●俳画冊 渡辺崋山 |
全24図で二帖からなり、俳句に俳画が添えられている。崋山は、二十代から俳諧師太白堂と親交があり、崋山自身も俳諧をよくした。弟子の鈴木三岳に与えた『俳画譜』の俳画論の中で、上手に描こうと思う心はかんばしくなく、なるべく下手に描くように指導している。精巧な表現で描くことより、省筆により単純な表現が趣や余韻を生むことが描く人の人格により見る者に訴えかけることを伝えたかったのであろう。崋山自身が日常に身の回りで眼にしたものを題材に自由奔放な精神が俳句に表現されている。落款もなく、年代を特定するのが困難だが、天保年間と考えたい。明復こと松崎慊堂(1771〜1844)の題字「最楽」が添えられている。
各図の俳句 |
飛込むで月日落つく花乃春
鳶乃輪の中に蠢く田打かな
青柳をしらぬ御顔や角大師
穂かきして浮世かなしや夕紅葉
板の間の釘もひかるや夜のさむみ
紙子着てねぎきる役にあたりけり
削掛重荷おろせしひとたばこ
五左衛門に明日の道問ふ董かな
夏の月駱駝の小屋のとれしあと
行秋や薪一把も庭ふさげ
襟さむしこんな夕にさへ雁ハ行
大雪や鼠ひと声ひるすぎる |
鶯乃身はくれて居てなきにけり
留守とおもへばくさめする五月あめ
河鹿啼や木乃間ノ月ニ渉わたり
谷川も人は通らず渡る鷹
竹の根に水さらさらとしぐれけり
それは我師走乃句なりいそげ人
吸ものの上を渡るや春の鐘
草花やともすれば人の垣のぞき
有明や谷川渡る旅からす
枯柳乞食のくさめ聞へけり
霜乃月山樹のとげも見へに遣理(けり)
大井川に喧嘩もなくてしぐれけり |
●仙鶴霊亀図 谷文晁 |
文政後期、谷文晁六十歳代の作品と思われます。仙桃の果実の下、波上に翼を広げた仙鶴と、海上の霊亀は万年の息吹の中に21の群蝶が乱舞する様を描いています。鶴と亀はいずれも寿命が長く、めでたいものとされ、縁起物の画題として需要があり、類作も多く残されています。 |
●李白観瀑図 谷文晁 |
李白(701〜762)は、唐の詩人で、四川の人。その母が太白星を夢見て生んだので太白を字とした。酒を好み、奇行が多く、玄宗の宮廷詩人に招かれたが、高力士らに嫌われて追放される。晩年、王子の反乱に関係して流罪となり、最後は酔って水中の月を捕えようとして溺死したと伝えられる。杜甫と共に並び賞された詩人。李白が瀑布を見て、詩想を練っている様子を描いている。滝を見上げる人物を描く作品には「高士観瀑図」と題されるものもあるが、従者を横に配しているため、「李白観瀑図」と考えられる。
落款の「文晁」の字から文化年間(1804〜18)で、文化4年から5年頃の作例と考えられる。墨色の諧調が増殖していくと、のちの烏文晁時代のあふれるばかりの躍動感ある作品となる。 |
●馬図(絵馬) 渡辺崋山 |
裏書によれば、片浜村の山田甚左衛門・同重五郎・同重左衛門・同六治郎・同安右衛門・同久右衛門・小林傳右衛門の7人が願主となり、片浜観音堂に奉納したものである。「天保十二載丑花月吉辰 所願成就」とあり、天保12年3月に崋山に依頼したものである。はやり立つ馬が2本の杭に繋がれ、後ろ足を蹴り上げようとする様を描く。あたかも崋山自身の心境を表しているようである。 |
●捉魚図(複製) 渡辺崋山 |
「」とは、鵜を指し、今まさに捉えられた鮎を呑み下そうとする鵜が主題となった作品です。鵜の上には、川にせり出した柳の枝から見下ろす翡翠が描かれています。二者の間の緊張感が見る者にも感じ取られる崋山晩期の花鳥画の代表作です。晩期の崋山作品には、描かれた対象が、暗に自分自身の置かれた立場を投影したものであったり、小動物を組み合わせ、鎖国日本と海外列強の緊張感を比喩的に感じさせるという説がある。
款識は、画面左上に「法沈衡斎之意 乙未六月下浣 崋山登」とあり、天保6年(1835)にあたるが、田原幽居中の日記『守困日歴』にこの作品に関連すると思われる記述があり、内容は「青緑山水、捉魚の二幀を画く、鈴木春山持去る」とあり、田原藩の蘭法医であった春山が本作品を「青緑山水図」とともに持去ったことが知られる。これにより蟄居中の天保十一年以降の作品と推定されています。
「沈衡斎の意に法る」とは、沈南蘋で、この作品も南蘋の画風を学習したものと、崋山は書いています。しかし、単なる摸写でなく、画家としてのリアリスムと、学者であり、藩の重役としてのストイックな部分を併せ持った時代の先覚者としての苦悩が緊張感として作品にみなぎっています。 |
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