平常展 谷文晁と渡辺崋山
展示期間 平成18年4月28日(金)〜平成18年5月28日(日)
関東文人画界の大御所として活躍した谷文晁に渡辺崋山が入門したのは17歳でした。その前後の文晁作品と崋山後半生の作品を中心に展示します。
 
展示作品リスト
特別展示室
指定 作品名 作者名 年代 備考
  画学斎図藁
(ががくさいずこう)
谷 文晁
(たにぶんちょう)
文化9年(1812)  
  画冊
(がさつ)
谷 文晁 寛政3年(1791)  
  歴代名公画譜
(れきだいめいこうがふ)
谷 文晁 寛政10年(1798)  
  日本名山図会
(にほんめいざんずえ)
谷 文晁 江戸時代後期  
  写山楼印譜
(しゃざんろういんぷ)
  大正7年(1918) 芸苑叢書一期
(げいえんそうしょいっき)
  文晁画譜
(ぶんちょうがふ)
谷 文晁 文久2年(1862)  
  俳画冊
(はいがさつ)
渡辺崋山
(わたなべかざん)
天保年間 2冊
  全楽堂主人墨画(画道名巻)
(ぜんらくどうしゅじんぼくが(がどうめいかん))
渡辺崋山 天保3年(1832)  
  牧童之図(画道名巻)
(ぼくどうのず)
渡辺崋山 天保3年(1832)  
  曳牛(画道名巻)
(えいぎゅう)
渡辺崋山 天保3年(1832)  
  闘鶏之図(画道名巻)
(とうけいのず)
渡辺崋山 天保3年(1832)  
  黄菊遊禽之図(画道名巻)
(こうぎくゆうきんのず)
渡辺崋山 天保3年(1832)  
  大黒天(画道名巻)
(だいこくてん)
渡辺崋山 天保3年(1832)  
  梔子雙雀(画道名巻)
(ししそうじゃく)
渡辺崋山 天保3年(1832)  
  孔明・関羽之図
(こうめい・かんうのず)
谷 文晁 寛政6年(1794)  
  千山万水図
(せんざんばんすいず)
谷 文晁 文化4年(1807)  
  夏山騎馬図
(かさんきばず)
谷 文晁 文化5年(1808)  
  楊貴妃之図
(ようきひのず)
谷 文晁 江戸時代後期  
  李白観瀑図
(りはくかんばくず)
谷 文晁 文化年間  
  仙鶴霊亀図
(せんかくれいきず)
谷 文晁 江戸時代後期  
  猛虎図
(もうこず)
谷 文晁 江戸時代後期  
重文 板絵墨画馬図
(いたえぼくがうまず)
渡辺崋山 天保12年(1841)  
市文 晴風万里図
(せいふうばんりず)
渡辺崋山 天保8年(1837)  
市文 千山万水図稿
(せんざんばんすいずこう)
渡辺崋山 天保年間  
  捉魚図(複製)
(ろじそくぎょず)
渡辺崋山 天保11年(1840) 原本は出光美術館蔵
  猛虎図(
もうこず)
渡辺崋山 江戸時代後期 個人蔵

※ 期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、
 照明を落としてあります。ご了承ください 。

作品紹介
●俳画冊 渡辺崋山
全24図で二帖からなり、俳句に俳画が添えられている。崋山は、二十代から俳諧師太白堂と親交があり、崋山自身も俳諧をよくした。弟子の鈴木三岳に与えた『俳画譜』の俳画論の中で、上手に描こうと思う心はかんばしくなく、なるべく下手に描くように指導している。精巧な表現で描くことより、省筆により単純な表現が趣や余韻を生むことが描く人の人格により見る者に訴えかけることを伝えたかったのであろう。崋山自身が日常に身の回りで眼にしたものを題材に自由奔放な精神が俳句に表現されている。落款もなく、年代を特定するのが困難だが、天保年間と考えたい。明復こと松崎慊堂(1771〜1844)の題字「最楽」が添えられている。

各図の俳句
飛込むで月日落つく花乃春
鳶乃輪の中に蠢く田打かな
青柳をしらぬ御顔や角大師
穂かきして浮世かなしや夕紅葉
板の間の釘もひかるや夜のさむみ
紙子着てねぎきる役にあたりけり
削掛重荷おろせしひとたばこ
五左衛門に明日の道問ふ董かな
夏の月駱駝の小屋のとれしあと
行秋や薪一把も庭ふさげ
襟さむしこんな夕にさへ雁ハ行
大雪や鼠ひと声ひるすぎる
鶯乃身はくれて居てなきにけり
留守とおもへばくさめする五月あめ
河鹿啼や木乃間ノ月ニ渉わたり
谷川も人は通らず渡る鷹
竹の根に水さらさらとしぐれけり
それは我師走乃句なりいそげ人
吸ものの上を渡るや春の鐘
草花やともすれば人の垣のぞき
有明や谷川渡る旅からす
枯柳乞食のくさめ聞へけり
霜乃月山樹のとげも見へに遣理(けり)
大井川に喧嘩もなくてしぐれけり
●仙鶴霊亀図 谷文晁
 文政後期、谷文晁六十歳代の作品と思われます。仙桃の果実の下、波上に翼を広げた仙鶴と、海上の霊亀は万年の息吹の中に21の群蝶が乱舞する様を描いています。鶴と亀はいずれも寿命が長く、めでたいものとされ、縁起物の画題として需要があり、類作も多く残されています。
●李白観瀑図 谷文晁
 李白(701〜762)は、唐の詩人で、四川の人。その母が太白星を夢見て生んだので太白を字とした。酒を好み、奇行が多く、玄宗の宮廷詩人に招かれたが、高力士らに嫌われて追放される。晩年、王子の反乱に関係して流罪となり、最後は酔って水中の月を捕えようとして溺死したと伝えられる。杜甫と共に並び賞された詩人。李白が瀑布を見て、詩想を練っている様子を描いている。滝を見上げる人物を描く作品には「高士観瀑図」と題されるものもあるが、従者を横に配しているため、「李白観瀑図」と考えられる。
落款の「文晁」の字から文化年間(1804〜18)で、文化4年から5年頃の作例と考えられる。墨色の諧調が増殖していくと、のちの烏文晁時代のあふれるばかりの躍動感ある作品となる。
●馬図(絵馬) 渡辺崋山
 裏書によれば、片浜村の山田甚左衛門・同重五郎・同重左衛門・同六治郎・同安右衛門・同久右衛門・小林傳右衛門の7人が願主となり、片浜観音堂に奉納したものである。「天保十二載丑花月吉辰 所願成就」とあり、天保12年3月に崋山に依頼したものである。はやり立つ馬が2本の杭に繋がれ、後ろ足を蹴り上げようとする様を描く。あたかも崋山自身の心境を表しているようである。
捉魚図(複製) 渡辺崋山
」とは、鵜を指し、今まさに捉えられた鮎を呑み下そうとする鵜が主題となった作品です。鵜の上には、川にせり出した柳の枝から見下ろす翡翠が描かれています。二者の間の緊張感が見る者にも感じ取られる崋山晩期の花鳥画の代表作です。晩期の崋山作品には、描かれた対象が、暗に自分自身の置かれた立場を投影したものであったり、小動物を組み合わせ、鎖国日本と海外列強の緊張感を比喩的に感じさせるという説がある。
 款識は、画面左上に「法沈衡斎之意 乙未六月下浣 崋山登」とあり、天保6年(1835)にあたるが、田原幽居中の日記『守困日歴』にこの作品に関連すると思われる記述があり、内容は「青緑山水、捉魚の二幀を画く、鈴木春山持去る」とあり、田原藩の蘭法医であった春山が本作品を「青緑山水図」とともに持去ったことが知られる。これにより蟄居中の天保十一年以降の作品と推定されています。
「沈衡斎の意に法る」とは、沈南蘋で、この作品も南蘋の画風を学習したものと、崋山は書いています。しかし、単なる摸写でなく、画家としてのリアリスムと、学者であり、藩の重役としてのストイックな部分を併せ持った時代の先覚者としての苦悩が緊張感として作品にみなぎっています。
 
作者の略歴
●渡辺崋山[わたなべ かざん]
 寛政5年(1793)〜天保12年(1841)
 三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静、のち登と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。8歳より藩の世子御伽役を勤め、藩士としては天保3年(1832)40歳で年寄り役に至っている。13才で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山、福田半香、平井顕斎などがいる。蘭学にも精通したが天保10年(1839)47歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入りとなり、翌年一月より田原に蟄居となった。しかし門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保12年、49歳で自刃した。
●谷 文晁[たに ぶんちょう]
 宝暦13年(1763)〜天保11年(1840)
 字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人谷麓谷(1729〜1809)の子として江戸に生まれ、中山高陽(1717〜1780)の門人渡辺玄対(1749〜1822)に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身で寛政の改革を行う老中松平定信(1758〜1829)付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、『石山寺縁起絵巻』の補作、また定信の御用絵師を勤めた。
 明清画を中心に中国・日本・西洋などのあらゆる画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p(1796〜1843)、立原杏所(1785〜1840)がいる。
田原市博物館/〒441-3421 愛知県田原市田原町巴江11-1 TEL:0531-22-1720 FAX:0531-22-2028
URL: http://www.taharamuseum.gr.jp