企画展示室2 |
指定 |
作品名 |
作者名 |
年代 |
備考 |
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晁吟
(ちょうぎん) |
伊藤鳳山
(いとうほうざん) |
慶応3年(1867) |
竹内稔弘・
文子寄贈 |
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詩書
(ししょ) |
鳳来山蟄龍上人
(ほうらいさんちつりゅうしょうにん) |
明治元年(1868) |
個人蔵 |
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伊藤鳳山絶筆
(いとうほうざんぜっぴつ) |
伊藤鳳山 |
明治3年(1870) |
個人蔵 |
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詩書屏風
(ししょびょうぶ) |
伊藤鳳山 |
明治2年(1869) |
個人蔵 |
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詩書屏風 |
伊藤鳳山 |
江戸時代後期 |
六曲一双 |
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経国無是問答
(けいこくむぜもんどう) |
伊藤鳳山 |
嘉永6年(1853) |
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傷寒論文字攷続
(しょうかんろんもじこうぞく) |
伊藤鳳山 |
嘉永6年(1853) |
2冊 |
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学半楼十幹集
(がくはんろうじゅっかんしゅう) |
伊藤鳳山 |
天保13年(1842) |
3冊 |
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学半楼十幹集乙篇・丙篇
(がくはんろうじゅっかんしゅう
おつへん・へいへん) |
伊藤鳳山 |
天保15年(1844) |
3冊 |
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孫子詳解
(そんししょうかい) |
伊藤鳳山 |
文久2年(1862) |
13冊 |
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肥前佐賀住國廣
(ひぜんさがじゅうくにひろ) |
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伊藤家伝来
わきざし |
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※ 期間中、展示を変更する場合がございます。また展示室は作品保護のため、
照明を落としてあります。ご了承ください 。
●伊藤鳳山[いとう ほうざん] |
文化3年(1806)〜明治3年(1870)に没す。
羽後国(うごのくに)酒田本町三丁目の町医伊藤維恭(いきょう)(医業のかたわら鹿鳴塾を経営、儒学を指導)の家に生まれた。名を馨、字は子徳、通称大三郎。鳳山・学半楼と号した。江戸に出て朝川善庵(1781〜1849)塾に入り、諸大名に講書に出る儒者となる。名古屋の医師浅井塾に入り、医を学び、塾頭となる。天保9年(1838)崋山の推挙により、田原藩校成章館教授に迎えられ子弟の教育につくす。二年にして辞し京都−江戸にて塾「学半楼」を開くが、元治元年(1864)田原藩主より要請を受け、生涯を田原に終える決心をもって応じる。明治3年1月23日田原に没す、65歳。著書多数あり。田原藩には過ぎたる大儒であった。 |
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●詩書 鳳来山蟄龍上人[ししょ ほうらいさんちつりゅうしょうにん] |
鳳山は63歳にして初めて子供ができた。その知らせを夏の避暑に来た鳳来寺山で聞く。蟄龍は号で、姓を松井、名を圓潭と言った。尾張の武士の息子で、江州坂本の神職で、詩に長じていた。 |
●伊藤鳳山絶筆[いとうほうざんぜっぴつ] |
煖衣飽食逸居身 今歳亦斯為客臣 幸恵深蒙不知乏 歓迎六十五年春
逢新奉謝公之深恵 六十五翁鳳山伊藤馨拝稿 |
●経国無是問答[けいこくむぜもんどう] |
嘉永6年(1853)6月、アメリカのペリーが浦賀に来航し、国書を提出した。7月、幕府は諸侯に対外意見を求めたため、翌月に尊王開国を唱えた書物を完成した。その自筆本である。奥書に「此書癸丑八月念日 因多紀楽眞院法印奉閣老阿部伊勢守 同因水戸藩士鴨志田傳五郎奉景山老侯 尋作興國九経策一篇再奉 時九月年四日也」とある。 |
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