖母の存在や、与謝野鉄幹との出会いが、中澤の画題の大きな柱である文学と仏教に影響を与えている。明治20年から曾山幸彦、堀江正章に師事し、イタリア式のデッサンや人物画を深く学ぶ。フランス印象派の色彩についての情報などもこの頃から得ていた。明治29年東京美術学校西洋画科に入学。黒田清輝に師事し、黒田が中心となった白馬会創立に参加、同展に出品を続ける。明治45年に光風会、大正2年(1913)に日本水彩画会、昭和13年(1938)に白日会を結成。それぞれ出品を続けた。明治33年に東京美術学校を卒業後、同年のパリ万博に≪猿廻し≫を出品。明治40年の東京勧業博覧会に≪嵐のあと≫を出品して1等賞となる。同年の第1回文展から出品を続けて受賞を重ね、明治43年からは同展審査員。文展、帝展、日展に出品を続け、昭和5年帝国美術院会員、昭和12年帝国芸術院会員、昭和19年帝室技芸員となる。官展の主流である外光派の重要作家として活躍し、老衰のため死去する。
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