●永村茜山[ながむら せんざん] |
文政3年(1820)生まれ、文久2年(1862)に没す。
永村茜山は幕府の祐筆長谷川善次郎の三男として江戸赤坂に生まれた。幼名寿三郎、通称は晋吉、名は寛、字は済猛、号は寿山、のちに茜山と称した。茜山は崋山の日記『全楽堂日録』(愛知県指定文化財、個人蔵)の文政13年11月6日の項に初めて登場する。この時、11歳になる。この頃の崋山は毎月一と六のつく日に画塾を開いていて、その画塾に茜山は通ってきていた。天保9年(1838)19歳のとき、代官羽倉外記(1790〜1862)の伊豆七島巡視に参加し、正確な地図と美しい写生図を描いている。崋山が蛮社の獄で捕えられると、茜山は江戸を去り、諸国を旅する。二十歳代の中国人物画も多く知られているが、永村を名乗るのは、嘉永元年(1848)29歳で金谷宿の組頭職永村家の婿養子に入ってからのことである。以来、組頭の仕事を盛り立て、筆を置いたが、後年、山本?谷の名声を聞き、画業を志すが、評判が低く失意の晩年を過ごした。若くして師である崋山に画技を認められながら、充分に発揮できずに生涯を終えた。 |
●山本?谷[やまもと きんこく] |
文化8年(1811)生まれ、明治6年(1873)に没す。
石見国(島根県)津和野藩亀井侯の家臣吉田吉右衛門の子として生まれたが、同藩の山本家に養子した。名は謙、字は子譲。藩の家老多胡逸斎(1802〜57)に絵を学び、のち家老出府に従い江戸に上り崋山の門に入った。崋山が蛮社の獄で捕えられると天保11年には、椿椿山(1801〜54)に入門した。嘉永6年(1853)には津和野藩絵師となった。人物・山水画を得意とし、後に津和野藩主より帝室に奉献された窮民図巻(難民図巻)を描いたことで知られる。明治6年にオーストリアで開催された万国博覧会に出品された『稚子抱猫図』は好評を得た。弟子として荒木寛友(1850〜1920)・高森砕巌(1847〜1917)等がいる。 |
●長尾華陽[ながお かよう] |
文政7年(1824)生まれ、大正2年(1913)に没す。
浜名郡篠原村馬群に代官藤田権十郎の三男として生まれ、名を正名、字を拙庵、華陽・不休庵と号した。江戸に出て漢学を大橋訥庵に、書を巻菱湖に、画を弘化元年(1844)から椿椿山画塾琢華堂で学ぶ。実兄は代官勤務をしながら、画もし、松湖と号した。江戸から戻り、吉田(現豊橋市)の呉服商奈良屋の長尾家をつぎ、作兵衛を襲名した。廃藩時は士族に列せられ、明治維新後、家業を子に譲り、茶道・画道を主とした生活であった。明治17年(1884)の第二回内国絵画共進会に出品、明治30年頃、神官となり、湊町神明社には二十年奉仕した。 |
●松林桂月[まつばやし けいげつ] |
明治9年(1876)生まれ、昭和38年(1963)に没す。
山口県萩市に伊藤篤一の次男として生まれた。名は篤。明治27年(1894)に上京、野口幽谷に師事した。同31年に幽谷門下の松林雪貞と結婚し、松林姓を名乗るようになる。明治41年第二回文展から出品し、第五回から第八回まで連続三等賞を受賞する。昭和8年(1933)帝国美術院会員、同19年帝室技芸員となり、同33年文化勲章を受章。近代日本南画界を代表する作家である。 |
●松井春泉[まつい しゅんせん] |
天保14年(1843)生まれ、大正10年(1921)に没す。
兵庫県明石市に生まれ、医学を修め、のちに軍医となる。明治17年(1884)豊橋で歩兵十八聯隊の病院長になる。退官後、明治21年に豊橋慈善病院初代院長となる。豊橋在住の白井永川(1884〜1942)・烟(1894〜1976)にも影響を与えた。 |
●山内 一生[やまうち いっせい] |
昭和4年(1929)〜
手漉き和紙作家の第一人者で、重要無形文化財保持者。地元の小原工芸紙で芸術作品を作成。日展入選18回。日展無鑑査。紺綬褒章受賞。 |
●朝見香城[あさみ こうじょう] |
明治23年(1890)〜昭和49年(1974)に没す。
兵庫県姫路市に生まれ、はじめ画を森月城(1887〜1961)に学び、のち京都に出て西山翠嶂(1879〜1958、昭和32年文化勲章受賞)に師事し、花鳥画をよくする。大正元年(1912)に名古屋に移り、大正4年文展に初入選、以来、帝展・日展で入選した。昭和3年(1928)に若手作家と、中京美術院を創設し、後進の育成に尽力した。昭和25年に愛知県文化功労賞受賞。 |
●沈南蘋[しん なんぴん] |
生没年不詳(1682〜?)。
清の画家。浙江省呉興出身で、名は銓、字は衡斎。色彩鮮やかな写実的花鳥画で人気を博した。享保16年(1731)12月から同18年9月まで長崎に滞在し、約2年間の間に日本人の熊斐(ゆうひ、1712〜72)に画を教え、彼から多くの孫弟子が育成され、長崎派と呼ばれる画派が生まれた。
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●谷文晁[たに ぶんちょう] |
宝暦13年(1763)生まれ、天保11年(1840)に没す。
字は文晁。写山楼・画学斎などと号す。田安家の家臣で、当時著名な漢詩人谷麓谷(1729〜1809)の子として江戸に生まれ、中山高陽(1717〜1780)の門人渡辺玄対(1749〜1822)に画を学ぶ。天明8年(1788)26歳で田安徳川家に出仕。寛政4年(1792)田安家出身で寛政の改革を行う老中松平定信(1758〜1829)付となり、その巡視や旅行に随行して真景図を制作し、『集古十種』『古画類聚』編纂事業、『石山寺縁起絵巻』の補作、また定信の御用絵師を勤めた。
明清画を中心に中国・日本・西洋などのあらゆる画法を広く学び、当時を代表する多数の儒者・詩人・書画家たちと交流し、関東画檀の主導的役割を果たした。また画塾写山楼において数多くの門人を育成し、代表的な門人に、渡辺崋山、高久靄p(1796〜1843)、立原杏所(1785〜1840)がいる。 |
●椿椿山[つばき ちんざん] |
享和元年(1801)生まれ、嘉永7年(1854)に没す。
名は弼(たすく)、字は篤甫、椿山・琢華堂・休庵などと号した。江戸に生まれ、父と同じく幕府槍組同心を勤めるとともに、画業・学問に励んだ。平山行蔵(1760〜1829)に師事し長沼流兵学を修め、また俳諧、笙にも長じ、煎茶への造詣も深かった。画は、はじめ金子金陵に学び、金陵没後、同門の渡辺崋山に入門、また谷文晁にも学ぶ。ヲ南田の画風に私淑し、没骨法を得意として、明るい色調の花卉画及び崋山譲りの肖像画を得意とした。
温和で忠義に篤い人柄であったといい、崋山に深く信頼された。崋山の入牢・蟄居の際、救援に努め、崋山没後はその遺児諧(小華)の養育を果たしている。門人には、渡辺小華、野口幽谷(一八二七〜九八)などを輩出し、「崋椿系」画家の範となった。 |
●喜多川相説[きたがわ そうせつ] |
生没年不詳。
江戸時代前期の画家。俵屋宗達と同じ「伊年」印を用い、宗達の後継者と伝えられる。号は宗説とも書く。代表作に『四季草花図屏風』(根津美術館蔵) |
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