渡辺崋山 寛政5年(1793)〜天保12年(1841) |
崋山は江戸麹町田原藩上屋敷に生まれました。絵は金子金陵から谷文晁につき、人物・山水画では、西洋的な印影・遠近画法を用い、日本絵画史にも大きな影響を与えました。
天保3年、40歳で藩の江戸家老となり、困窮する藩財政の立て直しに努めながら、幕末の激動の中で内外情勢をよく研究し、江戸の蘭学研究の中心にいましたが、「蛮社の獄」で高野長英らと共に投獄され、在所蟄居となりました。画弟子たちが絵を売り、恩師の生計を救おうとしますが、藩内外の世評により、藩主に災いの及ぶことをおそれ、天保12年に田原池ノ原で自刃しました。 |
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椿 椿山 享和元年(1801)〜安政元年(1854) |
椿山は享和元年6月4日、江戸に生まれました。幕府の槍組同心として勤務するかたわら、崋山と同様に絵を金子金陵に学び、金陵の死後、谷文晁にも学びましたが、後に崋山を慕い、師事するようになります。人物山水も描きますが、特に南田風の花鳥画にすぐれ、崋山の画風を発展させ、崋椿画系と呼ばれるひとつの画系を築くことになります。また、蛮社の獄の際には、椿山は崋山救済運動の中心となり、崋山没後は二男の諧(小華)を養育し、花鳥画の技法を指導しています。 |
■椿山のエピソード
飯少なく、遊少なく、眠少なく、言葉少なく、磨墨少なく、着筆少なく、彩色少なく、酒を飲まず、女に近付かず、煙草を喫せず、故に十少と称す(友人の言)。
椿山は嘉左衛門定重(幕府槍組)54歳の二男二女の末子で、文化4年(1807)、7歳の時に、父と死別し、母の手ひとつで育てられました。世襲の幕府槍組同心を早い時期に辞し(金井烏州『無声詩話』によれば、天保年間か?)、画業、学問に励みました。長沼流兵学(師は平山行蔵)、槍術、居合(片山流抜刀法)、馬術の達人。笙笛の名手。煎茶(天保9年頃から始める)もたしなむ。 |
■渡辺崋山の教え
@写生重視
A気韻生動を重んじる=精神の充実
B写意(=東洋画の精神、技術を実現)のために写生(=西洋的、近代的なレアリスムの実践)が必要である。
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■椿椿山の画変遷期(主として花鳥画) |
1期 文政年間(〜1829)まで |
古画の摸写 |
2期前期 天保年間(〜1843)まで |
沈南蘋・うん南田風、没骨法 |
2期後期 弘化年間〜嘉永元年(1848) |
軽やかな着彩、速筆 |
3期 嘉永2年(1849)〜没年(嘉永7年) |
「たらし込み」表現の完成=潤い感。写生から写意へ。 |
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