●寓画堂随筆(ぐうがどうずいひつ) 文化年間 渡辺崋山 |
寓画堂は文化11年(1814)から数年使用する堂号である。表紙には「寓画堂随筆」と記述されるが、全五十四丁の内容は縮図とスケッチで、「随筆」からイメージされる文字は非常に少ない。九丁目表には谷文晁が文化9年(1812)に描いた亀田鵬斎(1752〜1826)六十歳の像と同じポーズのスケッチが描かれる。十六丁目表から西王母と思われる部分スケッチや建物・調度品の部分詳細はまるで、現代の工芸デザイン画のようである。崋山若き日の眼差しは、張り詰めた緊張感とともに、その真摯な修練の日々を我々に感じさせる。
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●客坐掌記(きゃくざしょうき) 天保4年(1834) 渡辺崋山 |
表紙に「客坐掌□□月 全楽堂」「巳」「計□冊」とある。前年の天保三年のもの(重要
美術品・個人蔵)にも「客坐掌記 天保壬辰、全楽堂」「辰一」「計七冊」とあるのと同じような書付である。天保四年には『全楽堂日録』・『客参録』(いずれも愛知県指定文化財・個人蔵)があり、『客参録』の表紙には「天保癸巳二月二十三日」と書付があり、四月十四日までの田原滞在時の内容が記録されている。『全楽堂日録』の後章に「□巳下客参録」として二月一日から二十二日までの記事がある。『客参録』の後の記録としては『参海雑志』(原本焼失)があり、四月十五日からは渥美半島から神島へ渡り、その後三河を遊歴している。この『客坐掌記』では、田原近郷の古刹長仙寺・西光寺などにあった什物や田原藩主三宅家の家紋であった輪宝の描かれた軍配や南坊流茶道第十一代の宗匠であり、四代藩主三宅康高(藩主在位1745〜1755)であった了閑の印が記録されており、田原の地への知的好奇心を垣間見ることができる。
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●滝山水図(たきさんすいず) 文化14年(1817) 亀田鵬斎 |
落款は「丁丑夏四月寫 鵬斎老人」とあり、白文方形印の「長興私印」と朱文方形印の「鵬斎間人」を捺す。「鵬斎老人」の落款は六十歳代から七十歳代のものであるが、この作品も六十六歳のものである。画としては谷文晁をはじめとして、交流した多くの画家達が精緻で優雅な色使いを駆使するのに対抗するように、自然や精神性を重んじて描き、本来の文人画を目指したものである。 |
●花鳥図(かちょうず) 江戸時代後期 谷 幹々 |
十六歳で谷文晁に嫁いだ幹々の絵の師は夫であった。残念ながら三十歳で亡くなっている。小点の山水図か、花鳥図が多いが、この作品では色鮮やかな鳥を中心に、輪郭を描かずに一気呵成に作品を仕上げる。男性的にダイナミックな作品が仕上がっている。 |
●溪山楼閣図(けいざんろうかくず) 江戸時代後期 春木南湖 |
南湖が最も得意としていたのは山水で、墨を基調に軽妙瀟洒な画風と言える。墨の濃淡でみずみずしい緑豊かな山と軽やかな線で建物や橋を描いている。
長崎で来舶清人画家であった費晴湖に絵を学んでいるが、晴湖も淡墨で温雅な画風であり、当時の日本人の嗜好にあった。当時の『江戸當時諸家人名録』に、「南湖」の名の横に「画山水」と記され、多くの需要を抱えていたのであろう。 |
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●谷文晁[たに ぶんちょう] |
宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)
字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人谷麓谷(1729〜1809)の子として江戸に生まれ、中山高陽(1717〜1780)の門人渡辺玄対(1749〜1822)に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身で寛政の改革を行う老中松平定信(1758〜1829)付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、『石山寺縁起絵巻』の補作、また定信の御用絵師を勤めた。
明清画を中心に中国・日本・西洋などのあらゆる画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p(1796〜1843)、立原杏所(1785〜1840)がいる。
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●亀田鵬斎[かめだ ぼうさい] |
宝暦2年(1752)生まれ、文政9年(1826)に没す。
江戸神田に日本橋馬喰町鼈甲商長門屋の通い番頭の子として生まれ、名は長興、字は図南・穉竜、通称文左衛門、鵬斎、善身堂などと号した。折衷学派の井上金峨(1732〜1784)に師事し、古文辞学を排撃した。同門の山本北山(1752〜1812)と親しく、江戸学界の五鬼に数えられた。寛政異学の禁で弾圧を受け、晩年は酒にひたった。門下からは巻菱湖・館柳湾ら優れた人材が多く出た。晩年下谷金杉に移り住み、酒井抱一・谷文晁・大田南畝ら多くの文人達と交友した。
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●渡辺崋山[わたなべ かざん] |
寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静、のち登と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。八歳より藩の世子御伽役を勤め、藩士としては天保3年(1832)四十歳で年寄り役に至っている。十三歳で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山、福田半香、平井顕斎などがいる。蘭学にも精通したが天保10年(1839)四十七歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入りとなり、翌年一月より田原に蟄居となった。しかし門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保12年、四十九歳で自刃した。 |
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●谷 幹々[たに かんかん] |
寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静、のち登と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。八歳より藩の世子御伽役を勤め、藩士としては天保3年(1832)四十歳で年寄り役に至っている。十三歳で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山、福田半香、平井顕斎などがいる。蘭学にも精通したが天保10年(1839)四十七歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入りとなり、翌年一月より田原に蟄居となった。しかし門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保12年、四十九歳で自刃した。 |
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●春木南湖[はるき なんこ] |
宝暦9年(1759)生まれ、天保10年(1839)に没す。
江戸に生まれ、本姓は結城、名は鯤、字は子魚、通称は門弥。別号に幽石亭、烟霞釣叟、呑墨翁などがある。詩文もよくし、当時の江戸画壇では谷文晁と並び称された。伊勢長島藩主増山雪斎に仕え、京阪・長崎に赴き、画の修行に励んだ。長崎遊学に赴いた際の日記『西游日簿』の執筆は、大坂で著名な好事家木村兼葭堂のもとを出立するところから始まり、岡山の浦上玉堂を訪ね、やはり長崎を目指していた司馬江漢とも同道した。文晁派が挿絵を提供している版本に南湖も提供している例があり、文晁やその門人達との親密な交流がうかがわれる。子の南溟や孫の南華も画人として名をなした。
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