●渡辺崋山[わたなべ かざん] |
寛政五年(一七九三)生まれ、天保十二年(一八四一)に没す。
三河国田原藩士の子として江戸に生まれる。名は定静(さだやす)、のち登(のぼり)と称す。字は子安、はじめ華山、のち崋山と号した。また全楽堂・寓画斎などとも称した。八歳より藩の世子御伽役を勤め、藩士としては天保三年(一八三二)四十歳で年寄役に至っている。十三歳で鷹見星皐に入門、のち佐藤一斎に師事した。画においては、金子金陵、さらに谷文晁に入門し、南宗画や南蘋画、また西洋画法を学び、人物画とくに肖像画を中心に花鳥画・山水画に優れた作品を遺している。門人には椿椿山、福田半香、平井顕斎などがいる。蘭学にも精通したが天保十年(一八三九)四十七歳の時、「蛮社の獄」により揚屋入りとなり、翌年一月より田原に蟄居となった。しかし門人達が開いた画会によって藩主に迷惑がかかると憂い、天保十二年、四十九歳で自刃した。
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●谷文晁[たに ぶんちょう] |
宝暦十三年(一七六三)生まれ、天保十一年(一八四〇)に没す。
字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人谷麓谷(一七二九〜一八〇九)の子として江戸に生まれ、中山高陽(一七一七〜一七八〇)の門人渡辺玄対(一七四九〜一八二二)に画を学ぶ。天明八年(一七八八)二十六歳で田安徳川家に出仕。寛政四年(一七九二)田安家出身で寛政の改革を行う老中松平定信(一七五八〜一八二九)付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、『石山寺縁起絵巻』の補作、また定信の御用絵師を勤めた。
明清画を中心に中国・日本・西洋などのあらゆる画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p(一七九六〜一八四三)、立原杏所がいる。
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●平山文鏡[ひらやま ぶんきょう] |
享保十七年(一七三二)生まれ、享和元年(一八〇一)に没す。
平山家は藩主三宅家が三河挙母を治めていた時代から召し抱えられ、寛文四年(一六六四)に田原藩主となった三宅家に従い田原へやってきている。名を直員、天明六年(一七八六)家老職に就く。寛政三年(一七九一)隠居して家督を実弟直昌に譲り、誓山のち、?山と改める。画号を文鏡、南坊流茶道を田原三宅四代藩主康高こと了閑(一七一〇〜九一)に学び、宗匠となって茶号を雁々斎と号した。画道を狩野派の加藤文麗(一七〇六〜八二)に学んだ。文麗は谷文晁の師としても知られる。
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●加藤文麗[かとう ぶんれい] |
宝永三年(一七〇六)生まれ、天明二年(一七八二)に没す。
伊予大洲藩主加藤泰恒(一六五七〜一七一五)の六男として生まれ、名を泰都、通称を織之助、予斎とも号す。幕府の西丸小姓組番頭をつとめた。画を狩野周信に学び、谷文晁の最初の師として知られる。
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●白川芝山[しらかわ しざん] |
宝暦九年(一七五九)生まれ、嘉永三年(一八五〇)に没す。
洲本金屋の賀集家に生まれ、名を景皓、通称を芳介、大観堂・東山外史と号す。家は代々醸造業を営み、裕福であった。また俳句にも秀で、玉蕉庵と号し、俳画も残している。天明二年(一七八二)京都に上り、白川宮主催の席画会で賞賛を受け、白川姓を許されたと言われる。文化初年に江戸へ出て、麻布飯倉に書画の塾を開いた。渡辺崋山が入門したのもこの頃である。出版活動も行い、書法では『歴代草書選』、俳諧では『おそみどり』『四海句草子』を出版している。のち大坂へ転居し、茶臼山に住んだ。天保後半期、一旦淡路に戻り、五年ほど過ごした後、再び京都へ出た。法名金台寿光信士。
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●金子金陵[かねこ きんりょう] |
生年不詳、文化十四年(一八一七)に没す。
旗本寄合席大森勇三郎の家臣で、名を允圭、字は君璋、通称を平太夫、別に日南亭と号す。画を谷文晁(一七六三〜一八四〇)に学んだといわれ、沈南蘋(一六八二〜?)風の花鳥画を得意としていた。大森家には安永年間に(一七七二〜一七八一)田原藩主三宅康之(一七二九〜一八〇三)の三女お滝が嫁いでいる。崋山自筆の『退役願書稿』(重要文化財、田原市蔵)によれば、白川芝山の画塾の授業料が払えなくなり、父の勧めで金陵の弟子になったとある。崋山の文化十二年の日記である『寓画堂日記』や同十三年の『謾録』にも、金陵の記述が度々見られる。渡辺崋山・椿椿山・滝沢琴嶺(馬琴の長男一七九八〜一八三五)の師として知られる。
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